石井志昂さん 撮影/伊藤和幸

 不登校にいじめ、ひきこもり、死んでしまいたい気持ち……。子どもたちが直面するさまざまな問題に向き合い、学校に行けない当事者の視点から取材を重ねてきた、日本で唯一の専門紙がある。子ども記者も活躍する編集部は遅刻・早退・バックレ歓迎!ハプニングと生きる喜びに満ちた新聞づくりを元・不登校の名物編集長が明かす!

不登校の人数は増加し続けている

 千原ジュニア、伊集院静、藤田ニコル、星野源、田口トモロヲ、宮本亞門、押井守、中川翔子、生駒里奈……。この著名人たちに共通することは何か、おわかりだろうか。人気者で人を楽しませる才能を持つ人たち? いや、そうではない。それは彼ら全員が「不登校」の経験者であることだ。

 不登校とは、児童・生徒が30日以上、学校を欠席している状態をいう。このうち保健室登校をしていたり、病気や経済的理由から通えなかったりするケースは含まない。

 少子化で児童生徒数は、年々減少しているにもかかわらず、不登校の人数は増加し続けている。文部科学省の統計によれば、2018年の小・中学校での不登校の数は、16万4528人で過去最多を更新。そのうち90日以上欠席している子どもの数は9万5635人に上る。

 不登校に至るまでの背景はさまざまだ。いじめ、友人や先生との人間関係、成績へのプレッシャーや学業不振、校則へのストレス……等々。不登校になった本人でさえ、どうして学校に行けなくなったのかわからないことも珍しくない。

 そんな不登校の子どもたちの視点にこだわり、当事者やその親に向けて発信する唯一のメディアがある。それが『不登校新聞』だ。

 創刊は23年前の1988年5月。タブロイド版8ページ、月2回発行の紙とウェブの両方で購読できる。

「不登校」以外の問題も扱う

 現在、発行されている最新号は創刊から553号目に当たる。その見出しを一部、紹介しよう。

《不登校経験者が聞く先生のホンネ『不登校、どう思ってますか?』》

《何年も前の話を持ち出すわが子、子どもの言葉に隠された願いとは》

《中学で人間関係に苦しんだ僕、見つけたのは自分を守れる術》

《今こそ休むことの価値を見直す、精神科医が唱える休ませる方法》

 不登校新聞は、不登校の子どもだけでなく、いじめや自殺、ひきこもりなど、若者を取り巻く問題にも広く目を向けるメディアとして知られている。

「現在、紙とウェブの両方で4000部ほど発行されています」

 そう語るのは、不登校新聞の編集長を務める石井志昂さんだ。

 丸刈りのヘアスタイルに黒縁眼鏡。一見、強面にも見えるが、しゃべりだすとその口調はなめらかでやさしい。

 石井さん自身、不登校の経験者だ。中学受験の失敗を機に学校生活が合わなくなり、教員や校則、いじめなどを理由に中学2年生から不登校に。その後、フリースクールへ入会。19歳からNPO法人「全国不登校新聞社」が発行する不登校新聞のスタッフとなり、'06年からは編集長を務めている。

 不登校新聞の編集部は、東京・文京区のビル3階の一室にある。

「ここには2年前に移転しました。以前は、北区王子にある『東京シューレ』というフリースクールの一角に間借りしていて、やっと独立できたんですね。常勤5名、非常勤4名で、そのうち7名が不登校やひきこもり経験者です」

 最近は、テレビなどのメディアで不登校新聞が紹介されることも増えてきた。石井さんは、それにはきっかけがあったと言う。

「'15年6月に発表された内閣府の統計を見ると、18歳以下の日別の累計自殺者数は9月1日が突出して多かったんです。実は、以前から不登校に関わる人たちの間では、夏休み明けの9月1日は子どもの自殺が多いと言われていました。

 でも、数字として表れたのは初めてのこと。そこでこの統計に注目して、広く社会に伝えたいと、私たちは記者会見を行ったんです」

文科省での記者会見。「学校がつらければ休んで」と石井さんは訴えた

 平成27年版の『自殺対策白書』を見ると、確かにそのデータが示されていた。

「さらに、4月の新年度に入った時期に2番目のピークがある。そして5月の連休明けに次のピークがくるんです。そのタイミングで不登校も増える。いきなり学校に行くと体調不良が起きるということは、不登校では本当によく言われている話です」

