「ダメ銀行員だった」と語る千津さんは、東日本大震災を機に農業支援を行うNGOに転職。駐在先に決まったアフリカのウガンダでカラフルな布「アフリカンプリント」に心奪われ、農業ではなく、アパレル会社を起業する。子どもの養育費を稼げず自分を責めて生きていたウガンダのシングルマザー、4人の子育てを全うした母、多くの女性たちに新しい人生の彩りをもたらしたラッキーアイテムをめぐる転身物語──。
カラフルで元気の出るアフリカンプリント
「お待たせしました!」と遠くから手を振り、小柄な女性が笑顔で走ってくる。仲本千津さん(36)は、約束の時間ピッタリに風のように現れ、「準備する間、店内を見ていてくださいね」と、私たちを中に促した。
東京・代官山の駅から徒歩5分の好立地。店舗の壁一面には、日本では珍しいカラフルで大胆な図柄のアフリカンプリントを使用したバッグや雑貨がずらりと並ぶ。『RICCI EVERYDAY』は、千津さんがアフリカのウガンダに駐在していたころに設立した会社だ。
「日本の女性って、トレンドに左右されてみんな同じようなデザインの服を着ていることが多いでしょう? 特に職場では、ベーシックな色合いじゃないと周りから浮いてしまう。でも、小さな雑貨やバッグなら自分が好きなものを取り入れやすいと思って。自分の選んだお気に入りのプリントのバッグを持つことで元気になってほしい。自分のありたい姿を見つけて、そこにまっすぐ向かっていくきっかけづくりができたらいいなと思っています」
今年8月で創業6年、現在のラインナップはおよそ300種類。商品のほとんどは、ウガンダの首都・カンパラにある工房で作られている。
ウガンダは東アフリカの内陸にある赤道直下の国だが、標高が約1200メートルと高いため、日本の5月のような爽やかな気候が1年中続く。
「緑も美しく、ごはんも美味しい。とても暮らしやすい国です。ウガンダでは友人宅の一室を間借りしていて、コロナ以前は1年の半分を向こうで過ごしていました。今は行き来を制限されていますけど」
アフリカンプリントを生かしたバッグや雑貨を作っている現地のスタッフは21人。20人が女性で、その8割はシングルマザーだ。
ウガンダはシングルマザーが多い。一夫多妻制で、結婚という概念も薄いのでパートナーはふらりといなくなる。働かずに昼間からギャンブルや酒に飲まれている男性も多く、家庭内でのDVも起こりやすい。養育費もない状態で子育てをしているシングルの女性は珍しくないという。
「小学校に通わずに育ったことや、仕事で十分に稼げていなかったことで子どもにひもじい思いをさせ、自分を責めるように生きてきた女性たちが、今はひとりひとりプロフェッショナルとして輝いていると感じます。そんな姿を見られることが私の原動力ですね」
クラッチバッグや肩掛け、手持ちなど4通りの形にアレンジできる人気商品『アケロバッグ』を手に取り、千津さんは誇らしげに現地スタッフの話をする。
「持ち手の革の部分、手縫いなんですよ。すごく難しい技術で、最初は1人しかできなかったのに、それじゃあ商品作りが追いつかないからって彼女たちの間で勝手に教え合っていて。みんなまじめでモノづくりに真剣なんです」
母娘でありながら共同経営者という関係
店舗の入り口で物音がして、千津さんが手を上げた。
「あ、来た来た。ハロー!」
千津さんが手を振るほうに目をやると、後から駆けつけた母の律枝さん(63)がニッコリ微笑んでお辞儀をしていた。
「母ちゃん、紺のワンピースで来たの?」
「このほうがバッグが映えるかと思って」
実はこの2人、母娘でありながら共同経営者という関係でもある。会社設立当初、ウガンダに住んでいた娘に頼まれ、静岡で暮らす専業主婦だった母の律枝さんが一念発起。ウガンダと日本、母娘の二人三脚でこれまでやってきた。
