誰より手料理を喜んだ夫の影響で、歌手から料理の道へ。レミさんが考案するレシピには、にぎやかな家族との思い出がいっぱい! イラストレーターで最愛の夫、和田誠さんを亡くした後、抜け殻のようになったレミさんを支えたのは、息子や本音をぶつけ合える嫁、孫たちの存在だった――。エッセイ集『家族の味』(ポプラ社)に温かな思い出の数々を綴ったばかりのレミさん。料理で結ばれた強い絆と、家族だけが知る素顔とは?
47年間連れ添った夫・和田誠さんを亡くして
料理愛好家の平野レミさんの1日は、丁寧にお茶を淹れることから始まる。
「お父さん、乾杯!」
和田誠さんが穏やかにこちらを見つめる写真の前に茶碗を置く。手に持った茶碗をカチーンと合わせると、レミさんは思いつくままに話しかける。著名なイラストレーターで最愛の夫だった和田さんが1年半前に83歳で亡くなって以来、毎朝の日課だ。
「ちゃんと湯冷ましをしてちょっとぬるめにして、本当に、おいしい、おいしい、おいしーいお茶を淹れてね。だってね、和田さん、最後は肺炎になっちゃって水も飲めなかったんだから。それで骨になってうちに帰ってきたときに、大好きだったお茶を淹れて“はい”ってあげたの。そうしたら、和田さんがいつもと同じように“うん”って言ったのよ。和田さんの骨もちょっとカリカリって食べちゃったからさ。もう、一心同体よ。私の身体のどこかに和田さんが入ってるのよ。うれしいね」
テレビで見るまんま、テンション高めの声に早口で息つく間もなく話すレミさん。不思議なことは「ほかにもあった」と興奮ぎみに続ける。
2015年からNHKで『平野レミの早わざレシピ! 』に出演。ビックリするような創作料理を毎回たくさん作ってきた。今年2月に第10弾が放送されたが、その収録直前のこと。
「お父さんに、もうすぐ、たった1人で1時間の生放送をやるんだと話したら、放送の前の晩に夢に出てきちゃったの。それまで出てきたことないのにさ。不思議よねー」
無口だった和田さんは夢の中でも何も言わずに笑っているだけだったが、励ましてくれていると感じたそうだ。無事に生放送が終わった翌朝。レミさんはお茶を淹れて、こう報告した。
「お父さん、やったよー! 応援してくれて、ありがとうねー」
家の中には仏壇や線香は置いていない。
「和田さんに仏壇は似合わないと思って。チーンってやったらさ、本当に死んじゃったみたいじゃない」
その代わり、仲よしだった写真家の篠山紀信さんが撮ってくれた和田さんの写真の周りは、いつも色とりどりのお花であふれている。今でも、ふとした拍子に涙がこぼれる。「昨日もね」と話し始めたのは、ある商品のパッケージ作りが終わった直後のエピソード。
「早くうちに帰って、私の顔写真が載った商品パッケージをお父さんに見せようと思ったの。その瞬間、ああ、和田さん、もういないんだと思ったら、涙が出ちゃった。スタッフもみんな目が真っ赤になっちゃって。和田さんが生きていたときはいつもそうしていたから」
レミさんにとって和田さんは47年間連れ添った夫、2人の息子をともに育てた父親というだけではない。
結婚当初はただ料理好きな主婦だったレミさんを、料理愛好家の平野レミとして世に送り出してくれた、かけがえのない存在だ。
「今までは和田さんの手のひらにのっかって、自由自在に好きなようにやってきたけど、その手のひらがさ、土台がなくなっちゃったのよ……。私は、これからが地獄よ。今までが幸せだったから。あんまりね、いい人と結婚しないほうがいいかもね。死んだ後がたまらないから、本当に」
しんみりとした口調で話すレミさん。和田さんが亡くなった直後の嘆きぶりはどれほどだったろうか。
当時のレミさんの様子を話してくれたのは、食育インストラクターの和田明日香さん(33)。明日香さんは、レミさんの次男でCMプランナーの和田率さん(41)と結婚して11年。10歳を頭に3人の子どもがいる。
「お義父さんの写真の前にずーっといて、お義父さんの書いたメモとかをずーっと眺めていて。お義母さんはもう、本当に抜け殻というか、ものすごい喪失感で、何日もご飯も食べないし、水も飲まないし。
心配になるくらいの様子だったので、しばらくはうちに泊まってもらって。私も同じ年に実母を突然亡くしていて、何も話さなくても気持ちがわかるので、よくお義母さんと2人で抱き合って泣きました。今でもたまに2人でボロボロ泣きながら、お酒を飲んでいます」
明日香さんにとってレミさんは姑だが、レミさんはまったく裏表がなく、本音と建前を使い分けるのが苦手なため、常に本心でぶつかりあえる間柄だという。そんな明日香さんから見た、レミさんと和田さんはどんな夫婦だったのだろうか。
