植村花菜。5月中旬には、デビュー15周年を記念した7曲収録のミニアルバム『それでいい』がリリースされる

デビュー5年目になっても全然売れなかったので、契約が切れてしまうのではないかという雰囲気があり、“メジャー最後のアルバムかもしれない”と思っていました」

 2010年リリースのミニアルバム『わたしのかけらたち』の中の1曲『トイレの神様』が大ヒットした植村花菜。路上ライブからスタートし、2005年にメジャーデビューするも鳴かず飛ばず……。まさに“土俵際”だった。

「たとえ契約が切れても、アルバイトをしながら音楽は続けるつもりだったんですが、(『わたしのかけらたち』は)最後の1枚として“自分にしか作れない作品”を作ろうと考えました。それが何かを考える中で、祖母と過ごした日々が今の自分に大きく影響していることに改めて気づいたので、それを曲にしたいなと。

 でも、最初はこの曲をアルバムに入れるのも迷っていたんです。お金を払ってもらって聴いてもらうアルバムに、こんなに私的な曲を入れていいのかと」

宣伝しなくていいです

 懸念はそれだけではない。通常なら1曲の長さは4~5分のところ、『トイレの神様』は2倍の約10分。そのため、予想していなかった問題も起きてしまった。

「レコード会社の方には“これでは長すぎて宣伝できないから縮めてください”と言われました。でも、そもそも祖母との12年間の思い出を厳選して10分にしているので、これ以上は縮められず“この曲には10分という長さの意味があるから、縮めないと宣伝できないのであれば宣伝しなくていいです。この長さの意味がわかってくれる人にだけ届けばいいです”と、強気な発言をしてしまったのがスタートでした」

 初めて曲がかかったのはラジオ。早朝のオンエアにもかかわらず“涙が止まらない”と開局以来の反響が集まった。

「10分近くある曲をフルでかけてくださること自体が異例なのに、あまりにも反響が大きかったので、同じ番組内でもう一度曲をかけてくださいました。“私とおばあちゃんの思い出話の歌を聴いて、なんで全然知らない人が泣いてくれるんだろう?”と、喜びよりも不思議な思いが強かったですね」

 ラジオをきっかけに、曲は大ヒット。突然のブレイクにプレッシャーはなかった?

「いちばんプレッシャーを感じていたのは、ラジオですごく話題になって、メディアにひっきりなしに出ていた時期です。5年間注目されたことがなかったので、“なんだこれは!”と思っていました。リリースの1週間くらい前には、多くの新聞やワイドショーで取り上げていただいて、1日中テレビの取材を受けた日がありました。その日に“世間の期待に応えられるかな”と怖くなってしまったんです」

 重圧に打ち勝てたのは、小学生のころからの習慣“日記を書くこと”のおかげだという。

「そのときも、不安に押しつぶされそうな気持ちを書きました。書いていくうちに、今までやってきたことを今後も一生懸命やっていけばいいんだから、そこにプレッシャーはないと思えたんです」

曲のヒットを受けて小説、絵本、テレビドラマと多角的に展開された『トイレの神様』

 家族との絆を描いた『トイレの神様』だが、ヒット後、植村と家族との関係は……。

「これといった変化はなかったですね。8歳のときに歌手になると決めて生きてきたんですが、母からは“頑張れ”とも“やめなさい”とも言われてこなかったんです。紅白歌合戦のときも、いちばんの親孝行になると思っていたのですが、そうでもなかったようで……。

 母を関西から東京に呼んでNHKホールで直接見てもらい、私の家に先に帰ってもらっていたんですが、夜中に帰宅した私にかけた第一声が“暖房のつけ方がわからへんねんけど”だったんです。さすがに“おめでとう”とか“よくやったね”とかの言葉がくるかなと思っていたんですけどね(笑)。その後も普通の会話だけでした」

アメリカで迎えた人生の転機

 ヒットの翌年、NHKのドキュメンタリー番組でアメリカ・テネシー州のナッシュビルという町を訪れたとき、人生の転機を迎える。

「ライブハウスに行き、オープンマイクというオーディションのようなものに参加しました。私は、全編日本語の『ミルクティー』という曲を歌ったんですが、地元の方から言われたことに衝撃を受けて。ほとんどの方が“歌も上手だし曲はいいけど、日本語で歌っているから何を歌っているかわからない。英語で歌えばいいのに”と言われたんです」

 これまでも洋楽を聞くことはあったが、訳詞を読んでも意味がよくわからないため、感動することはなかった。

「だから勝手に、アメリカの音楽はメロディーやサウンドを重視して歌詞に重きを置いていない文化なんだと思っていました。スタッフさんにそれを伝えたら“日本語には日本語にしかない表現があるように、英語には英語にしかできない表現がある”と言われたんです。言葉は自分で理解することがすごく重要なんだと思って、英語に興味を持ち、自分で理解したいと思うようになりました」

 ナッシュビルでは、価値観を覆す出会いも。

「地元の大御所のカントリーミュージシャンの方とお話しする機会がありました。私は家族が大事で優先してきたのですが、その方に“家族はもちろん大事だけど、ときには家族をおいてでも、やりたいことをやらなきゃいけないときがある。まずは自分の幸せを考えなさい”と言われて。そんな生き方をしてもいいんだと、やりたいことを強く主張するアメリカの文化に衝撃を受けたのを覚えています。

 以前から“20代のうちに今までと違うことをしておかないと、この先超えられないような壁に当たる”という漠然とした不安があったんですが、ナッシュビルに行ったときにこれだと確信しました」

 29歳になる2012年、仕事は絶好調だったにも関わらず、単身渡米する。

「結局、約2か月間アメリカに行きました。最後にニューヨークに行ったときに、どの街より楽しくて“私が住む場所はここだ!”と直感しました。でも帰国後、すぐに渡米したい旨を事務所やレコード会社の方々にお伝えしたら“まだ一緒に日本で仕事をやろうよ”と言ってくださって。考え直してデビュー10周年を迎えるまでは日本でお仕事をして、それからアメリカに行こうと決めました」

海外で日本語で歌いたい

 2013年にジャズドラマーの清水勇博と結婚し、2015年に出産。翌年からは活動拠点をニューヨークへと移している。

2010年9月には、都内で自身初となるギャラリー展を開き、ファンの前で『トイレの神様』を生披露した

私が今、いちばんやりたいのは“海外で日本語で歌を歌う”ことです。アメリカでも定期的にライブをしているのですが、だいたい日本語の曲と英語の曲が半分ずつのセットリストで歌うようにしています。日本語だからこそ作り上げられる世界観やメロデイーラインを聞いていただくために、まず興味を持ってもらうことが大事なので、英語でも歌うようになりました」

 もともとは“英語を理解して極める”という思いが強かったはず。なぜ日本語で歌いたいと思うのだろうか。

「洋楽っぽい音楽を日本人が演奏しても、やっぱり本家にはどうしても勝てないじゃないですか。ネイティブじゃないし、マネしても勝てない。そこで、何が武器なのかを考えたときに、日本語って日本にしかないものだから、海外の人はマネできないなと気付きました。

 私は基本的に歌詞から曲を作るんですけど、英語の歌詞から生まれるメロディーと、日本語の歌詞から生まれるメロディーって全然違うんです。それは日本文化の1つなので海外に広めたいし、日本のいろいろなものがもっとグローバルになったらいいなと思います。私は、音楽という文化でその入り口を開いていきたいんです」

『トイレの神様』が生んだ奇跡は、国境を越えた!