 この記者会見によって、不登校新聞は一躍注目を集めたのだ。

建前なし、当事者の本音全開の記事づくり

 不登校新聞では、不登校やひきこもりの当事者が登場し、自らの本音をつづっている。

 そこには決まりがあると石井さんは言う。

「“誰かの役に立つ”ことではなく、“私の役に立った話”を書いてくださいと言っているんです」

 なかには、驚くようなことを告白する人もいる。

「私をいじめた人を許さない。復讐する気持ちで生きてきた、と言う女の子もいました」

 ひきこもり続ける中で彼女が思いついたのは、自分をいじめた相手を「呪ってやる」ということだった。

「そこで彼女は、呪い方である“黒魔術”を調べるため図書館に出かけた。これが“脱・ひきこもり”の第一歩になったんです。呪いを実践しようとしたけれど、黒魔術を使ってやることはかなり難しいとわかった。

 どうしようかと思ったときに、いじめた人よりもずっと充実した人生を送ってやろうと思いついたそうです。それで彼女が考える最高の“リア充”である、モデルになる道を選んだんです」

 実際、モデルとなった彼女だが、今ではOLとして働いている。

「今は“日々を充実して生きることが、いじめていた子たちへの復讐になる”と考えているそうです。

23年前に発行された不登校新聞の創刊号

 こんな感じで不登校新聞に記事を寄せる子どもたちは、建前なしで本音がすごい。大丈夫かなと思うくらい。

 人が生きるってポジティブな感情だけじゃなくて、ネガティブな感情が自分を突き動かしていく部分もある。でもネガティブな感情だからといって、非生産的とは限らない。ねじれているけれど、一生懸命に生きている

 不登校新聞の全8ページの紙面のうち、8分の1が子どもたちの声だ。

「読者は不登校の子どもを抱えた親御さんが多いですね。“自分の子がこんなことを考えていたなんて、びっくりした”という人もいます。親が聞きたくない内容の記事もバンバンやりますからね。

『あのとき、どうして死にたいと思ったか』とか『親がこういうふうに追い詰めてきた』とか。私たちは、当事者の気持ちから考える新聞なので、そういう意味ではどんどん出しています

 ほかのページでは、不登校の子どもを抱える親や、専門家などが登場。読者からは、初めて自分と同じような体験をした人に出会って、「ほっとした」「安心した」という声が寄せられるという。

生きてるな! と感じるインタビュー

 記事の中で、読者に最も読まれているのが著名人へのインタビューだ。聞き手は、不登校・ひきこもりの当事者や経験者が集まった「子ども・若者編集部」が務める。

 これまでに多くの著名人にインタビューを行ってきた同紙だが、その顔ぶれにまず驚かされる。

 樹木希林、西原理恵子、横尾忠則、羽生善治、萩尾望都、内田樹、茂木健一郎、りゅうちぇる、立川志の輔、谷川俊太郎、大槻ケンヂ、庵野秀明……。錚々たる面々だ。

 石井さんも16歳のとき、子ども・若者編集部の一員として、インタビューを初めて経験した。

石井志昂さん 撮影/伊藤和幸

「私自身が不登校で、どうやって生きていっていいかわからなかった。学校に行ける気もしないし、ちゃんと働ける気もしない。そもそも“大人って楽しくなさそう”という思いがあったんです。

 唯一興味があったのは、自分がファンだった糸井重里さんや、みうらじゅんさん。彼らに“あなたみたいにはどうやったらなれるのか?”ということを聞いてみたかったんです」

 思想家の吉本隆明さんにインタビューをしたときは、石井さんはまだ19歳だった。

「吉本さんのことは、雑誌のコラムで読んだことがあったくらいであんまりよく知らなかった(笑)。取材を申し込んでOKをもらえたので、編集部に伝えたら、代表から“石井くん、どういう意味かわかっているの?”と言われました。

 10代の子たちと何人かで取材に行ったんだけど、吉本さんの話を聞きながら寝ちゃう子もいたりして大変でした。でも、そのとき寝ちゃった子はのちに、信濃毎日新聞の記者になったんですけどね(笑)」

 数多くの著名人を前にして石井さんは、感銘を受けたと話す。

「インタビューをしていて、生きてるな! という感じがしたんですね。その現場に行ったときに、学校とはまるで違う、(人生の)本番というか……。よく“人間には居場所と出番が必要”というけれど、フリースクールが居場所なら、これが出番なんだと思った。

