オリンピックの会場となる国立競技場前

 東京五輪を開催すべきか否か――。差し迫ったこの問題を巡って、議論がおかしな方向にむかっていることを、寄せられた意見などを通して肌で感じているというフィフィ。国民からの反対意見が止まず、五輪を中止する署名が35万筆も集まっているなか、ついに佳境を迎えた東京五輪“狂想曲”について思うこととは──?

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 東京五輪開催の可否を巡って、政府やIOCは、日本ならできる、日本国民ならできるなど、精神論で押し切って開催しようとしている傾向がありますよね。開催に賛成か反対か──。まず前提として私自身は専門家ではないので、開催すべきか否か意見を言う立場にありません。言うべきではないです。ただ、開催の可否についてしっかりと議論をすべきだとは思います。

 確かにやれなくはないと思う。だけど、疫病という見えない相手なだけに、決行後のリスクがどこまで高まるのかわからないわけです。だからこそ、専門家の方たちが示した科学的根拠に基づいて、どこまでのラインなら大丈夫なのか、きちんと線引きをするべきだと思うんです。

 開催するにしろ中止するにしろ、その判断が専門家の示した科学的な根拠に基づいているのであればまだ納得がいくのに、精神論を持ち出して強行しようとするからおかしなことになるわけです。たとえば、精神論で“選手の気持ちを考えてください”と、選手の気持ちを盾にして開催しようとすれば、当然、選手の方に辞退してくださいといった声が寄せられることになってしまう。水泳の池江璃花子選手にもそういった声が寄せられていましたよね。そうではなく、きちんと科学的根拠を示せばみんなすっきりするし、いまのように選手が責められる状況にはならないんじゃないかと思うんですよね。

「野党に利用されていますよ」

 そもそも考えてみてください。この状況下でこれまで頑張ってきたものを諦めているのは、果たして五輪選手だけなんですか? と。なぜ五輪だけが特別視されているのでしょうか

 留学を諦めた人、起業を諦めた人、長く続けていた商売を畳んだ人、芸術関係の公演、コンサートなどが中止になった人……疫病を抑えるために、それぞれみんないろんなことを諦めているわけ。価値観は人それぞれで、ある人にとっては五輪と同じくらい、そのコンサートが大きな価値を持つものだったかもしれない。そんななかで五輪だけを特別視するから、板挟みになった選手もどんどん肩身が狭くなってしまうわけです。

 また、中止論を唱える野党が出てきたため、対立する保守系・右派の人たちが意地でも開催すると言い始めていますよね。これも政局に利用されている感じがして気持ちが悪いです。

 実際、私が先ほど述べたような五輪を特別視することに疑問を呈したツイートをしたところ、

「フィフィさん野党の肩を持つんですか?」「野党に利用されますよ」

 そんなコメントが多々寄せられました。だけど、そういう問題じゃないでしょと。右派がこう言っているから……左派がこう言っているから……というのは、あまりに幼稚で単純な構図です。政治家も批判のために五輪を持ち出しているけど、もはやそんなことをやっている次元ではない。すべてを科学的に考えないといけない。あいつが嫌いだから反対意見を言おうとか、そういうことじゃないでしょと。

状況が絡み合って意味のわからないことに

 こうした風潮が生まれる一因には、政府や報道の煮え切らない態度もありますよね。たとえば、政府は開催を強行しようとしているから、中止したことによる賠償金については「考えたことがない。あるのかどうかも検討がつかない」と濁しています。それによって、賠償金がネックになるから中止できないなと思っている人もいるはず。はっきりしないから国民の不安も募る。

 また、各国のメディアでは「開催は難しいだろう」という見方が多いけど、国内の主なテレビ局はスポンサーである多くの日本企業が五輪に絡んでいるから、積極的な中止論を報道するのを控える傾向にありますよね。だけど、そもそもスポンサーというのは、企業のイメージアップのためになるわけだから、この状況でどう動くかということでも、ある意味イメージアップを図れるんじゃないかと思いますけどね。

 苦渋の決断だし、勇気のいることではあると思うけど、議論をしましょうと声を上げるだけでも、逆に国民に対して良い印象を与えることもできるんじゃないかと。

 いずれにしろ、こうした状況が絡み合って、さまざまな憶測が生まれ、開催可否の議論が精神論や右だの左だの、意味のわからない方向性になってしまっているように感じます。

 疫病は撲滅するのに、一般的に数年はかかると言われています。アフターコロナの世界では、考え方も、生活様式も、そしてスポーツのあり方も変わっていくでしょう。

 いままでの様式に戻そうとするから、無理やり従来の形で強行しようという意見も出てくるけど、戻すのではなく変えるべきところは変えていく。いままで通りにやろうというのではなく、どういう形で変えていけるのかを考えていくことが大切になってくるんじゃないかと思います。

〈文・岸沙織〉