「千津は子どものころから本当に天真爛漫で、悪く言えば大雑把(笑)。小さいころからずっとそう。おもちゃのお片づけだって、隣の部屋に押し込んで終わりですし、ちょっと目を離したすきに雨上がりの公園で滑り台から水たまりに頭から滑ってドロドロになって大笑いしていたことも」
と律枝さんが言うと、隣で「あんまり覚えてないなあ」と笑う千津さん。
「私は慎重に段取りをしないと落ち着かないんですけど、千津はいつも何をするか想像できないんです。私が専業主婦から会社を手伝うことになったきっかけも、ウガンダから突然ラインで……(笑)。でも、そのときは本当にうれしかった」
お互いの性格を生かしてカバーし合い、事業を順調に展開してきた。だが、昨年4月、初めての緊急事態宣言で大きな打撃を受ける。代官山の人通りはパッタリと途絶え、店は2か月の休業。予定していた百貨店でのポップアップストアもすべてキャンセルになったと千津さんは言う。
「でも、なんとかするしかない。在庫をすべてオンラインストアに集約して、急きょ、商品のラインナップを増やしました」
当初は数種類のバッグのみ展開していたオンラインストアに、ポーチやアクセサリー、インテリアアイテムなどを次々に公開。毎週金曜日には必ず新しい商品を追加した。今まで大切にしてきた心を込めた接客の機会をなくさないよう、インスタグラムでのライブ配信も始めた。
その効果は高く、新たな顧客も獲得できた。オンラインの売り上げは倍増している。
「今はなかなかウガンダに行けませんが、そんなに問題はありません。現地での採用は任せていますし、何かトラブルがあっても、彼女たちの間で解決できることは任せたほうがいいと思うんです。彼女たちにとって私はやっぱり外国人だし、出るべきところと出ないところはわきまえるようにしています」
ヒョウ柄で臨んだ「半沢直樹」の世界
当初、千津さんのキャリアにアパレルの要素はなかった。社会人としてのスタートは大手メガバンク。1年目から花形のエースが集まる支社に配属された。担当は中堅中小企業の営業。華やかな実績を残した先輩や優秀な同僚たちの中で、千津さんは最初から居心地の悪さを感じていた。
「銀行なら海外に駐在できそうだと考えたんです。何年か頑張れば行けただろうけど、私はどうしても社風になじめなかった。歌舞伎役者のような人はいませんでしたが、あのドラマに近い世界でした」
そこはまさに『半沢直樹』の世界。仕事のルールを定めた「手続きマニュアル」は厚さ10センチ以上もあった。
「私、ダメ銀行員だったと思います。そもそも、銀行の仕事の意味を理解できていなかったし、ルールを覚える気になれない。全く興味が湧かないんです。これって何のためのルールなんだろうと考えてもわからない。
それに、見渡すとスーツも髪の色もみんな同じ。このままじゃ個性が潰されると思って、ヒョウ柄や原色のカットソーを着たり、網タイツはいたり、ネイルを派手にしたりしたので、問題児扱いされてました(笑)」
通常は序列で並ぶ席順、本来なら新人は末席のはずだが、ある日、千津さんだけが支社長の目の前に席替えとなった。
「きっと、支社長にも心配されていたんでしょうね(笑)」
そんな千津さんが、唯一素直に話せた上司が豊田育雄さん(56)、千津さんが所属していた部署の部長だった。
「さすがにその服は営業担当としてどうなの、と声をかけたこともありますが、反抗しているような嫌な感じはないんです。私は本人のファッションセンスなんだろうと捉えていました。素直な明るさがある自然体の人ですね。仕事のやる気はあまり感じなかったけど、そこそこうまくまとめてくる。そんなにダメなイメージはありませんでしたよ」
豊田さんにとって印象的だったシーンがある。千津さんの営業に豊田さんが上司として帯同したときのこと。電車からバスに乗り継ぐと、迷わずいちばん後ろの席に向かってちょこんと座り、バッグからゴソゴソとスナック菓子を取り出してこう言った。
