「幸子さん、かっけ―!!」ネット世代から「ラスボス」と慕われ、絶大な人気を誇る大物歌手は、コロナ禍で音楽業界が大打撃を受ける中、変わらず忙しい日々を送る。デビュー当初の“苦い経験”を糧に人生最大のピンチを“新しいステージ”へのステップにかえてみせた。ネット文化を盛り上げる存在となった小林が大切にしてきた「受け入れる」精神とは――?
暗いステージに浮かび上がる人影。中央には、背後にバンドを従え、黒の衣装に身を包み、細かいウエーブの長髪の人物が仁王立ちしている。
「みんな、行くぞ~!」
叫び声とともに、ステージに真っ赤な照明が落とされた瞬間、会場にはどよめきが上がった。サプライズで登場したその叫び声の主が、小林幸子(67)だったからだ。
これは、4月25日に幕張メッセで行われたイベント『The VOCALOID Collection~2021 Spring~』のひと幕。この日、人生初のヘビメタに挑戦した小林は、白塗りした顔にペインティングを施し、『サチコサンサチコサンヘヴィメタルver.』を迫力満点に歌い上げた。
厚底ブーツでステージをノッシノッシと動き回り、時にはスピーカーに足を豪快にのせ、圧巻のパフォーマンスを見せる小林。その姿は、和服姿で演歌を歌う“小林幸子”と同一人物とは思えない。約500人の観客とライブ配信の視聴者も同じ気持ちだっただろう。
「ヘビメタ、サイコー! 私はババメタ!」
曲の途中で小林がシャウトするたびに、ステージ上のLEDパネルには、《幸子さん、かっけーー!》などと視聴者からのコメントが躍った。
“演歌歌手”の枠を超えた存在
古希の足音が聞こえる年齢にして、さまざまな“人生初”に挑み続けている小林。5月9日には、自身初となる単独での配信ライブも開催。ヒット曲『もしかして』や、美川憲一の『さそり座の女』をジャズ風にアレンジしたり、MISIAの『Everything』をカバーするなど、12曲を熱唱した。このライブを小林が振り返る。
「配信ライブの楽しさは、コメントが即座にモニターに表示され、視聴者の方とのつながりを感じられるところですね。このときのライブでは『先日、母が天国に行ってしまいました。今日は母の写真と一緒にライブを見ています。よい供養になりました』というコメントがあって……。思わず涙ぐみました」
コロナ禍で、コンサートが軒並み中止になるなど音楽業界は大打撃を受けている。中でもダメージが大きいのは演歌だ。ファンの年齢層が高い演歌の世界では、オンラインライブも難しく、歌を届ける場が激減している。しかし、小林は「ありがたいことに私、今、とても忙しいんですよ」と笑顔を見せる。
その理由は、彼女が“演歌歌手”の枠を超えた存在になっていることにある。ファン層は今や高齢者だけでなく、中年から若者、小学生まで驚くほど幅広い。
若者人気を決定づけたのが、近年、小林が注力してきたインターネット上での活動だ。演歌歌手とネット。一見、もっとも縁遠い存在ともいえそうなこの2つがなぜ結びついたのか。そこには、長い人生をかけて彼女が築いてきた“受け入れる”という姿勢が深く関わっていた。
15年耐えたキャバレー回り
「物心ついたころから、歌が好きだった」という小林。新潟で生まれ育った少女は、幼いころ歌の才能を見いだされ、わずか10歳でデビューを果たし、上京。デビュー曲こそ話題になったが、その後はヒット曲に恵まれず、15年もの間、不遇の時代が続いた。
「歌手をやめたいと思ったこともありましたが、やめられなかった。というのも、新潟の両親とふたりの姉が私を頼って上京していたから。いつの間にか私が大黒柱になっていて、家族の生活を支えるためには歌い続けないといけなかったんです」
時は高度経済成長期の真っただ中。夜は、酔客が集うキャバレーが小林の仕事場になった。そのステージで披露していたのは演歌だけではない。シャンソン、ジャズなど、リクエストされれば何でも歌ったという。
「キャバレーのお客さんは、お酒を飲むために来ているのであって、私の歌を聴きに来ているわけじゃない。どうやったら聴いてもらえるか、興味を持ってもらえるか、そればかり考えていました。だから、知らない曲をリクエストされても『歌えません』とは言いたくなかった。ピアニストにどのような曲なのかこっそり聞いて、即興で披露するなんてこともありました」