「いつもお義母さんが100しゃべったら、お義父さんは0.5くらいなんだけど(笑)、なぜかバランスが取れていて。お互いがお互いのことを大事に思って尊敬しあっていて、本当に素敵な夫婦でしたね」
結婚の日に焼いたステーキ
レミさんが結婚したのは1972年。シャンソン歌手としてテレビで歌うレミさんを見て、和田さんがひと目惚れしたのが始まりだ。
当時、レミさんは久米宏さんとラジオ番組に出ていた。すでにイラストレーターとして活躍していた和田さんは、友人の久米さんにレミさんを紹介してほしいと頼んだ。だが、レミさんの自由奔放な発言に振り回されていた久米さんの返答は「やめておきなさい」。それでも和田さんはあきらめず、ラジオ番組のディレクターに頼むと「紹介してもいいけど責任は持ちませんよ」とまで言われた。
一方、レミさんにとってはまるで知らない人からの突然のアプローチだ。どう感じたのだろうか。
「私も、いろんな男の人と付き合ったけど、和田さんは全然違うの。大地にどっしりと立っている感じがして、全然揺らがないの。とっても自信に満ちているんだけど、偉そうな感じはしない。和田さんは無口だから、そんなにしゃべってないんだけどさ、 “あ、この人いいな”と思っちゃったのよ。“結婚しよう”と言うから、私も慌てて、“しましょう、しましょう”って。アハハハハ」
10日後には、本当に結婚してしまったのだから、よっぽど気が合ったのだろう。結婚式はせず、和田さんのアパートで『ウエディング・マーチ』のレコードをかけ、シャンパンを開けてレミさんがステーキを焼き2人で食べた。
常温に戻した肉の片面に塩、コショウを振る。熱くしたフライパンに油をひいて、肉を焼く。焼き加減を10とした場合、塩、コショウのついていない面を先に7焼いて、裏返して3焼く。最後に醤油をパッとたらし、バターを少量のせてできあがりだ。
近所のスーパーで買ったごく普通の肉が、レミさんの母直伝の焼き方で、天下一品の味に変身!
「おいしい」
満足そうに食べた後、和田さんがこうつぶやいた。
「死ぬまでにレミの料理があと何千回食べられるかなあ」
その言葉を聞いたレミさんの心にスイッチが入る。
「あ、この人は食べることに命をかけているな。そう感じたから、よし、私も頑張って、お料理を作っちゃおうと」
食卓にたくさんの料理を並べると、和田さんは必ず、食べたことのない料理から箸をつけた。そして、「おいしいけど、ちょっとコクが足りないかな」など感想を口にする。
「やさしいのよねぇ、言い方が。“こんなマズいものダメだ”なんて言われちゃったら、“もうやんねえよ”ってなるけど、いつも心から、“おいしい、おいしい”って食べてくれたからね。歌の仕事は少しずつ減らしていって、どんどんどんどん、料理の世界にのめり込んでいっちゃったー」
小学生で初めて作った野菜うどん
実は、レミさんは子どものころから大の料理好き。自然豊かな郊外で、トマトやナス、トウモロコシなど、野菜が成長する様子を間近で見て育った。
父の平野威馬雄さんはフランス文学者で詩人。家には父が主宰する詩の会の仲間が多いときは30人ほど集まり、料理上手な母がもてなしていた。兄と妹はあまり料理に興味を持たなかったが、レミさんは母の横でよく手伝っていたという。
「お母さんがさ、でっかい鍋でカレーを作ってて、私が“早く、早く”って言うと、“カレー粉はよーく炒めないと粉臭さが取れないから、焦っちゃダメなのよ”と教えてくれて。ステーキもいっぺんに何枚も焼くと、フライパンの温度が下がって肉汁が出ちゃうから必ず1枚ずつ焼くのよって、30人分のステーキを丁寧に焼いていた」
包丁は危ないと子どもには使わせない家庭もあるが、レミさんの母は何でもやらせてくれた。レミさんがクッキー作りをして台所を粉だらけにしても、こう言って笑っていたそうだ。
「あらあら、今日もまた派手に散らかしたわね、レミちゃん」
初めて1人で料理を作ったのは小学校高学年のころ。学校から帰ってきて、お腹がすいたが誰もいない。庭になっていたトマトをもいできて、台所にあったピーマン、ベーコン、うどんと一緒に煮込んだ。味付けは塩と黒コショウをガリガリ。
「それが本当においしくてねー。算数なら1+1+1+1は4だけど、料理は足していくと100にも1000にもなっちゃう。しかも、作っているときはいい香りがして鼻でも楽しめるし、ジージー炒める音を聞いたり目で見たり、五感で楽しめるのが料理。あんなに楽しいものはないって学校の勉強より断然楽しかったな」