 頭の先から爪先までビンビンに緊張した状態で聞きに行くんですけど、みなさん、温かく迎え入れてくれて。いろんな生き方があるよ、と教えてくれました」

 例えば、コピーライターの糸井重里さんは「せっかく不登校するんだったら楽しめばいいよ」と言ってくれた。シンプルな言葉だが、石井さんは身体の中に入ってくるのを感じたという。

「ああ、こういう瞬間に出会えるのは本当にいい仕事だな、と。それで私は記者になったんです。ほかの人にも知ってほしいと思って、不登校の子に、一緒にボランティア記者として取材に来てもらったりするようになりました」

子ども若者編集部の会議で議論をする石井さん。現在までに20年以上にわたり不登校新聞に関わり続けている

 不登校新聞では毎月第3日曜日に、「子ども・若者編集会議」を行っている。

「参加するのは15人くらいで、会員は80人ほど。世代は入れ替わってきていて、今は中心となるのは20代前半くらいですね。かつて不登校で今は学生だったり、何もしてなかったり、いろんな立場の子がいます。現在、リアルタイムで不登校の子は2~3割くらいですかね」

 1~2回、取材に参加すると、彼らは自然に編集部から「卒業」していくそうだ。

 編集会議では、まず名前と今日来た理由などを話して、その後、みんなで話し合いたいことを紙に書いて出し合う。そこから、テーマごとに分かれてディスカッションを始めて企画が決まり、記事の作成を目指すのだ。

不登校新聞編集部にあるボツになった企画の「お墓」。年に1回、取り出して供養をしているとか

「でも8割くらいは、ディスカッション自体を楽しみに来ている感じですね。“なんで不登校って罪悪感を感じるのだろう?”などというテーマで議論ができると、やってよかったなと思います。

 それで(議論のあと)記事にしてもらいたいなと思うんだけど、なかなか記事になっていない(笑)。ほかにも『不登校かつLGBT』とか、『リストカットと私』とか、そういう企画がどんどん出てきます」

 石井さんが編集会議で参加者に伝えるのは、「私だけが救われる取材をしに行きましょう」ということだ。

「編集会議に来る子たちは、“自分の経験を活かしたい”“不登校の経験を活かして、不登校の人に役立つ取材をしたい”と言います。それだけ不登校をしていた自分を責める気持ちや、罪悪感が強いからです。

 でも、まず他人の役に立ちたい気持ちをあきらめてもらって“私だけが救われるために話を聞く、そういう取材をしましょう”と言います。“私が悩んでいること”を伝えてください、とね」

 すると子どもたちは、実際に今抱えている切実な悩みを取材対象者へ打ち明ける。

「これから大学に進学しようか悩んでいる」

「不登校の自分はこの先、生きていけるのか」

「バイト先で付き合っていた彼氏がいたんだけど、別れて違う女のほうに行っちゃってムカつく」

リリー・フランキーが“記者”に送った言葉

 彼らはプロの記者ではない。あくまでも素人である。ましてや、ひきこもりがちな人も珍しくない。

そもそも編集会議が“遅刻、早退、バックレ歓迎”なんです。取材当日も、来ると言っていた子が来ないなんてことは日常茶飯事。行きたいのに行けない人も多い。

 でも、本人からすれば、本当に行きたい気持ちはあるんです。だから必死で来ようとする。道に倒れ込んじゃった子とか、取材の重圧で道に座り込んじゃった子から電話がかかってきて、“じゃあ、迎えに行こうか”と向かっている途中で、大丈夫になったからと連絡があって、合流したり……」

 著名人を前に緊張して、どうしていいかわからなくなり、思わずその場で友達にメールで相談してしまう子もいた。取材中であるにもかかわらず、大リーガーのまねをして緊張をほぐすためにガムを噛むという、とんでもない行動をしてしまうこともあった。

「インタビューの途中で寝てしまったり、まったく関係ない質問をして記事にならない取材になっちゃったり……。そんな0点の質問もあるけれども、私たちには出せない100点以上の質問、取材をしてくることもあるんですね。

 私は、彼らの自己実現のためにとか、不登校の人たちを支えるために取材に呼んでいるわけではなくて、すべてはいい取材をするためなんです」

編集会議では企画方針などをめぐり熱い議論が続く。当事者視点の記事づくりがモットー

 最近は俳優としても活躍するタレント、リリー・フランキーさんのインタビューの際は、不登校経験者8人が参加した。

「ひとりずつ相談するので、“はい、次の人”という感じで、まるで問診のようでした(笑)。ある子が“不登校だから自分に自信が持てない。何をやっても情緒不安定で困っている”という悩みを打ち明けたんです。するとリリーさんは、“若いから情緒不安定なんだ。情緒が不安定じゃない人は、情緒がないんだ。はい、次の人”って(笑)」