並行して全国各地のレコード店やショッピングモールでのキャンペーン、手売りでのレコード販売も行っていた。
「キャンペーンでは、歌い終わって、いざ『これからレコードを販売します!』となると、蜘蛛の子を散らしたように人が去っていって、足元には捨てられた歌詞カードだけが落ちているなんて光景も何度も目にしてきました」
当時の小林の様子をそっと見つめていた人物がいた。今は友人として親しく付き合っている夏木マリ(69)だ。
「このころ、幸子さんが福岡の空港で、1人で衣装を持ってタクシーを待つ姿を見かけたことがあります。私も同じようにキャバレー回りをしていた時代だったので、親近感を覚えました。そのときは、お話ししたことがなかったので声をかけませんでしたが、幸子さんの姿と自分を重ね合わせて “私たちは、いつトンネルを抜けられるんだろう”と感じたものです」
長く続いた暗いトンネルにひと筋の光が差したのは、25歳のとき。シングルレコードのB面だった『おもいで酒』が有線放送のランキングで1位になったのだ。
「でも、『おもいで酒』のキャンペーンをやろうというレコード会社の提案は断りました。これまでキャンペーンで人が集まらなくてさんざんな思いを経験してきたから、その痛みをまた味わうのかと思うと心が折れそうで……」
そんなとき、一緒にショーに出ていたダンサーの女性の言葉が頭をよぎった。
「『“諦める”は、“明らかに極める”こと。極めるぐらい徹底的に頑張って、今回が最後だと思って未練がなくなるまでやってみたら』と言われたんです。その言葉に背中を押されてキャンペーンを始めたら、これまでとはまったく違う景色が待っていました。
大勢の人たちが私の歌を聴くために集まってくれたんです。ダンサーさんの言葉を受け入れていなければ、あの光景を見ることはできなかったでしょう」
その年には、紅白歌合戦に初出場。その後もヒット曲を連発し、紅白での豪華衣装をはじめ、日本の演歌界になくてはならない存在に。しかし、デビューから半世紀を迎えようとしていた'12年、人生の大きな岐路が彼女を待ち受けていた。
「さだ兄、助けて!」
小林にとって人生最大のピンチとなった騒動。その発端は、長年のビジネスパートナーが退社したことだった。この退社にさまざまな尾ひれはひれがつき、騒動は泥沼化。
小林に対するバッシングが連日のように報じられたが、彼女は一切反論しなかった。
「ありもしない話がひとり歩きしてどんどん流れて、悔しい思いもありました。でも、反論してもおもしろおかしく書かれてしまうだけ。だったら、何も言わないでおこうって……。きっと、時間がたてばわかってもらえると思ったんです」
しかし、騒動の余波を受けて新曲のリリースが無期限延期になり、レコード会社は契約解除に。33年続いていた紅白歌合戦の出場記録も途絶えた。自分でレーベルを立ち上げ、新曲を出そうとしても、作詞や作曲を引き受けてくれる人すら見つからなかった。
「これまで周囲にいた人が、潮が引くように去っていった。新曲が出せないというのは、歌手にとって死亡宣告を受けたようなもの。このときは、さすがに精神的につらかったです」
窮地に追い込まれた小林が頼ったのは、若いころからの付き合いで“さだ兄”と慕うさだまさし(69)だった。さだに電話した小林は「さだ兄、助けて!」と留守電に吹き込んだという。さだが振り返る。
「メッセージを聞いて、本当に精神的に追い込まれているんだなあ、と胸が痛くなりました。すぐに電話をして『お金ならないぞ』と言いましたが、『お金のことなら、さだ兄に頼まない』と言われて(笑)。まあ、状況は理解していましたから、すぐに事情はのみ込みました」
小林は、さだに現状を伝え、曲を作ってもらえないかと依頼。さだは、その日のうちに曲を仕上げた。それが『茨の木』だ。
「こういうときはできるだけ早いほうが安心するだろうなと思って“エール”を送るつもりで、当日仕上げてデモ・テープを彼女に届けたんです」