「遠足みたいですね。豊田さん、お菓子食べます?」
「普通はそういうこと上司にしないですよね(笑)。私も驚きました。それでも笑って突っ込める。典型的な銀行員ではありませんが、お客様に対しては誠実だし、可愛がられていました。厳しい先輩にはちゃんと距離をとっていましたから、無謀な感じもありません。相手を見ながら、人との距離感を適切に詰めるのがうまいんですね」
職場の同僚や上司に恵まれて2年が過ぎようとしていた2011年3月、東日本大震災が起こり、千津さんは銀行を辞める決心をした。
銀行の仕事と自分の志とのギャップ
銀行の仕事は、順調な企業に融資して資金を増やさなければならない。そのため、経営状態が厳しいところには厳しい態度を取るのが基本だ。それがずっと心に引っかかっていた。
「私が大学や院で学んだこと、インターンとしてNGOで携わってきた活動は、厳しい状況に置かれた人たちの生活をいかに改善するかという目的がありました。ところが、銀行ではまるっきり逆のことをしている違和感がずっとあった。東日本大震災を経験したとき、やりたいことを先延ばしにするのはやめよう、すぐに取りかかろうと決めました」
千津さんが海外に興味を持ったのは高校2年生のころだ。世界史の授業で、日本人初の国連難民高等弁務官・緒方貞子さんのドキュメンタリー番組を見て衝撃を受けた。
「正しいことをするっていちばん難しいじゃないですか。緒方さんは、政治的な軋轢やプレッシャーがあっても、『人が苦しんでいたら助けるのは当然です』と平然と突き進み、やり抜く。その強さがカッコよかった」
早稲田大学法学部で国際関係を学び、一橋大学大学院に進学。民族紛争の研究を進めたが、社会の課題を解決するにはお金の動きを知る必要があると考え、銀行を選んだ。
「大学で研究者として進むという選択肢もあったと思うんです。研究して論文を書いて、大学生に講義をして、若い世代に託す。だけど、何百人に伝えても、きっと実際に行動に移せるのは数えるほどですよね。それで本当に社会が変わるのかな、もっと有効なアクションはなんだろうってずっと考えていました」
院生のときにインターンで関わったNPOの『TABLE FOR TWO International』では、アフリカの食料問題にアプローチした。
「NPOの代表の小暮真久さんは、元外資系のコンサルタントでした。民間企業を巻き込みながら資金面での持続性も担保し、インパクトの大きな活動をしていました。これだ、と思って。研究者になって私にできることといえば、誰も読んでくれない論文を書くことくらい。それよりも、社会に与える影響がずっと大きいと思ったんです」
自分の志に立ち返り、社会支援を目的とした起業を目指し、アフリカに行こうと決めた。とはいえ、何のアテもなく1人で行くのは心もとない。アフリカに駐在できるNGOへの転職活動を行い、内定を受けて銀行を辞めた。退職を決めてから半年、26歳の秋だった。
内定先は笹川アフリカ協会(現・ササカワ・アフリカ財団)、農業支援を行うNGOだ。最初の2年半は東京オフィスからアフリカ各地に出張に出かけた。ケニア、ガーナ、マリ、ナイジェリア、ジブチ、エチオピア──。アフリカ各国の農地へ足を運ぶ日々が続く。
「実は私、それまでアフリカに行ったことがなかったんです。それに、日本でも外出先のトイレを使えないくらい潔癖症で(笑)。トイレや食事、生活面が心配だったけど、実際にいろんな国に行くことができて、なんとかなりそうだとめどが立ったころ、ウガンダへの駐在が決まりました」
2014年のことだ。千津さんがアフリカの中で最もその土地や人の魅力に惹かれていた国だった。
カラフルな布の山で宝探し
ウガンダに移り住み間もない休日、青年海外協力隊としてウガンダで活動していた日本人の友人に誘われ、市場へ出かけた。