 インタビューをひととおり終えて、最後にリリーさんはこう語ったそうだ。

「“あのね、きみたちは若者なんです。つまり、バカなんだ。あなたたちが考える未来なんて絶対に当たりません。だから安心していいんだよ。そんなに不安になって、こんな自分にならなきゃとか、思わなくても大丈夫”と──。グッときましたね」

 言われた子どもたちも、「あー、なるほど!」と大きくうなずいたという。

 ほかにも印象深いインタビューがいくつもある。最近では、タレントの坂上忍さん。

「インタビューの場で、ひきこもりの女の子が“私、女優になりたいんです。以前、子役もやっていたんですけど、私、女優になれますか? (ひきこもっているのに)なりたいと思っていてもいいんでしょうか?”と聞いたんです。

 すると坂上さんは、結構悩んだすえに丁寧に話してくれたんですね。“思ってもいいんだよ、女優になりたいと。でも、もし本気で思っているならば、自分で可能な限り、できる範囲で動いていくと発見があると思うよ”って」

 この言葉に石井さんは大人のバランスを感じたという。

「私が聞かれたら、なんと言っていいかわからなかったでしょうね。“女優なんてなれないよ”と言ったら本人を傷つけそうだし、“なれるよ”と言い切るのも無責任な話だし……。でも、たくさんの子役を見てきた坂上さんは“可能ならば、いろんなことをして動いてみれば”と、大人だからこその言い方で答えた。あれは感動しましたね」

'12年には文科大臣時代の田中眞紀子氏に独占インタビューを行ったことも

 インタビュー取材というより、まるで人生相談のよう。

「結局、取材になるかならないかではなくて、子どもたちは自分が心底行き詰まっていることを聞くんですね。だから、何が出てくるかわからないんですよ」

 直木賞作家の辻村深月さんの取材でも、忘れられないエピソードがあった。ある子どもが「私はいじめていた人を許せない。それを許さなくていいんですか?」と辻村さんに聞いた。すると辻村さんは、こう話してくれたのだ。

「許さなくていいんです。それを言いたくて、私は(著作の)『かがみの弧城』を書いたんです。そのことを取材してくれる人が誰もいなくて、あなたが初めてだった」

 取材を終えて辻村さんは、本当に緊張したと話していたという。石井さんが言う。

「やっぱり子どもたちが真剣に聞いてくるので、真剣に答えることになるんですね」

中2の不登校から人生が始まった

 いまや名物編集長となった石井さんだが、その原点は中学2年生。「不登校から人生が始まった」と、石井さんは述懐する。

小学校6年生のころの石井さん。すでに万引きが止まらなくなっていた

 石井さんは1982年に東京・町田市で生まれた。父親は建築関係の仕事に従事していた。

 母のすすめもあって、小学5年生から通い始めた塾は、私立中学への進学実績を誇り、そのための極端なスパルタ指導で知られていた。

「塾は週に4回。3回は授業で、土曜日がテスト。テスト結果によってクラスの席順が決まります。ある日先生が、クラスの中央ぐらいに立って“ここから下の成績の人間には人生はない!”と言ったんです」

 その言葉に石井さんは恐怖を覚えたという。ストレスが募り、石井さんは万引きが止まらなくなってしまう。

「6年生くらいから、ほぼ毎日、ひたすら万引きし続けていました。特に罪悪感はなくて、ただただ習慣化していましたね」

 その後、受験に失敗し公立中学へ通うことが決まった。

「もう、負け犬とレッテルを貼られたような感覚でした。そうして入った中学ではいじめに遭い、校則など不条理なことにもすごく腹が立って、こんな中学はおかしいと、不登校になっていったんです」

 そして石井さんは、フリースクールの「東京シューレ」に通うようになった。

「13歳から19歳まで6年間通っていました。当時のスケジュールは、朝11時くらいに起きて、お昼過ぎにフリースクールに行く。夕方の6時くらいまでみんなで話したり、体験学習したり、麻雀したりしていましたね」

