《藤井フミヤ「チェッカーズ再結成へ」絶縁恩師と「涙の和解」》(『女性自身』4月13日号)
《藤井フミヤ語った!「チェッカーズ復活と母との別れ」》(『女性セブン』4月29日号)
久方ぶりに「藤井フミヤ」と「チェッカーズ」の名前が週刊誌の見出しに踊った。前者は3月27日にフミヤが出演したNHKのBS番組、そして後者は4月上旬に開催されたコンサートツアーを受けてのものだった。そして共通して報じられたのが、彼が『ギザギザハートの子守唄』を歌った、というもの。チェッカーズの曲を公の場で披露したのは、グループが解散した1992年以降、実に29年ぶりのことだーー。
チェッカーズの幼なじみらを中心に7人で結成され、1983年にデビューするとそのビジュアルもあいまってアイドル的人気を博した。ところが、スター街道を歩む一方で徐々に足並みが乱れ始める。特に、フミヤとサイドボーカルを務めていた高杢禎彦に不仲が囁かれるようになった。
「解散理由とされたのは俗に言う“方向性の違い”でしたが、デビュー時から楽曲を提供していた作曲家の芹澤廣明さんとの“絶縁”も大きく影響したと言います。1986年に発表された名曲『Song for U.S.A』を最後に芹澤さんはチェッカーズから離れ、その後は主に作詞をフミヤ、作曲を弟の藤井尚之が担当するように。
これに納得いかなかったのが、恩師でもある芹澤さんを尊敬していた高杢。次第にグループはフミヤ派と高杢派に分断されていったと言います」(スポーツ紙芸能デスク)
フミヤが“和解”を申し入れた
先の『女性自身』では、かつて《『芹澤さんの歌は、もう歌いたくない』、フミヤがそうはっきりと言ったというんです。ぼくにしたら、仕事を頼まれただけでそんなことを言われる筋合いはない》とまで話していた、芹澤氏との和解を報じた。なんでも、昨年9月に突然、フミヤから連絡が入ったのだという。
そして食事をして雪解けした2人は、フミヤの提案でNHKの番組に揃って出演することになった、というものだった。
一方の『女性セブン』では、フミヤ本人への直撃取材も試みている。『ギザギザハートの子守唄』を長らく“封印”していた理由について、《チェッカーズの曲をおれがひとりで歌って、それをビジネスにするのは抵抗があったんだよね…》と、芹澤氏との確執が原因ではないことを強調。
さらに、《お会いしたとき、芹澤さんも『どんどん歌って』って言ってくれたし、これからも曲を書いてくださいっていう話もして》と、恩師とわだかまりがなくなったことを明かしたのだった。
しかし、彼が仲違いをしていた幼馴染みも黙っていない。2003年の著書『チェッカーズ』(新潮社刊)において《金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったのか!》と、フミヤが恩師を裏切ったとして痛烈に批判した高杢とは、いまだ関係は冷えたままのようだ。
チェッカーズ解散後に2人を引き合わせたのは2004年、元メンバーの“クロベエ”こと徳永善也さんの告別式だった。その後に高杢と鶴久を除く、元メンバー4人のみが発起人となって「徳永善也さんを送る会」を開いたのだが、この時のフミヤの発言が2人の仲を修復不可能なものにしてしまった。
「送る会」翌日の2004年9月13日、『週刊女性』は高杢と鶴久の独占インタビューを行なった。その中で告別式の際に、高杢とフミヤとの間でこんなやりとりがあったことを明かしていたのだ。
《フミヤから声をかけてくれたんだよ。“元気か?”って。そりゃうれしかったよ。解散以来12年ぶりに再会したんだから。まあ、オレらもいろいろあったけど、やっぱりわかってくれてるんだな。そう思ってたんだけどね》
この頃には「チェッカーズ再結成もあり」という考えもあった高杢。しかし、その後の「送る会」で彼の著書『チェッカーズ』について問われたフミヤは、「モク(高杢)の本はデタラメって聞いてるから読んでません」とまで言い切ったのだ。
2002年に40歳で胃がんを告知されて、死を覚悟して病と闘った高杢。それだけに“遺書”として綴った著書を“デタラメ”呼ばわれされたこと、何よりも徳永さんのお別れの会という席上で言い放ったことが我慢ならなかった。