ガキ大将だったレミさんはよく近所の子を引き連れて、山の中を歩き回った。かくれんぼをしていて、ピカピカ光るきれいな棒を見つけ、つかもうとした途端、蛇だとわかったことも。藁が積まれてベッドみたいになっている上に飛び乗って、夕方まで昼寝をすることもあった。
中学まではのびのび育ったが、高校は進学校の都立上野高校に。
「いとことか、みんなそこだから、私も入るものだと思って、無我夢中で勉強したら入っちゃったのよー。中学の校長先生がさ、うちの父親に“いやあ、まぐれですね”って、言ったって(笑)」
上野高校の近くには東大がある。教師たちはみな東大を目指せと言い、生徒たちは昼休みも勉強している。ピリピリした雰囲気になじめなかったレミさん。
「学校をやめたい」
高2のある日、父の前に正座して恐る恐る切り出した。すると父はあっさり承諾。
「いいよ。やめろ、やめろ」
理由も聞かれなかった。
「こう言われたら、ああ言おうとか、いろいろ考えていたのにさあ。あのときの親への感謝というか、うれしさは忘れられないね」
高校の代わりに、父にすすめられたのは文化学院。自由な教育を掲げ芸術家や作家などを輩出した専修学校だ。レミさんは文化学院に通いながら、声楽家の佐藤美子さんにも師事し、シャンソンの勉強を本格的に始めた。もともとレミさんは歌うのが大好きで、父を訪ねてくる外国人客が持ってきたシャンソンのレコードを聴いては、マネをして庭で歌っていた。
文化学院在学中に、当時、銀座にあった日航ホテルの『ミュージックサロン』のオーディションを受けて合格。シャンソン歌手としてデビューした。テレビやラジオにも出るようになり、和田さんに見初められたわけだ。
家族5代で受け継ぐ「牛トマ」
結婚して3年目の'75年に長男、'79年には次男が生まれて4人家族に。息子たちの主治医だった小児科医の毛利子来さんから「食べたものは3か月後には身体の中で血や肉になるから、1回1回何を食べるかが大事ですよ」と教わり、無農薬野菜や有機卵を取り寄せるなど、食材にも気を配るようになった。
和田さんの友人が家に来ることも多く、レミさんは手料理でもてなした。ある日、遊びに来た作曲家の八木正生さんから『四季の味』という雑誌にリレー・エッセイを書いたので、次号はレミさんにお願いしたいと指名された。
「八木さんってメチャメチャグルメでさあ。トリュフを食べにパリから小型飛行機でどっかの村まで行ったなんてレベルの人なの。私なんて、八木さんたちがうちに来ると、冷蔵庫の中の食材でチャッチャッと作ってごちそうしていただけだから、断ったの」
どうしてもと頼み込まれ、レミさんは1回だけのつもりで、いつも作る料理のことを書いた。「素人だからこそ思いつく家庭の味」として写真付きで掲載されると大好評。次第にほかの雑誌からも依頼が来るようになる。
「本っ当にね、こんなに楽しい人生が開けたのは八木さんがチャンスを作ってくれたおかげ。どんどんどんどん料理の仕事が来るようになってから、八木さんから電話がかかってきたことがあって、お礼をいっぱい言ったのよ。それからしばらくして、八木さんが急死しちゃった……。
だからさ、心で思ったこと、感じたことは、とりあえず言っちゃったほうがいいみたい。何が起こるか人生、わからないからね。和田さんにも、“好きだ、好きだ”っていっぱい言っちゃったからね、私」
テレビの料理番組に出たのは、NHKの『きょうの料理』が最初だ。そのときは「牛トマ」を作った。フランス系アメリカ人の父方の祖父から受け継いだ家族の味だ。熱湯で肩ロースの薄切り牛肉200グラムをしゃぶしゃぶしたら取り出す。熟れたトマトを5、6個湯むきして大きめに切り、オリーブ油を熱したフライパンに入れたら炒める。トマトに火が通ったら、肉を戻し、塩、コショウしてできあがり。
レミさんは説明しながら、突然、アカペラで歌い出した。
♪トーマト、トマト、トマートー。赤ーく酸っぱい……。
「私がトマト大好きだから、和田さんが歌を作ってくれたの。牛トマは真夏の真っ赤に完熟したトマトで作ると、最高にうまいね。今じゃ小学生の孫が作っているから家族5代、100年よ。私が死んじゃって姿形は何にもなくなっても、味が伝えられていくっていいことよね。味で家族がつながって、絆が固く結ばれるみたいで。私は“ベロシップ”と呼んでいるの」
番組の中でも、いつも家の台所でやるように、トマトを手でぐしゃぐしゃとつぶした。すると、放送後に抗議の電話が何本も!