 フリースクールには授業のようなものはない。いくつものスケジュールがあり、その中から子ども自身が好きなものを選ぶのだ。

「私の場合、“イベントを作る”というのをよくやっていました。企画して準備して、その運営にも取り組んで」

 フリースクールでは、子ども自身が「学び」だと思うものは、すべて「学び」になるという考え方をする。

「おもしろかったのは、その“学び”が発展していくこと。みんなで民族音楽にハマったことがあるんです」

 バラエティー番組『タモリ倶楽部』でやっていた民族音楽にヒントを得て、石井さんたちは、まず民族音楽のCDをたくさん借りてきて、「民族音楽講座」を開催した。

「民族音楽講座をやっているうちにおもしろくなってきて、今度は“民族料理を食べに行こう”となり、沖縄料理店に行ったんです。すると店のおばあちゃんが戦争の話をしてくれた。沖縄戦のことは、なんとなく知っていたような気はするんだけど、生の話を聞くとビビッときたんですね。これは大変なことだと。

 “実際に現場に行ってみたいね”となって、沖縄旅行を計画して、フリースクール全体で“戦争の歴史を学ぶ旅行”に発展していきました」

不登校が始まった中学時代(前列右から2一目)。その後、フリースクールとの出会いで自ら学ぶ機会を得た

フリースクール時代の友人たち

 現在は製薬会社に勤務する白石有希さん(36)は、フリースクールで石井さんと一緒に過ごした。

「志昂(石井さん)は、行動力はすごかった。髪の毛を辮髪みたいにして、まるで岡本太郎みたいな爆発力でみんなを引っ張っていくやつでした」

 一方で、ヤンチャな部分もあったらしい。

「僕が好きな女の子がいたんだけど、志昂がはやし立てるんです。“この野郎!”と頭にきたことが何度もありましたね(笑)」

 信田風馬さん(39)も、10代のほとんどを石井さんと過ごしている。

「彼はプロジェクトの企画などで、すごく活発に活動していましたね。でも、その一方ですごく寂しそうで、他人のことを気にする一面もあります。10年も前のことを突然謝ってきたり。ヤンチャだったので、だいぶ大人になったなぁと思います(笑)」

 ひきこもりの当事者・経験者の声を発信するメディア『ひきポス』を発行している石崎森人さん(37)は、28歳から33歳まで「子ども・若者編集部」に参加、石井さんとともに活動していた。

「僕は大学を卒業したあとにひきこもりだった時期がありました。それを脱して暇だったときに、友人がアニメ監督の押井守さんをインタビューしたと聞いて不登校新聞のことを知り、興味を持ち参加しました。その編集部での経験をもとに、'17年にウェブ版の『ひきポス』を創刊しました。書き手の中には、不登校新聞にも書いている人がいます。

 今でも石井さんとは一緒に飲んで話をする仲です。出会ったときから“この人はすごい。将来、有名になるな”と思ってましたよ

 大学院で不登校について研究し、その後、不登校新聞のスタッフになって15年の小熊広宣さん(41)は、石井さんと最も長く仕事を共にしてきた存在である。

「石井のエピソードですか? ありすぎちゃって。取材日程をダブルブッキングしたことも1度や2度じゃないですし、インタビュー中に録音機が回っていなかった、なんてこともありました」

 今でも思い出すのは、政治家の故・野中広務さんのインタビュー。

「石井と、子ども若者編集部の子ども記者で取材先に向かったときでした。私は編集部にいたんですが、野中さんの秘書の方から“約束の時間が過ぎているんですが、まだいらしてないんです”と電話があったんです。驚いて石井に電話をすると“取材先には到着しているけれど、部屋がどこだかわからない”と……。秘書の方も石井も、私も、てんやわんやになっていました。取材は無事にできましたが、あのときの緊張感は今でも鮮明に憶えています」

 小熊さんは、石井さんを「エネルギッシュで多動型」だと表現する。

「困ることだけじゃなく、いい面もある。不登校に関する事柄に常にアンテナを張っていて、感度がいい。(前述した)18歳以下の日別の累計自殺者数は9月1日が突出して多いというデータをどこよりも早く発見して、文部科学省で記者会見を開いたわけですが、これは石井の功績だと思います」

