愛知県医労連のツイッターデモを皮切りに五輪中止を求める医療現場の声は広がっている(写真は愛知医労連フェイスブックより)

「あの言葉を聞いて、正直、もうお手上げという感じですね」

 ある地方都市で働く看護師は、なかばあきれぎみにそう語る。

「あの言葉」とは5月21日、国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長が、東京で緊急事態宣言発令中のオリンピック開催の可否について、「答えは完全に“YES”」とオンライン記者会見で語った件だ。

 東京オリンピック開会式まで2か月を切る現在、国内では第4波と称される新型コロナウイルス感染症の流行が続き、五輪開催の中心となる東京都を含め9都道府県で緊急事態宣言が発令中だ。

オリンピック強行「正気の沙汰ではない」

 前出の看護師が続ける。

「第3波までは地元のターミナル駅や繁華街の人出を見て、“2週間後には感染者報告が増えそう”と同僚とささやき合い、実際、ほぼそのとおりになっていました。ところが最近の変異株による流行は、そうした予測が通じないほど感染者が急増しています。

 家族内感染も、かつては家族内で1~2人は感染を免がれることもありましたが、変異株では誰かが家庭内に持ち込めば、ほぼ全員がPCR検査で陽性。結果、私の地域ではたった1週間でホテル療養待ちの感染者が2倍に増えました。この状況下で、最低でも10万人の外国人が入国するオリンピック強行は正気の沙汰ではありません

救急患者用のベッドをコロナ病床に転用するなどした影響で、一般診療も逼迫しつつある(画像はイメージです)

 首都圏の新型コロナ患者を受け入れる医療機関で働く30代の看護師も、オリンピック開催には悲観的だ。

「勤務先では行政からの要請もあり、新型コロナの重症患者向けベッドを今年増やしたばかり。第4波で受け入れられる患者が増えたのは、社会的にはいいことですが、院内はパンク寸前です。新型コロナ患者のベッドに多くの人員が割かれ、私が担当するそれ以外の患者のベッドは人手不足です。それでも新型コロナ以外の入院患者でも無症状者の紛れ込みを念頭に、従来以上に厳格な院内感染対策を取らなければなりません。

 オリンピック開催で流行が拡大した場合を想像するとゾッとします。加えて真夏の東京では、日本の気候に不慣れな外国人の熱中症患者の増加も想定されます

 実際、今回の東京オリンピックでは熱中症対策を念頭に置いたIOCの提案で、マラソンと競歩の開催地が北海道札幌市に変更されたほどだ。

首都圏外でも安全な開催は不可能

 その北海道も感染者急増で5月16日から緊急事態宣言が発令中。いまや1日の新規感染者報告数が東京都を上回ることさえある。札幌市在住のベテラン看護師(50代)は次のように語る。

「昨年の札幌雪祭りのクラスター発生をきっかけに大量の人の流入が新型コロナの感染拡大を招くという警戒感が道内では強まり、マラソン開催には特に医療従事者で否定的な声が目立ちます。そもそも一般に思われているほど外国人受け入れのキャパシティーがある町ではなく、現在は市内の大規模ホテルの一部は新型コロナ患者の療養に使われているほど。安全な開催は無理だと言わざるをえません

高齢者に向けた新型コロナワクチンの大規模接種は、5月24日にようやく始まったばかり(画像はイメージです)

 個別の医療従事者の声だけでなく、全体で見てもオリンピック開催に否定的な空気は漂っている。

 国内最大の医療従事者向け情報サイト「m3.com」が5月7~12日に行った意識調査では、「医師やコメディカルの一部が東京五輪・パラリンピックに従事する場合、勤務先や地域の医療提供体制は維持できると考えますか?」との問いに「新型コロナの感染が落ち着いていても、人手不足で維持できない」との回答が開業医で70%、勤務医で60%、看護師で64%に上った。医療従事者がオリンピック対応で駆り出されれば、現場にかなりの負荷をかける可能性が高いことがうかがえる。