「あの下品なやり方は何だ」
ところが、数日後に新聞でこんな記事が出て、風向きが変わる。
「平野レミの料理はユニークで面白い」
テレビCMの出演も決まり、肩書に悩んでいると、和田さんがこう提案してくれた。
「レミは料理学校にも行ってないし、料理愛好家じゃないの?」
子どもに手加減しない母の味
料理はとても手早いが、それ以外の家事は苦手なレミさん。仕事が忙しくなると家の中はあちこちに物が散乱し、取り込んだ洗濯物が山積み。
次男の率さんは子どものころ、その山にダイブして遊んでいたと笑う。
「うちの母は忙しかったので、学校行事に関することは、手が回らないことがよくありました。例えば、給食のお金が払われていないと先生に呼び出されて恥ずかしい思いをしたり(笑)。遠足の持ち物も子ども任せだったので、自分で友達のお母さんに電話して聞いたり。まあ、でもそれが当たり前だったし、おかげでずいぶん自立したんじゃないかな」
率さんが今でも鮮明に覚えているのは夕飯の光景。テーブルいっぱいに料理が並び、席に座るのは父と兄と率さんのみ。レミさんはキッチンで料理を作り続けていた。
「できたてを食べさせることに、命をかけていたんでしょうね。毎日、毎日、いろんな創作料理がわんこそばみたいに次々と出てくるので、食卓はいつもにぎやかでした。
クミンや五香粉など、子どもが好まないようなスパイスを手加減なく使った料理がよく出てきたので、普通の子どもより舌は肥えていたかもしれません。好き嫌いなく育ちましたが、料理の実験中に変わったものを味見させられて、“ウエッ、なんじゃこりゃ! ”ということも、よくありました(笑)」
夕食が終わるとキッチンには食器が山積み。翌朝、それを和田さんが洗うのが日課だった。ゴミの分別をしてくれたのも、和田さんだ。
仕事から帰ってきた和田さんが玄関で靴も脱がずに「夕飯はどこか食いに行く? 」と誘ってくれることもあったと、レミさんは言う。
「私が昼からずーっと料理の仕事をしていて疲れているときなんか、すぐ察してくれてさ。で、外で食べて家に帰ってくると“やっぱりレミの料理のほうがうまいよ”って言われちゃうのよね。あーあ」
和田さんへの思いがこみあげてきたのだろうか。レミさんはため息をついた。
普通の家庭とは一味も二味も違う和田家だが、レミさんもフツーの母親と同じような心配をしたことがある。
長男の唱さんが高校生のときのこと。試験前でもギターに夢中な息子に、レミさんは「勉強しなきゃダメよ」と小言を言った。静かになったので様子を見に行くと、ギターを抱えたまま眠っている。
「心配になって和田さんに相談したら“放っておけば”と。愛を持って子どものことを信頼していれば、そんな変なことはできないよって」
その後、唱さんは音楽の道に進み、現在は人気バンドTRICERATOPSのボーカル&ギターとして活躍中だ。あるとき、夫にこう言われた。
「ほら見ろ、あのときギターを取り上げてたら好きな仕事に進めなかったんだよ」
4歳下の率さんは放任主義で育てられた。そのため中学生になると逆に危機感を覚え、自分から勉強を始めて塾にも通ったと話す。
唯一、レミさんが口うるさかったのは“食”について。外で食べ物を買うときは「原材料を見て食品添加物の少ないものを」と教えられ、率さんが出かけるときは毎回、「ちゃんと野菜を食べなさい! 」と送り出された。そんな厳しい食育を受けてきた率さんは、今年度の食学親善大使に任命されている。
「野菜を食べないと血液がドロドロになるとか、母にずーっと呪文のように言われ続けたので洗脳されちゃって(笑)。自分が親になった今は、子どもたちに“野菜を食え”って言ってます。それ以外は放任主義で育てていますよ。うちの場合、育て方と何を食べさせるかっていうのは、すごくわかりやすく脈々とつながっていますね」
パンツを脱ぐより恥ずかしいこと