さだが贈ったのは歌だけではなかったと小林は言う。
「さだ兄は、“真実はひとつしかないんだよ。何も言わなくていい。歌い手はいい歌をきちんと歌っていれば、それでいいんだ”と、励ましてくれた。この言葉に奮い立たされ、歌うことに集中しようと思えたんです」
懸命にもがく小林を歌の神様は見放さなかった。やがて、彼女の飛躍につながるひとつのめぐりあいが訪れる。
ボカロ相手に湧いた闘争心
小林の歌手人生を大きく変えることになった運命の出会い。それが「ニコニコ動画」、通称「ニコ動」だ。これは、株式会社ドワンゴが設立した動画共有サービス。配信される動画の画面上にリアルタイムでコメントを書き込めることで、ユーザーが思いを共有できることが最大の特徴だ。'12年、小林は初めてニコ動の番組にゲストとして登場している。
「収録のため足を踏み入れたのは、見たこともないような小さなスタジオ。カメラもテレビカメラではなく一眼レフで撮るんです。その代わり、大きなモニターがあって、そこに次々と視聴者のコメントが流れてくる。それがとても面白いと感じました」
小林の出演を決めた理由について、株式会社ドワンゴ専務取締役CCO横澤大輔氏(39)が明かす。
「当時は、“ネットはテレビなどのマスメディアより格下”というイメージが強く、そのイメージを払拭するためにわれわれも奮闘していた時期でした。そういったこともあって、幸子さんが置かれていた立場とニコ動には通じるものがあるような気がしたんです。
また、演歌界を長年牽引してきた幸子さんがニコ動に出てくれたら、ニコ動で活動する歌手や踊り手などのクリエイターにとっても大きな励みになると思いました」
実は、それ以前から小林は、ネット世代の若者たちから「ラスボス」の愛称で親しまれていた。紅白歌合戦での豪華絢爛な衣装が、ゲームの最後に登場する最強の難敵、ラスボスを彷彿とさせるというのが、その所以だ。小林が苦笑する。
「ニコ動に出演したとき、司会の方が『ラスボスって呼んでもいいですか』と聞くので、『いいですよ』って答えたら、画面に“ラスボス降臨~!”という言葉がいっぱい流れてきたんですよ。
でも実は、私、ラスボスの意味を知らなくて。後でスタッフに聞いて初めて『悪いやつじゃん!』って気づきました(笑)。その後は、道端で若い人に『ラスボスだ、生きてる!』なんて驚かれたことも。私は人間だと思われていないのね(笑)」
やがて自身でも動画投稿を始める。その第1弾として、『ぼくとわたしとニコニコ動画』をカバーした動画を投稿すると、たった2日半で再生回数100万回を突破した。
「この曲の歌詞を見て感じたのは、居場所を見つけられず、生活に楽しさを感じられない子たちにとって、ネットは人とつながれる大切な場所だということ。その感覚に興味が湧いたんです」
ネットの世界に惹きつけられた小林は、今度はボカロ曲の歌唱に挑む。ボカロとは音声合成技術「ボーカロイド」の略。パソコンなどにメロディーと歌詞を入力して歌声を合成すると、初音ミクをはじめとするバーチャル・シンガーが歌い上げるというものだ。
「ボカロ曲は生身の人間が歌うわけではないので、100小節以上息継ぎするところがないとか、ありえないような曲もあります。でも、『機械ができて人間が歌えないわけがない!』なんて妙な闘争心が湧いてきてね(笑)」
このとき小林が感じたのは、“歌の引き出し”の重要性だ。
「下積み時代にキャバレーでジャズやシャンソンを歌って引き出しを増やしてきたことで、ボカロという新たなジャンルに挑戦することにも抵抗がなかった。自分のやってきたことに無駄なことなどないとあらためて実感しました」
次々と新たなことに挑戦し、そのすべてに全力をそそぐ小林の姿に、ドワンゴの横澤氏は感銘を受けたという。
「当時は“ネットはテレビなどより格下”という感覚からか、タレントさんの中には、ニコ動の仕事には一生懸命取り組んでくれていないと感じる方もいました。でも、幸子さんは違った。視聴者を楽しませることに貪欲で、『こうしたらもっと面白くなるんじゃない?』と提案してくれたり、一緒に作り上げているという実感がとても強かったんです」
若者とは感覚が違うから面白い!