 そうした中にもかかわらず東京五輪・パラリンピック組織委員会は日本看護協会に対し、五輪開催期間中に看護師500人をボランティアとして派遣するよう要請。これに対し医療・福祉関連の労働組合「愛知県医療介護福祉労働組合連合会」(愛知県医労連)は4月28日からツイッター上で「#看護師のオリンピック派遣は困ります」というハッシュタグをつけた投稿を呼びかけ、5月なかばには賛同するツイートが50万件超に至っている。

各紙の世論調査では8割がオリンピック開催に反対。中止を求める抗議デモも各地で相次いでいる(愛知医労連フェイスブックより)

 愛知県医労連の上部団体でもある「日本医療労働組合連合会」中央執行委員長の森田しのぶ氏も、現状での開催に否定的な見解を示す。

「従来から私たちは医療現場での人手不足を訴えてきました。そうした中で、今現在のコロナ禍で医療従事者は医療崩壊が起きかけている地域への対応、ホテル療養者への対応、ワクチン接種など多方面の対応に駆り出されています。そこへさらにオリンピックへの派遣まで求められています。

 しかし、先も見えない中、状況次第では一般国民や医療従事者にさらなる犠牲を払いかねないオリンピック開催にこだわることには抵抗を感じます。政府は開催に伴う経済効果を期待しているのでしょうが、現下の情勢でその期待どおりの効果が得られるのかを考えると、クエスチョンマークがいくつも頭に浮かんでしまいます」

「安全」宣言も、やまない感染拡大

五輪組織委の橋本聖子会長は「安全安心な大会準備は進んでいる」と強調するが、感染拡大がおさまらないまま開催される可能性も

 また、実際に開催した場合、感染状況にどの程度影響を与えるのか、その場合のシミュレーションや必要となる医療体制に関しても不透明な点が多いことも問題視する。

海外からの選手団を選手村に隔離できたとして、現時点で検討されている一部観客を入れることが現実になれば、東京都内だけでなく他の地域から東京都に向かう人の流れが生まれます。

 高齢者のワクチン接種ですら十分といえない中で、このような人の流れがあれば感染拡大と医療現場への負荷増大につながりかねないと危惧しています。しかしながら、観客を入れる場合にどのような感染対策を行うのかも現時点では不明です」

 オリンピック関係入国者の水際対応でも現場は頭を悩ませている。新型コロナの医療事情に詳しいある医師は、入念な対策がなければ、オリンピック開催が首都圏のコロナ対応病床を逼迫させると警告する。

「入国時の新型コロナの抗原検査で陽性となった外国人などは、厚生労働省管轄の検疫所が用意したホテルに隔離され、重症化した場合はホテル近隣の医療機関に入院させることになります。

 多くの外国人は成田か羽田から入国するわけですから、水際で見つかった外国人の新型コロナ患者の入院が必要になれば、東京都や千葉県が本来住民のために用意している新型コロナ対応ベッドを使わざるをえません。その意味で入国者数などから医療需要をあらかじめ算出して対応を準備しておかないと、いざというときに大混乱になってしまいます

 こうした関係者の懸念をよそに、開会式まで2か月を切った今、オリンピック開催を唱える関係者からは、医療現場や国民の不安に十分に応えるだけの対策と説明はほとんどなされていない。

IOCのトーマス・バッハ会長(写真左)の「犠牲を払わないといけない」発言が国内で波紋を呼んでいる(写真は'20年11月)

 そんな矢先、IOCのトーマス・バッハ会長の「オリンピック開催のために、われわれはいくらかの犠牲を払わなければいけない」との発言が波紋を呼んでいる。IOCは「日本の人々に対してではない」と火消しに躍起だが、それはあまりにも的はずれ。

 今、関係者があらためて知るべきなのは、相次ぐ緊急事態宣言で日常生活がままならない中、オリンピックだけが「開催ありき」で突き進むことに納得できない日本国民が少なくないという現実だ。

取材・文/村上和巳●ジャーナリスト。宮城県出身。医療専門紙記者を経てフリーに。医療、災害、国際紛争などの取材執筆に取り組んでいる。『二人に一人がガンになる』(マイナビ新書)ほか著書多数。