レミさんの料理愛好家としてのキャリアは40年、これまで発表したレシピは数え切れない。意表を突く料理も多いが、実際に作ってみると簡単で本当においしい。
特に大きな支持を得たのは、時短料理の草分けともいえる「食べればシリーズ」だろう。作り方は手抜きでも食べると味は同じという楽しい料理だ。
シリーズの第1号は「台満餃子」。お客を呼んで水餃子パーティーをやる予定だったのに帰宅時間が遅くなり、1個ずつ包んでいたら間に合わないと思いついた。
餃子の具を大きいハンバーグ状にして耐熱皿に広げて電子レンジでチン。お湯を沸かし、餃子の皮がくっつかないように油をたらして1枚ずつ入れる。浮いてきたらすくって、具の上にのせる。香菜を散らし、酢、醤油、ラー油をかけて完成。
味はまさに水餃子で、みんなでつついて食べるとパーティーは大盛況。お客の1人が「怠慢だね」と言ったのを聞いた和田さんが、漢字を中華風に台満と変換して名づけてくれた。
「ごっくんコロッケ」(発表当時はプレコロッケ)は、お腹をすかせた幼い唱さんに、「コロッケが食べたい」とねだられて急いで作った、成形しないコロッケだ。
キャベツの千切りを大皿に盛って、ジャガイモを電子レンジでチン。その間にひき肉と玉ねぎのみじん切りを炒めて塩、コショウを振り、ほぐしたジャガイモと一緒にキャベツの上にのせる。コーンフレークを崩してパラパラかけ、ソースをかけて完成。
「ごっくんして、帳尻があっていればいいじゃない。主婦の料理は、そういうふうに自由にやっていいのよ。キッチンに立つ時間も短くてすむし、賛同を得ちゃった」
ほかにも、たこ焼き、小籠包など「食べればシリーズ」はどんどん増えて、今では30品もある。
レミさんは料理学校に通っていないので、いわゆる料理の常識にはとらわれない。だからこそ生まれた創作料理も多い。
例えば、NHK『平野レミの早わざレシピ! 』で紹介した「ホタテどっち」。普通、ホタテは旨みが逃げないように片栗粉をつけて炒める。だが、レミさんはホタテには何もつけず、輪切りしたエリンギに片栗粉をつけてホタテの旨みを吸わせるようにした。その結果、口にしたときにどっちがホタテかエリンギかわからなくなる不思議な料理が生まれた。
レミさんのマネージャーの奥田暁美さん(54)によると、本番前日までは普通にホタテに片栗粉をつけていた。それなのにレミさんが「絶対、逆だ」と言い出し、スタッフみんなの反対を押し切って、本番直前のリハーサルで試作。レシピを変更したのだという。
「ああ見えて、平野はすっごく努力家なので、納得できなかったりおいしくない料理を公開するのは“パンツを脱ぐより恥ずかしい”と言って、どんどんブラッシュアップするんですね。人に何と言われようが、自分の舌を信じて、自分のやり方を通すので、手伝う人間にとっては、とても大変ですが(笑)」
ときには生放送で失敗をしてしまうことも。先日も長ネギを1本、そのまま鍋に放り込んでしまい、慌てて切る様子がツイートされてバズったばかりだ。
「本当に平野は気短で、せっかちで、目の前のことしか見えていないので、自分ではネギを切ったと思い込んじゃったんですよ。よく作りながらこぼしたり、散らかしたりもするけど、あれもわざとハチャメチャにしているわけじゃなく、いつもどおりやっているだけなんです。そういう飾らないところが“うちのお母さんそっくりだ”と言われたり、共感されるんでしょうね」
2019年10月に和田さんが亡くなって、まもなくコロナ禍に。巣ごもりで料理に目覚めた人も多いせいか、自粛期間中もレミさんへの依頼は途切れず、毎日のように仕事をしていた。今年3月には和田さんとの思い出や家族に伝わるレシピ満載の単行本『家族の味』(ポプラ社)を出版した。表紙は和田さんが描いたレミさんの笑顔のイラスト。和田さんと初めて夫婦で登場した週刊誌の対談も転載されている。
こうして忙しく仕事を続けることで、救われている面もあるという。