「面白い布屋さんがあるから行こう!」
店に入ると、床から天井まで壁一面にぎっしりとカラフルな布が積み上げられている。模様は一枚一枚すべて違った。その光景に圧倒されていると、店員に長い棒を渡された。
「この棒で欲しい布を指せば取り出して見せてくれるよ」
友人に言われ、千津さんは胸の高鳴りを覚えた。
「もう、本当に楽しくて。布の山から自分の好きな柄を選ぶのは、まるで宝探し。その場で2時間ぐらいあれこれ見せてもらいました」
それから休みのたびに足しげく通うようになり、選んだ布をお気に入りのテーラーに持ち込んでは服を仕立てた。
そして布屋に通ううちに、農業よりもアフリカンプリントの布に心惹かれていった。
個性的な柄には意味が込められているものもある。お金のシンボル「ツバメ」、誰よりも早く走るという意味の馬が描かれた「ホースホース」、正義の象徴「サークルサークル」、井戸に雫が落ちる様子を描いた「アイ柄」、人生のバイオリズムを表した「ウェーブ」も人気の柄だ。
アフリカンプリントは、周囲に好まれるファッションではなく、自分が好きなものを選ぶ自由と素晴らしさを思う存分楽しむことができる。
「銀行で自分を見失いそうになっていたとき、人とは違うカラフルなおしゃれで支えられていました。ダーク系のスーツに差し色や柄を組み合わせて楽しむことで、自分らしさを守ることができた。それを思い出しました。自分で選ぶ色や柄は、個性を代弁してくれる。そのままでいいんだって思える。私のラッキー・アイテムになっていきました」
日本人の友人や母親にも贈ってみると、みんなとても喜んでくれた。
「これで起業できるかもしれない」
アフリカンプリントを使ってウガンダでバッグの制作をできないか。バッグや雑貨なら洋服と違って季節は問わない。そう思いつき、「手先が器用な人はいないか」とあちこちで声をかけ始めた。
鶏や豚で学費を稼ぐシングルマザー
ある日、現地法人の日本人の友人がひとりの女性を紹介してくれることになった。
彼女の名は、ナカウチ・グレース。年齢は千津さんより少し上。30代半ばだろうか。自宅に招かれ、リビングのソファに座ったときだ。
「コケーッ! バサバサバサッ!」
大きな音に驚いて振り向くと、鶏が10羽ほど歩いていた。落ち着いてもう一度見たが、確かに室内にいる。裏庭には豚もいた。「すごいところに来ちゃったなあ」と思いながら、鶏を飼っている理由を尋ねると、彼女から予想外の答えが返ってきた。
「子どもたちを学校に通わせるため。卵からは栄養をとれるし、クリスマスには高く売れる。豚も、1頭育てれば子ども1人の1学期分の学費になるし、子豚もたくさん産むから」
聞けば、彼女は4人の子どもを育てるシングルマザー、1人はHIV感染で亡くなった彼女の姉の子だった。収入は友達の家の清掃で稼ぐ月10ドル。畑を耕し、ほぼ自給自足の生活をしていた。学費は1学期ごとに支払うため、お金がなければ次の学期は学校に通えなくなるという。
「はじめてグレースに会ったとき、彼女はうつむきぎみに話していました。自分が小学校にも行っていないから子どもを学校に行かせることができない。私のような大人になってほしくないと言っていた。でも彼女には、鶏や豚を飼って学費を稼ぐことを考える賢さがあった。それに、おおらかなタイプが多いウガンダ人には珍しく、時間を守るし手先も器用。この人なら一緒に仕事ができる。この人が笑顔になれるといいなと思いました」
職業訓練校の費用を千津さんが負担し、グレースさんに技術を磨いてもらった。3か月後、ある程度の上達はしたが、試しにバッグを作ってもらうと日本で販売するのは難しい出来だった。そんなとき、1人の女性が千津さんに声をかけてきた。
「私もやってみたい」