小林の姿勢とユーザーの反応に、新たな可能性を感じた横澤氏は、次々と企画を持ちかけた。'14年夏、東京ビッグサイトで行われた世界最大の同人誌即売会「コミックマーケット」、通称「コミケ」に参加したのも横澤氏の提案によるものだった。
「『コミケに出ませんか?』と提案したとき、幸子さんの口から出たのは『コミケって何?』でした(笑)。そこで、会場で手売り販売するイベントなのだと説明したら、『なつかしい!』と目を輝かせたんです」
小林の脳裏に浮かんだのは、キャバレーで歌い、キャンペーンでレコードを手売りしていたあの日々のことだろう。
「幸子さんは『私、昔イベントでレコードを手売りしていたの。だから、またやりたい!』と言ってくれました」
昔さんざん苦労して売り歩いてきたから、二度とやりたくないと感じてもおかしくないはずなのに、今さら新人歌手のようなことをするのに抵抗はなかったのか。そう尋ねると小林は朗らかに答えた。
「売れない時代にさんざんやってきたからこそ、手売りは私の原点でもあるんです。私の歌を“聴かせてあげる”ではなく、“歌わせてもらっている”。その思いを忘れないためにも、自分の手でお客さんにCDを届けることは大事だと思うんですよ。ずっと立ちっぱなしだったから、足腰はつらいけどね(笑)」
手売りは原点─。その言葉どおり、コミケ当日、小林はCDを詰めたキャリーバッグを引いて一般の参加者と同じ入り口から入場。頭にバンダナを巻いて自らブースに立ち、ひとりひとりにボカロのカバー曲を収めたCDを手渡しで販売した。小林のブースには客が殺到し、1kmにも及ぶ長蛇の列が。用意していた1500枚のCDは、2時間半で完売したという。
自分の子ども、いや孫であってもおかしくない年齢の若者と接したこの日の思い出を、楽しそうに振り返る。
「コスプレをした人たちがいっぱいいてね。私が“かわいいね”と話しかけたら、“コスプレの女王に褒められてうれしい!”って。私、いつの間にか“コスプレの人”という立ち位置になっていたみたい(笑)。若い人との感覚の違いに驚くこともたくさんあるけれど、“感覚が違うから付き合わない”じゃ、もったいないですよね。違うからこそ面白いと私は思うんです」
コミケというリアルな場に登場したことで、これまでニコ動で小林を見てきたユーザーとの距離は一気に縮まった。横澤氏が分析する。
「幸子さんは、コンサートなどの場で観客と向き合いながら歌ってきたので、リアルなお客さんの心をつかむ術を知ってる。われわれは、ニコ動の画面に流れてくるコメントなどでユーザーの心理やニーズを分析するノウハウは持っていますが、リアルなお客さんと向き合う経験は幸子さんの足元にも及ばない。僕らとしても幸子さんに学ぶべきところはとても大きいんです」
思えば、小林は下積み時代から、どうすれば振り向いてもらえるかを考え続けてきた。彼女が長年かけて培ってきた観客の心をつかむ術。それを横澤氏はほかの場面でも目の当たりにしている。'15年、さいたまスーパーアリーナでのライブ『ニコニコ超パーティー』で、『存在証明』という曲を披露したときのこと。「君は君のままでいい」というメッセージが込められたこの曲を歌うにあたり、小林から「歌う前にトークを入れたい」と提案があったという。
当日、小林は会場の観客2万人とネットで視聴している10万人のユーザーに向けて語りかけた。
「君は君のままでいいんだよ。私も自分が自分でいられなくなるようなつらいときもあった。でも、困難を乗り越えたからこそ、今の私がある」と─。
「このトークは幸子さんが自分で考えたものです。幸子さんは、自分をカッコよく見せることではなく、自分の歌を聴いてどのような気づきを得てもらえるかをいつも意識している。これこそが、究極のエンターテイナーの姿なのだと気づかされました」