子どもの自殺が増えている時代の処方箋

 不登校新聞が創刊して23年。その間、不登校に対する世の中の見方やとらえ方は、時がたつにつれ「随分、変化してきたと思います」と石井さんは指摘する。

コロナ禍は教育環境も変えた。石井さんは「学校以外の場で学びを得られる選択肢がもっと増えていくといい」と話す 撮影/伊藤和幸

「特にここ数年で格段に変わりましたね。'17年に『教育機会確保法』ができたことが大きい。これは不登校に関する初めての法律で、これができてまず文科省が変わった。

 不登校に対して、“学校に復帰させることだけを目的とした支援をやめてください”と公言したんです。従来と180度、方針を変えました

 行政が認識をあらため、「学校以外の場で学ぶことの重要性」「学校を休ませる必要性」について取り組みを始めた。これには、大きな意味があるといえる。

 変わったのは、国や学校現場だけではない。

「不登校が一般の人々に認知されやすくなった影響もあると思います。追い詰めると死に至ることもある問題なのだと知る人が増え、フリースクールの存在も知られるようになり、不登校に対して寛容なムードが出てきた」

 さらに昨年からのコロナ禍による影響が、大きな変化を生み出している。

「学校に行かない時間というのが当たり前になりました。学校現場で重要視される順位が、不登校より“リモート授業”“オンライン授業”という位置付けになり、ガラッと変わったんですね。今までは学校に行くことだけが“学び”を得る正当な手段とされていて、それに代わる選択肢が少なかった。ところが今、コロナをきっかけに本当に新しく変わろうとしています」

 先日、石井さんはテレビ番組にゲストとして招かれた際、「不登校という生き方」やフリースクールなどについて解説した。

「番組で、司会者の男性が突然、“これから新しい教育が始まろうとしているんですね”と私に言ったんです。びっくりしました。その司会者は団塊の世代の方ですから、学生時代は生徒もたくさんいて、学校もすごく楽しかったんだろうと思うんですね。夢も希望もあっただろうし。そんな素晴らしい記憶のある学校に“行きたくない”と言われたら、自分が否定されたような気持ちになっても不思議じゃない。

 でも、司会者の男性は今の子どもたちにとって“これから新しいことが始まろうとしているんだ”と、そういう空気を感じていらっしゃった。私も、そうあるべきだと思います

 その一方で、コロナ禍のもと、昨年は小中学生の自殺が過去最多になった。不登校新聞では子どもの自殺増加を防ぐため警鐘を鳴らしている。

「4人に1人の子どもが死にたいと考えているというデータもあります。長引くコロナ禍は心にも深刻な影響を与えている。だから、あらためて注意喚起が必要です。特に連休明けは、不登校や体調不良という形でSOSが出ることもあります」

 そうした場合、「TALKの原則」が有効だと石井さんは言う。

「まず“Tell”。“私はあなたを心配している”と伝えて、“だから話を聞かせてくれないか”と投げかける。次に“Ask”。質問は、率直にすることです。“死んでしまいたい気持ちなの?”とはっきり尋ねる。

 次に“Listen”。相手が話し始めたら、最後まで傾聴する。最後に“Keep safe”。危ないと思ったら安全を確保する。自傷行為があれば、そばを離れない。もし、いじめがあったら学校に行かせない。いじめって暴力ですから、暴力がある学校から強引に引き離すことも大事です」

インタビューを精選した単行本『学校に行きたくない君へ』も好評

 '15年8月22日、不登校新聞の主催による「登校拒否・不登校を考える全国合宿in山口」に、亡き樹木希林さんが登壇した。そこで寄せられたメッセージは、不登校やコロナ禍での子どもの自殺が増えている今、示唆に富んでいる。抜粋して紹介しよう。

《“ずっと不登校でいる”というのは子ども自身、すごく辛抱がいることだと思う。学校には行かないかもしれないけど、自分が存在することで、他人や世の中をちょっとウキウキさせることができるものと出会える。そういう機会って絶対訪れます》

《自殺するよりも、もうちょっとだけ待ってほしいの。そして、世の中をこう、じっと見ててほしいのね。あなたを必要としてくれる人や物が見つかるから。だって、世の中に必要のない人間なんていないんだから。私も全身にがんを患ったけれど、大丈夫。私みたいに歳をとれば、がんとか脳卒中とか、死ぬ理由はいっぱいあるから。無理して、いま死ななくてもいいじゃない。だからさ、それまでずっと居てよ、フラフラとさ》

 石井さんは、最後にこれだけは伝えたいと言って、こう切り出した。

「不登校になって学校に行かなくなったら、学力はどうなってしまうの? こうした親の声は必ず出てきます。でも、学力と命を天秤にかけないことです。これを心からお願いしたいと思います」

〈取材・文/小泉カツミ〉

こいずみ・かつみ ●ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数