千津さんが職業訓練校に出入りしている様子を見ていたスーザンさんだった。試しに作ってもらうと、ミシンの腕は確かだ。そしてもう1人、革の縫製ができるサラさんも名乗りを上げた。聞けば、2人もシングルマザーだった。
「シングルマザーを応援しようと思って始めたわけではないんです。気がつけばみんなシングルマザーだった。そしてやる気や技術がある。彼女たちは子どもたちに教育を与えるために働いていた。ウガンダで女性たちの雇用を作れば次世代を担う子どもたちが教育を受けられるようになる。社会の仕組みを変えることにつながるかもしれないと思いました」
グレースさん、スーザンさん、サラさん、そして千津さんの気持ちはひとつになった。知り合いの家の3メートル四方の部屋をタダで借り、冷蔵庫や炊飯器などの家財道具の横にミシンを1つ置いた。そこが4人にとっての最初の小さな工房だった。
「3人とも子どもを抱える母親ですから、起業前とはいえタダで働かせるわけにはいかない。私の貯金を崩して作った分を支払うことにしました。平日はNGOの仕事、休日はその小さな部屋にこもって仕上がりをチェックしました。休む暇はなく、大変だったけど楽しかった。3人がとても一生懸命だったし、人柄もいい。問題があっても3人で解決できる聡明さにも驚かされました」
商品の製作にめどが立ったころ、千津さんは思い立ち、日本にいる母にウガンダからラインを送った。
専業主婦だった母が大活躍!
母親の律枝さんは、4人の子育てをしてきた専業主婦だ。千津さんはいちばん上の長女。ウガンダに駐在していた千津さんからはラインで時折、テーラーに仕立ててもらったワンピースやバッグの写真が送られてきていた。
「とっても素敵。こういう柄って日本にないわよね」と返信した。
数か月後、唐突にこんなラインが来た。
「母ちゃん、一緒に会社やらない?」
千津さんは幼いころから突発的な発言や行動で周囲を驚かせてきた。口にしたときにはもう決めている。一度決めたら意志を貫く。銀行を辞めてアフリカに行くと言ったときも、父親が大反対する中、律枝さんは「反対しても止められない」と諦め、見守った。
でも今回は律枝さん自身も大きな決断を迫られた。専業主婦から突然の共同経営者になることができるのか──。
35年、専業主婦として暮らしてきた。夫は商社勤務で、そのほとんどが単身赴任。
「子どもが4人いると、1人が風邪をひけば全員にうつってしまう。全員を車に乗せて私も含めて5人セットで病院に行っていました。順番を呼ばれるときは、名前じゃなくて『次、仲本ファミリーどうぞ』(笑)。性格もみんなバラバラで本当に大変だったけど、それぞれの子どもたちのよさをどうすれば伸ばせるかなって考えるのも楽しかった。家事や子育ては好きだったし、そのことが仕事にも全部生かされているような気がします」
千津さんからラインが届いたのは、いちばん下の娘の大学進学が決まり、子育てがひと息ついたタイミングだった。
「子育てが終わったら何をしようかしらってずっと考えていたんです。子育て中は『おかえり』って言ってあげたかったから、子どもたちがいない間に2〜3時間だけパートをしたことしかありません」
パートは、ホテルの厨房でパティシエの補助を2年、趣味で習っていた版画の先生のお店をたまに手伝うくらいだった。でもいつか、趣味の店や接客の仕事がしたいと憧れていた。
「だから私、とてもうれしかったの。できるかできないかより、やってみたいって思ったんです」
迷うことなく返信した。
「そうね、やりましょう。株式会社にするの?」
2015年8月、『株式会社 RICCI EVERYDAY』を設立。律枝と千津の最初のひと文字を取って、社名に「リッチー」を含めた。
律枝さん58歳、新しい生活のスタートだ。
静岡県内のテレビ局や新聞社の電話番号を104で調べ、電話をかけてはファックス番号をたずね、プレスリリースを20社に送った。すると、新聞社とテレビ局から連絡があり、密着取材も決まった。