横澤氏のこの言葉は、小林が“演歌歌手”なのではなく、“演歌も歌えるエンターテイナー”なのだと教えてくれている気がした。
紅白舞台袖で交わしたハイタッチ
小林がカバーしたボカロ曲の中で最も話題を呼んだのが『千本桜』だ。これは、バーチャルシンガー・初音ミクを使ってネット上で公開された曲だが、小林がカバーするやいなや、ネットユーザーのみならず、従来の小林のファンだった年配層にまで浸透。老若男女問わず愛される歌となった。横澤氏が語る。
「われわれは“ネットの世界から、もう一度紅白に”というストーリーを描きながら幸子さんとともに歩んできました。紅白出場にはさまざまな条件があるかと思いますが、無視できないほどのムーブメントを起こせば、出場の可能性は高まる。そう考えていたんです」
その読みは当たり、'15年、NHKから「小林幸子の歌う『千本桜』をラインナップに入れたい」というオファーが届く。小林はニコ動とファンの思いを背負い、特別枠として紅白の舞台に再び立つことになった。このときの小林の喜びようを横澤氏はよく覚えている。
「幸子さん、泣いていたんです。『私が紅白に出られることがうれしいんじゃない。ニコ動を背負わせてもらえるということが本当にうれしいの』と」
大みそか、視聴者のコメントが流れるLEDパネルを背景に、小林は堂々と『千本桜』を歌い上げた。NHKホールに足を運んだ横澤氏も万感の思いがこみ上げたという。
「ステージに出ていく幸子さんを舞台袖でハイタッチして見送ったのですが、そのときの晴れやかな笑顔は今も目に焼きついています」
「挑戦」を後押しした夫の言葉
小林が新たな挑戦を続けることができた理由のひとつに夫の存在がある。長年独身を貫いてきた小林だったが、知人を介して知り合った8歳下の実業家・林明男氏と'11年に電撃結婚を果たしている。
「夫がよく言っている言葉に『思い込みを捨て、思いつきを拾う』があります。彼は再生医療に関する事業を行っているのですが、医学の進歩にはこれまでの常識にとらわれない発想も必要。そのため、新しい思いつきを大切にするという精神を忘れないようにしているそうです。
この言葉は、とても心に響きました。“自分は演歌歌手だから”とか、“もうこの年だから”などと思い込みで自分の枠を自分で狭めるのではなく、思い込みを取っ払って、新たな自分を見つけてみたいと思うようになったんです」
結婚の翌年に勃発した事務所騒動の際も、夫が大きな支えになってくれたという。
「芸能界のことしか知らない私にとって、まったく違う世界で生きてきた彼の助言はとても心強かった。心ないバッシングを受けて落ち込んだ時期もありましたが、人の批判を気にして落ち込んでいる時間がもったいないと思えるようになったんです」
互いのパートナーも交えて4人で食事する機会があるという友人の夏木マリが、夫といるときの小林の様子を明かしてくれた。
「お2人の旅の話などを聞かせていただくとこちらも幸せな気持ちになります。“姫”が、ご主人の話を聞いているところは、とても可愛らしいんですよ」
さだまさしもユーモアを交えて次のように語る。
「さっちゃんは男に興味がないのかと思っていたら、忘れたころに結婚したので驚きました。例のあの騒ぎのことも支えてくれる人があったから耐えられたのだと思います。明るさに一分の隙もなくなり、人柄も衣装以上にさらに大きくなりました(笑)」
結婚して本当によかった。インタビュー中、小林の口から出たこの言葉が、何よりも彼女の心が夫の存在によって満たされていることを物語っていた。
「真っ白にしてやろうと思った」
コロナ禍にあっても、小林は活動のギアを緩めていない。YouTubeチャンネルでは、ファンのリクエストに応え、さまざまな曲をカバーして自宅で歌う動画を公開している。