上野樹里がつないだ母子の絆
家族の存在も、大きな心の支えになっている。
ある日、レミさんが知人に「思い出だけじゃ、つかむものがなくて悲しいのよね」と嘆くと、その人はこう励ましてくれた。
「いるじゃない。息子さんが。息子さんの半分は和田さんでしょう」
レミさんがその話を長男の唱さんと妻で女優の上野樹里さんにすると、樹里さんが夫にこう言った。
「ほら唱さん、手を出して。レミさんも」
唱さんと握手をしながら、レミさんの脳裏には幼い日の息子の姿が浮かんだ。
「手をつないで散歩したときは、やわらかで小さかった唱の手がさ、ギターを弾いてしっかりした手になっちゃって。その子が私の手をギューッと握ってくれてる。思い出って、つかめるねと思ったら、何かうれしくなっちゃって、心のつかえがストンと取れちゃったのよ」
レミさんが風邪をひいたとき、樹里さんが鍋いっぱいのうどんを作って持ってきてくれたこともあったという。
これまで和田さんを喜ばせたくて、たくさんの料理を作ってきたレミさん。夫の死で張り合いをなくし食が乱れがちなレミさんを見かねて、明日香さんは週の半分くらいは晩ご飯に呼んでいると話す。
「放っておくと食べないですもの。変な時間に焼き芋とか食べて、“お腹減らない”と言って。それがうちに来ると、すんごい食べるんですよね(笑)。
お義母さんと夫は、2人ともせっかちで負けず嫌いでズバズバ言い合うから、ワアーッとケンカみたいになることもあるけど、翌日は平気で仲よくしゃべっていますよ。夫は“お母さん、面倒くさい”とか言うけど、誰よりもお義母さんのことを気にかけて、ケアしているなと思います」
レミさんはせっかちなだけでなく、とても心配性で家族のことは放っておけない。孫の下校が少し遅いだけでも、通学路まで見に行ってしまう。明日香さんの首にしこりができたときは、「すぐ病院の予約をして。予約が取れるまで帰らない! 」と言って、本当にその場を動かなかったそうだ。
「もう、どこを切っても愛があふれてくる、本当に愛情たっぷりの人です。特に孫には甘々で、“ママには内緒だよ”と言いながら、どれだけ怒られるようなことをさせているか(笑)」
レミさんは独身時代を第1ステージ、結婚生活を第2ステージ、1人に戻った今を第3ステージと呼んでいる。
第3ステージでやりたいことを聞くと、「全然、欲がないのよね」と少し考え込んだ。
「ただ、与えられたことを一生懸命やってきただけで、目の前のことをクリアして、クリアして。それでいいの。欲もないし、野心もないし。これからは、ちょっとのんびりして、孫と遊んで。いつまでも楽しく料理をできればいいのよ」
「そのためにも大切なのは、食、食べることですね? 」
そう返すと、レミさんは大きくうなずいた。
「そう! いいことおっしゃいます。やっぱり、ちゃんと食べて健康な身体でいないとさあ、楽しいことも、楽しめなくなるからね。あとは、子どものため、嫁のため、孫のためにも元気でいないと。迷惑なんかかけたくないからね」
レミさんのキッチンは庭に面した南側にある。家を建てるとき、和田さんが「いちばんいい場所を取っていいよ」と言ってくれ、幼い息子たちが庭で遊ぶ姿を見ながら、料理を作ってきた。
さまざまな思い出の詰まったキッチンで、今は自分のために料理を作っている。
「和田さんは肉が大好きだったけど、今はステーキはあんまり焼かなくなっちゃったかな。でも、お刺身はたくさん食べようと思って。酵素がいっぱいだからね。あと生野菜ね。今朝もサラダにアボカド入れて目玉焼きものせて、こーんなどんぶりにいっぱい食べちゃった(笑)」
たくさん食べて、たくさん話して、レミさんは今日も元気だ。
取材・文/萩原絹代(はぎわら・きぬよ)
大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。