「もう必死でした。でも、初めてのことばかりだから新鮮で、大変というよりはとても楽しかった」
ある日、夫と静岡伊勢丹に買い物へ出かけたとき、中央の入り口を入ったところに、バッグが展開されているポップアップストアを見つけた。
「とても気持ちのいい空間なんです。ああ、ここに私たちのバッグが飾られて、入り口からさーっと吹き込んだ風に揺れていたらどんなに素敵だろうって考えると、いても立ってもいられなくなって」
律枝さんはすぐ近くにいた店員に声をかけた。
「どうすればここで販売できるんですか」
バイヤーから許可が出るとポップアップショップに出せるという。「正式にアポイントを取らないとダメだよ」と隣でいさめる夫をその場に残し、足早にインフォメーションへ。
手に持っていたバッグを見せて事情を話すと、現場にいたバイヤーにすぐつなげてもらうことができ、その場でアポイントを取りつけた。
「バイヤーさんや百貨店さんのビジネスの仕組みがわかってくると、あのとき私はなんて失礼なことをしちゃったんだろうって恥ずかしくなりましたけど、運がよかったんですね、きっと。主人にも、お前にこんなことができるとは思ってなかったって驚かれました」
仕事は子育てよりラク?
伊勢丹でのポップアップ販売がトントン拍子に決まり、テレビの密着取材もタイミングよく開催期間の2日前に放映された。すると、準備していた20点は初日の午前中に完売。噂を聞きつけたほかの百貨店からも声がかかる。慌てて商品をかき集めて追加搬入した。
順調に販路を拡大すればするほど仕事量は増える。千津さんは、布地の買いつけや工房の拡大、現地での生産管理などもあり、年の半分をウガンダで過ごしていた。
その間、国内の仕事のすべてをカバーしたのは律枝さんだ。打ち合わせ、商品の発送、ポップアップ開催期間には現地に駆けつけて朝10時から夜8時まで1週間、立ちっぱなしで働いた。札幌から福岡まで全国の百貨店で開催されるたび、ホテルや交通機関を手配して1人で1週間の出張を繰り返す。
「スーツケースを持って、日本全国を飛び回りました。主人から電話がかかってきて、『今どこにいるの?』って聞かれて、『今、大阪です』なんて答えるんです。以前なら考えられなかったけど、大変っていうより、ワクワクしてとっても楽しいの」
家事はある程度自分の予定どおりに進むが、そこに4人の子育てが重なると、気が抜けず、終わりは見えない。365日、ほぼ休みはなかった。そんな生活を何十年もしてきた律枝さんにとって、仕事の段取りなどお手のものだった。
「子育ては突発的にいろんなことが起こります。でも、仕事は大体予定どおり。何時まで頑張れば終わり、この山を越えるまで頑張ろうとめどが立てられます。
私、『段取り8割』ってよく言うんですけど、そこまでできれば後はだいたい大丈夫。出張前はベッドの中でずっと段取りを考えていました」
そんなとき、新たな助っ人との出会いがあった。お客様の1人、佐々木幾代さん(37)だ。百貨店のポップアップストアでバッグを購入したときに会話が弾み、律枝さんと連絡先を交換したのだという。
「日本のことは律枝さんがほとんどおひとりで動いていらっしゃるという事情を聞いて本当に驚いて、お手伝いできることがあればお声がけくださいってつい言っちゃったんです。ただのお客さんなのに」
佐々木さんは当時、救急救命士として働いていたが、連絡先を交換してから1年後には代官山の実店舗オープンスタッフとして働き始めていた。ファッションセンスのよさを活かしたコーディネートやスタイリングについてのコラムも担当している。