昨年、ロックバンド『SOPHIA』『MICHAEL』のボーカル・松岡充(49)とコラボし、『シロクマ』というユニットを結成した。
「楽曲には歌う人の心から生まれた言葉が必要」という思いから、新曲を作るにあたり、松岡は小林に長時間に及ぶインタビューを敢行している。
「幸子さんは、いつも笑っていますが、芸能界で長年生きていればいろいろなことがあるはず。その笑顔の下に隠れた苦しみや悲しみを知りたいと思ったんです」
松岡のインタビューを受けながら、小林は時折涙ぐみ、返答に詰まりながらも誠実に回答した。
「中でも印象的だったのは、『人生にひとつひとつ“白”を並べていって、自分の歴史を積み上げてきたけれど、突然、四隅に黒を置かれて、すべてを真っ黒にされてしまった』という言葉。ただ、幸子さんはそれだけでは終わらない。
続いて『だったら、真っ白にしてやろうと思ったんだよ』という言葉が出てきたんです。『この人は、どんなに悔しくて投げ出したくても歯を食いしばって前に進んできたんだろうな』と感じました」
そうして松岡が書き上げた曲が『しろくろましろ』だ。その中にある《白を黒に変えられても真白に戻せ》というフレーズは、まさに小林の言葉をそのまま使ったものだ。
力強く背中を押してくれるこの曲は、ミュージックビデオもユニーク。真っ白な服を着た小林と松岡が色とりどりのペンキを塗り、最後にはペンキまみれになる。
「僕が内容を提案したら幸子さん『おもしろそう! やろう!』ってすぐに賛成してくれて。しかも、僕は刷毛でペンキを塗ろうとしたんですが、幸子さんは、子どものようにはしゃぎながらペンキをぶちまけていました(笑)」
そんな天真爛漫な一面がある一方、他人に寄り添う一面があると横澤氏は言う。
「『ちゃんとご飯食べてる?』と、僕のことを心配してくれたり、まるで母親のようなところがあるんです」
さだが小林のことを「苦労してるから立場の弱い人の痛みを知っている。誰に対しても優しい」と評すれば、夏木も「“ぜひこの曲を歌って”とリクエストしたら、後日、本当に歌って配信してくれました。律義な人です」と語る。
昨今の活躍について、小林は「みんなが私を素材にして面白がってくれるから、それに乗っかってきただけ」と謙遜するが、多くの人が小林と仕事がしたいと感じるのは、周囲を惹きつけてやまない人間性があってこそだろう。
「自分のことって、実は自分がいちばん知らないのかもしれませんね。だから、周囲の意見を大切にしたいんです。信頼する人が『これ、面白いですよ。やってみましょう』と言ったら、一度は受け入れて考えてみる。
また、一生懸命頑張っても思いどおりにならないときは『精いっぱい努力したんだから』と、自分を受け入れる。“受け入れる”という引き出しがあるとすごく楽になれるんです。だから私は今、すごく楽に生きています」
とはいえ、ただ楽に生きているだけではない。同じ歌の世界の後輩である松岡は、小林に尊敬のまなざしを向ける。
「あの大型衣装はかなり体力が必要で、並みの歌手ではとても着て歌えない。難しいボカロ曲にしても、幸子さんは自分のものにして歌いこなしている。きっと陰でものすごく努力していると思うんですよ。“ラスボス”という呼び名は、ある意味ピッタリなんですよね。だって、人間を超越している存在だと思うから」
閉塞感漂う時代を軽やかに駆け抜けていく小林にとっては「どこに向かっているの?」という問いすら愚問なのかもしれない。
「特に、行き先を定めているわけじゃないんです。これまでもそうだったように、出会った人によって道は変わっていく。そのために、引き出しをたくさん用意して、『これ、面白い』と思える感性を磨いておきたいですね」
今後、小林の人生にはどんな引き出しが増えるのだろうか。無数の引き出しから繰り出されるのは、見たこともない鮮やかな景色に違いない。
〈取材・文/音部美穂〉