今年5月に還暦を迎えた。7月31日には都内でバースデーライブを開催予定。詳細は公式ブログで https://ameblo.jp/t-akira5/

 かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは? 第27回は、きょうだいグループ・フィンガー5のメインボーカルとして一世を風靡した晃。救急車で何度も運ばれ、点滴を打ってコンサートをしていた少年時代から、突然の芸能活動休止、サラリーマン転職を経て学んだこととは。

当時を振り返ると、まるでジェット機に乗っていたような感じだったね

 '73年に発売した『個人授業』が100万枚を超える大ヒットとなり、一世を風靡したきょうだいグループ・フィンガー5。そのハイトーンボイスでメインボーカルを務めていたのが、四男の晃。彼の音楽ルーツは日本返還前だった地元・沖縄での活動だった。

「父親が米軍基地に勤めるアメリカ人向けのAサイン(米軍公認)バーをやっていたこともあり、アメリカの音楽が身近だったんです。それで上の3人の兄貴がそのバーでバンド演奏をするようになって、“そんなに上手なら東京に行ってみたら? ”というアドバイスを真に受けて、家族で上京することにしたんです」

せっかく東京にきたから

 当時、沖縄から県外に出るときはパスポートが必要な時代。活動を行うための就労ビザが下りるまで1年ほどかかったという。

まったくコネも人脈もない状況で東京に来たから、最初は米軍基地で歌っていたんだ。当時は子ども=童謡を歌うという時代だったから、洋楽に影響を受けた音楽をやっている俺らはまったく需要がなかった。でもせっかく東京に来たから……と、同じ沖縄出身で東京ですでに活躍していた仲宗根美樹さんを頼ることにしたんだ

『紅白歌合戦』に出場するなど、沖縄出身歌手の先駆者的存在だった仲宗根の紹介もあり、『ベイビー・ブラザーズ』名義で同じレコード会社からレコードを発売できることに。そして噂を聞きつけた音楽プロデューサーの目に留まり、バンド名を変え、フィンガー5として再デビューすることになる。

最初はバンド形式だったけど、ダンスを入れたほうがいいと半年かけてレッスン。それで阿久悠先生たちを前に披露したところ気に入ってもらえて、『個人授業』をリリースすることに

 再デビューが決まったものの、当時あった音楽番組のオーディションでは落選する日々が続いたという。

ようやく決まったNHKの番組に出たら、電話がパンクするぐらい反響があったみたい。それで今度はNHKラジオの番組に出たんだけど、リハーサルで布施明さんがかけていた大きなサングラスがカッコよく見えて。それで本番までの間にデパートに買いに行って、本番でかけたんだ。ラジオだからリスナーには見えないんだけど(笑)。そしたらプロデューサーが気に入って、そこから俺のトレードマークになったんだよね

晃のトレードマークであるサングラスは伊勢丹で3000円ほどで購入したものだという

活動を続けていたら本当に死んでいた

 晃のハイトーンボイスや小学生がサングラスをかけるというギャップなどが受け、一気に大ブレイクを果たす。

小学生なのに深夜まで働くのも日常茶飯事。通っていた小学校の先生が理解があって、先生公認で授業中は寝ていたね(笑)。雑誌の取材なんかを入れると、1日に30本ぐらい仕事をこなす日も

 あまりの多忙ぶりに当時の国会で問題視され、児童福祉法が厳しくなったほど。

それで『紅白歌合戦』には出られなくなったんだ。もともときょうだいの中でいちばん身体が弱かったこともあり、日ごろから点滴を打って活動していたし、何度も病院に運ばれた。でもマネージャーに“こんなに楽しみにしている人たちがいるのに、休んだら悲しむよ”と言われちゃうと、なぜか本番は元気にこなせるんだよね(笑)。主演映画を3日半で撮り終えるとか、とにかくめちゃくちゃなスケジュールだったね

フィンガー5になる前のショット。サングラス姿でない晃は右から2番目

 変声期を迎えた7枚目のシングル『華麗なうわさ』を出すころにはこんな事件が。

声変わりをさせたくないマネージャーが、親の許可なく女性ホルモンの注射を打たせようとしたんだ。でも女性ホルモンを打つと、男性器などの成長も止まるらしい……と噂で聞いていたから、マセガキだった俺が断固拒否して難を逃れたのよ(笑)

 テレビ局のセキュリティーも今ほど厳しくなかったこともあり、“誘拐未遂事件”も。

フィンガー5の関係者と名乗ってテレビ局に入ってきた女性に無理やり連れだされそうになったことも。そんな死ぬ気で働いて当時の月給は50万円ほど。

 俺らが物販を始めたタレントの先駆けなんだけど、サングラスや文房具、ぬり絵なんかも出して億単位で稼いでいただろうに、事務所はどんだけピンハネしていたんだって感じだよね

 そんな芸能活動に疲れ果てたこともあり、人気絶頂だった'75年に日本での活動を休止しアメリカに渡ることに。

中学1年生で体重が30キロ台しかなく、あばら骨が見えるほどガリガリにやせ細っていたし、あのまま活動を続けていたら本当に死んでいたと思う。でも当時の芸能界は入れ替わりが激しかったから、半年ほど日本から離れただけで人気がなくなって、芸能界から離れることにしたんだ

心をこめないとお客さんの心を動かせない

 最初に勤めた電器店の営業では知名度を利用してトップセールスマンに。

飛び込みセールスをしていたんだけど、訪問先でフィンガー5時代の曲を歌うと喜んでくれて商品がよく売れたよ(笑)。その後は兄のスナックを手伝ったり、不動産会社で設計の仕事を経験したね

 勤務先の不動産会社が経営悪化したこともあり、好きだった音楽活動を再開させる。

「まずはお金をいただいてお客さんの前で歌えればいい……と、知人のスナックや飲食店で歌わせてもらう日々が続いたね。また音楽だけで食えるようになるまでには、5年以上はかかったかな」

 紆余曲折を経たこともあり、今は客前で歌えることが何より幸せだと笑顔で語る。

「新型コロナの影響で昨年から活動がほとんどできていない状況だけど、ダイレクトにお客さんの反応が見えるライブは1度やったら病みつきになるよね。新型コロナが収束したら、ソロで全国ツアーをやるのが目標なんだ」

ソロのほか、あいざき進也らと組んだT4としての活動も行っている

 近年はパニック障害などを公表する芸能人も増えているが、殺人的なスケジュールをこなしていた先輩としてこうアドバイスする。

事務所社長が知人ということもあって、デビュー当時のMISIAにも長く活動していくうえで大切なことを聞かれたけど、何でも話せる友達をつくることじゃないかな。心のケアができないといい歌も歌えないし、演技もできない。やっぱり心がこもっていないとお客さんの心を動かすことはできないから

 そして一緒に活動してきたきょうだいたちへ、こう感謝の気持ちを述べた。

本番直前まで殴り合いのケンカをすることも日常茶飯事だったけど(笑)。でも5人で活動していたから、“ひとりじゃない”という安心感であの多忙な時期も乗り越えることができた。やっぱり信頼できる仲間って大切だよね