「律枝さんはスタッフみんなのお母さん的な存在。最初のころはみんな『お母さん』って呼んでました。接客をとても大事にしていらっしゃるので、私も学ばせていただいています。千津さんはみんなを引っ張るリーダー。生徒会長のような存在です。誰かが何か提案したときは、絶対に否定しない。ピンチのときも、できる方法や代案を一緒に考えてくれます。ダメな理由じゃなく、どうすればできるか。いつもポジティブな方向に向かっていくんです」
ウガンダで学んだ「怒らない」姿勢
3人でスタートしたウガンダの工房スタッフは、今では21人になった。そのうち女性は20人。8割がシングルマザーだ。彼女たちの収入は、ウガンダの平均月収の2〜3倍。医療費の補助や無利子のローン、ランチの提供など、生活を支える仕組みも充実させた。
出会ったときにうつむきぎみだったグレースさんをはじめ、スタッフ全員の生活、内面は、みるみる改善されていった。
「日本からオーダーが増えると、ウガンダのみんなも、自分のやっていることに意味がある、自分は人に必要とされていると感じられるようになります。日本のお客様からも、この商品を身につけていると、元気になれる、新しいことに動き出せたという声をいただきます。相互に影響を与え合っている。それを聞いて、私自身も、人に必要とされていると感じられるんです」
昨年からウガンダとの行き来が制限されるようになり、千津さんの目は日本の女性にも向けられた。群馬県で女性の自立や困窮家庭の支援をしている NPO法人と提携し、アフリカンプリントを使ったマスクの製作を始めたのだ。
生産者と消費者、ウガンダと日本、雇用主とスタッフ。千津さんは、どんな関係性でも対等に、みんなが自分の人生を生きられるように応援する。母、そして、千津さん自身もその中に含まれる。
『RICCI EVERYDAY』のアフリカンプリントのバッグに出会った女性たちの人生は、より自分らしい人生へと動き始めている。
律枝さんには最近うれしいステップアップがあった。
「実は、パソコン作業をサポートしてくれていたいちばん下の娘が、就職したからもうできないって言うんです。『じゃあどうするの?』って聞いたら、『お母さんがやるしかないでしょ。ほら、教えるからノートにメモして』と言われて練習中です。最近は少しできるようになって、パソコンを開くのが楽しみになりました」
今はスピードアップを目指して練習中。やると決めたら突き進むのが律枝さんだ。
「千津は、私が大失敗しても絶対に怒らない。どうしたらそういう失敗を防ぐことができるかを一緒に考える。スタッフにも私にもそう接してくれる姿、娘ながら尊敬します」
千津さんが周囲の人たちから信頼され、頼られるそのおおらかさの多くはウガンダで学んだことだ。当初は、現地の人たちに対しても怒ってばかりだったと千津さんは言う。
「怒っているのは私だけ。みんなあっけらかんとしていて、失敗したらまたやるしかないよねって感じなんです。次に同じ失敗が起こらないようにする方法を淡々と話し合えば、次はうまくいくってウガンダで教えてもらった。誰が何をしたか責任の所在を突き止めることは問題の本質じゃないんですよね。だって、誰かが責任を取っても、状況は何も変わらないじゃないですか」
千津さんは、まだまだ先を見ている。
「作り手も、消費者も、その商品を作ること、使うことで誇りを持てる。商品を通じて互いに支え合い、応援し合えるような、つながっている感じを持てる。そんな仕組みを社会全体に作っていきたい。
まだまだ道半ばです。考えることをやめたらそこで衰退。だから、これからもずっと考え続けます」
《取材・文/太田美由紀》
大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブス ジャパンにて教育コラム連載中。著書『新しい時代のカタチ─地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)