藤井フミヤ(58)の“解禁”が注目されている。3月に放送されたテレビ番組と、その後のコンサートツアーで『ギザギザハートの子守唄』をはじめとする、チェッカーズの初期作品を歌ったのだ。
藤井フミヤと高杢禎彦の溝
1983年にデビューしたチェッカーズは、'92年に解散。ソロに転向したフミヤは30年近くにわたり、職業作家が手がけた初期のヒット曲を封印してきた。その解禁で、再結成を期待する見方も浮上したが、それが難しそうなことも多くの人が知っている。
2003年、高杢禎彦が自伝的エッセイ『チェッカーズ』を出版。前年にがんの大手術をしたことを機に「遺書」のつもりで、グループが解散にいたる事情なども暴露した。
高杢は「もう俺は我慢ができなかった」とフミヤのワンマンぶりを批判。解散するかしないかをめぐり、グループが二分されていたことも明かした。
それを裏付けたのが、翌年、徳永善也さんが病死した際の出来事だ。送る会の発起人には、フミヤ派とされる面々が名を連ね、解散に反対したという高杢と鶴久政治ははずされた。
しかも、フミヤは会見で、溝を深くしたのは高杢の本だとして、
「“でたらめの本だから読まないほうがいいよ”と人に言われたから読んでいない」
と、切って捨てたのだ。
ただ、この騒動はその後、うやむやになった。フミヤが著書で反論するという噂も流れたが、本人が否定。病み上がりの高杢と全面対決となれば好感度を落としていた可能性もあり、これは正解だっただろう。
ここからもわかるように、フミヤは世渡りがうまい。1999年の大みそかには『ミレニアムカウントダウンライブ』で話題を集めた。ミレニアムブームを見越して、日本武道館を誰よりも早く押さえていたわけで、なかなかできる芸当ではない。
本業以外に『フミヤート』なるアート活動で注目されたこともあるし、プライベートでは熱愛を報じられた小泉今日子ではなく、地元の幼なじみと結婚。いかにも、女性ウケする選択だ。その後、生まれた長男はフジテレビのアナウンサーになった。
歌詞通りのヤンキー精神
そんな世渡り上手なキャラの根っこには、ケンカ上等なヤンキー精神がある。高校入学3日後、バイクの無免許運転で停学処分になったというフミヤ。「15で不良」という『ギザギザ』の歌い出しを地で行く「悪ガキ」だったのだ。
にもかかわらず、なぜ、高杢と本気のケンカをしなかったのか。実はデビュー4年目に、フミヤは音楽誌でこんな持論を披露している。「ペンの暴力と本当の暴力」を比較して、
「ペンの暴力って、人の将来を変えるでしょ」
と、主張。「1か月くらいで治る」なら、
「俺、刺されたほうがいいもん」
と、語っていた。つまり、それがヤンキーの流儀なのだ。幼なじみで同じようにヤンキーだったという高杢が「ペンの暴力」に訴えてきたことはその流儀に反しており、そういう土俵には上がりたくなかったのではないか。
その結果、将来を変えられたのはむしろ高杢のほうだ。表舞台から消え、フミヤの“解禁”にも沈黙したまま。かつてのケンカ相手がわがもの顔で『ギザギザ』を歌う姿には複雑な思いだろう。
ただ、世間のイメージは「チェッカーズ=フミヤ」だし、それは解散する前よりも強化されている。解散後もいろいろやってきた人と暴露本くらいしかなかった人の「格差」は哀しいほど広がってしまった──。
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