当時のインタビューでは《他人からいわれたことなら、なんとも思わないよ。フミヤだから、ガキのことから一緒にやってきたアイツだから許せないんだ》と、かつての幼馴染みへの憤りと、悔しさをにじませた高杢。「チェッカーズ再結成」は、フミヤ自身の手で葬られたのかもしれない。
「チェッカーズ」を歌いたい理由
そんなフミヤが今年になって、たったひとりで『ギザギザ〜』を歌うことを半ば強引に押し進めたというわけだ。当然ながら、また歌われることを待ち望んだファンも大勢いるであろうし、「抵抗があった」と話していた“ビジネス”になるのは間違いない。
「近年のフミヤといえば、最後にCDシングルをリリースしたのが2013年で、それでもオリコンランキング10位止まり。その後に配信限定シングルを3曲出していますが、やはり大ヒットとは言い難く、毎年のように開催しているコンサートツアーもマンネリ感は否めなくなっています。
そこにYouTubeなどで若い世代の間で広がっている昨今の“昭和歌謡”ブームが来た。チェッカーズの関連動画も再生回数が伸びていることから、フミヤもこの流れに乗ろうとしたのではないでしょうか」(音楽情報サイト編集者)
彼にとって“チェッカーズ”は再浮上のための切り札であり、突如として35年ぶりに恩師に“詫び”を入れたのも曲を歌うためだったのだろうか。NHKの番組ではデビュー曲の他にも、芹澤氏が手掛けたチェッカーズの曲も披露したフミヤ。今後は、自身のコンサートでも積極的に歌っていくのかもしれない。
これに老舗レコード会社関係者は「違和感を覚えますね」と首を傾げる。
「そもそも、芹澤さんはフミヤのためではなく、チェッカーズのために曲を作っていたはず。かつてデビュー間もないチェッカーズに今後も楽曲を提供する上で、芹澤さんがメンバーに注文したことがあったと言います。
それは小柄なフミヤをメインボーカルに置くとバンド全体の見栄えが弱くなることから、高杢と鶴久と3人でマイクを並ばせるというもので、これで初めて“チェッカーズになるんだ”という話でした。つまりはフミヤひとりで歌う曲は、それはチェッカーズとは呼べないのではないでしょうか」
地元の福岡を中心に活動
では、その高杢と鶴久が再びフミヤの横に立つ日がくるのだろうか。現在も音楽家としてライブや創作活動を行っている鶴久の一方で、意外なところで高杢の名前があがっていた。
《【建築測量・墨出工】未経験でもOK!元チェッカーズ高杢と○○がタッグを組み新事業(社内独立制度)も始めました》(注:編集部伏字)
フミヤと芹澤氏の和解報道がなされていた3月15日から4月12日までの間、求人・転職情報サイトに掲出されていた求人案内だ。埼玉県内にある某社の求人情報には作業着を着た高杢と思われる人物が、敷地や建物の位置を測る測量器の横に並び笑顔を見せていた。さらに企業情報を見ると、代表者欄に《事業顧問:高杢 禎彦》とあったのだ。いったい彼に何が起きているのだろうか。
ローカル局の情報番組ディレクターによると、「現在は地元の福岡を中心に活動しているようです」と彼の近況を明かす。
「講演活動をしたり、ラジオ番組や企業イベントに出演しているそうですが、音楽活動はほとんど行っていないみたいですよ。それでも数年前から運送業に乗り出したり、運搬用機械を扱う会社とも付き合いがあったりと、事業者としての顔も持っているようです。
デビュー前のモクさんは土木業に従事していた時期もあると言いますし、おそらくはその経験から“事業”を始めているのかも。体調に問題がないのなら、また歌ってほしいとは思うのですが……」
高杢は、フミヤが芹澤氏と和解したこと、そして「チェッカーズ」の名曲を歌うことについてどう思っているのか。同社と彼の妻を通して接触を試みるも折り返しはなく、以降は連絡が途絶えてしまった。
徳永さん亡き今、チェッカーズ再結成はありえないのかもしれない。それでも、ファンはケンカをしながらも歌い続けた、ヤンチャ仲間がまた揃う姿を見たいのだがーー。