日本有数の景勝地で、命を絶とうとしている人々に声をかけ続けて17年。ひたすら話を聞き、徹底して寄り添う茂幸雄さんは、自身の活動を「自殺防止ではなく人命救助」と言い切ってはばからない。生きていく勇気を取り戻すには、自殺を止めるだけでは足りないから。本当は助けてほしい──、そう切望する心の叫びを知っているから。
自殺の名所「東尋坊」
「ここがいちばんの飛び込み場所です」
平然とそう語る案内人に指さされた方向は、ゴツゴツとした岩肌がV字形に開けていた。そこから先は、ほとんど垂直に切り立った岸壁が両側に連なり、日本海へ向かって延びている。
ここは海抜25メートル。ビルの高さでいうと7〜8階に相当する。両腕を伸ばし、筆者は一眼レフを落とさないよう気をつけながら撮影した。真下の海面に恐る恐る目をやると、黄色いサンダルが海草に乗って揺れているのが小さく見え、打ち寄せられる波音が聞こえてきた。
「そこから飛び込むんです。若い人は脚力があるから海に落ちて助かることもありますが、高齢者は手前の岩に激突してしまいます」
と案内人に言われ、その場面を想像すると、足がすくむような思いにとらわれた。
近くにいた観光客の若者たちも、この断崖絶壁を前におののいていた。
「マジで怖い。ヤバイよ」
6月1日午後4時半。
目の前に広がる日本海は凪いでいた。西日に照らされた水面はまばゆいばかりに輝き、間もなく夕暮れ時を迎えようとしていた。
ここは福井県坂井市三国町にある「東尋坊」と呼ばれる景勝地だ。
この荒々しい岩肌は、六角形の柱を形成する「柱状節理」と呼ばれる現象でできた地形で、空に向かって突き出ている。国の天然記念物にも指定され、「世界の3大柱状節理」と評されている。太陽が沈む直前、緑色の光が瞬く「グリーンフラッシュ」と呼ばれる自然現象が年に何回か見られ、「日本の夕陽百選」にも指定されている。岩場から徒歩数分の商店街には、土産物店や海の幸が自慢の飲食店が軒を連ね、人通りでにぎわっている。
17年間で720人を救出「命の番人」
そんな風光明媚な観光地を案内してくれたのは、「命の番人」と呼ばれる元警察官、茂幸雄さん(77)だ。自殺防止活動に取り組むNPO法人「心に響く文集・編集局」の理事長を務める。
日に焼けた顔に、笑うと白い歯が目立つ、一見すると普通のやさしいおじいちゃんだが、困った人を放っておけない熱血漢である。ひとたび岩場に入ると、これまでに自殺から救出した人たちの話が、次から次へと口を衝いて出てくる。
「数年前、青森から来た女性が飛び込んで大けがをしました。ヘリを呼んで救出し、病院まで運んでもらいました」
「中年男性がそこで『ワンカップ』の酒を飲んでいました。“酒を飲まないと勇気が出ない。放っておいてくれ”と言われましたが、説得して連れ出しました」
「近くの電話ボックスで男性が話をしてたので、おかしいと思って声をかけたら自殺しにきたと」
「巡礼衣装に着替えて飛び込もうとした女性もいました」
茂さんたちの普段の活動は岩場のパトロールが中心だ。じっとうなだれている人を見つけたら近寄って声をかけ、事務所がある茶屋「心に響くおろしもち」まで連れていき、じっくり話を聞く。そうして救出された人は、2004年の設立以来、17年間で720人(6月13日現在)。ほぼ1週間に1人ずつのペースで、自殺を決意した人たちに遭遇する計算だ。その9割近くが県外からの来訪者。一方、東尋坊で自殺により死亡した人の数は、過去10年間で116人に上っている。
特に新型コロナウイルスの感染拡大以降、茂さんのもとにはコロナ関連の相談が相次いだ。昨年7月からは、厚生労働省の助成を受け、コロナ禍による自殺防止のための「悩みごと相談所」(TEL:0776-81-7835)を茶屋に開設。今年3月末までの相談件数は訪問も含めて、のべ228人。このうち男性は約65%の149人で、年齢別では50代、40代が圧倒的に多く、この2世代だけで全体の約66%を占めている。
相談内容は次のようなものだ。
「家庭に閉じこもっているため夫婦間がぎくしゃくし、アルコール依存症になった」
「外国人と結婚を前提に交際していたが、彼が入国できなくなり疎遠になった」
「職場の仕事がなくなって退職に追い込まれ、眠れない日々を送っている」
「休校が続いて友人と疎遠になった。再開したが、友人とうまく付き合うことができず、悪口を言われて死にたい」
こうした訴えに耳を傾け、ひとり平均1時間近く話を聞く。
茂さんが力説する。
「一般の電話相談は15分ぐらいが平均です。でも私のところは無制限。長いと2時間ぐらい。だいたい自殺を考えている人の相談が15分で終わるわけがない」
茂さんは問題が解決するまで、相手に寄り添う。その徹底した姿勢の原点は、福井県警時代に溯る。
助けられなかった老カップルへの思い
茶屋のテーブルに広げられたよれよれの白い紙は、ところどころ黄ばみ、保管されていた年月を感じさせる。そこに青いボールペンで綴られた達筆な字は、こんな書き出しで始まっている。
《前略 先日は私達二人の生命を助けて下さって有難度うございました。助言いただいたとうり金沢市役所にて……》
筆跡の乱れはなく、大きく伸びやかな字だ。
これは茂さんが警察官として現役最後の年に、ある高齢の男女から届いた手紙だ。
茂さんは、1962年に福井県警に採用されてから警察人生ひと筋。その大半を県警本部で過ごし、薬物や爆発物、マルチ商法などを取り締まる特別刑法にかかる事件の捜査を担当した。定年を間近に控え、東尋坊を管轄する三国署(現・坂井西署)の副署長に着任した。毎日1時間、岩場の遊歩道約1・5キロの道のりをパトロールした。
ところが、それまでの現場とは様相が一変し、自殺が相次ぐ現実を目の当たりにする。保護された人々の話に耳を傾け、彼らが用意した遺書を読んでみると、意外な事実がわかった。
「本当は死にたくありません」
「助けてくれるのを待っていました」
内に秘められていたのは、「やっぱり生き続けたい」という心の叫びで、それを誰かに聞いてほしかったのだ。
そんなパトロールを続けるうちに出会ったのが、先の老カップル。2003年9月3日の夕暮れ時、遊歩道のそばにある東屋でのことだった。
今も残るその現場で、茂さんが2人の様子を再現しながら説明する。
「男性のほうはベンチにあおむけになっていて、女性はその隣のベンチで座ってうなだれていました。男性は手首にけがをし、タオルで止血していました。“どうしたんですか?”と声をかけると“あっち行け!”と追い払われたのですが、説得の末、渋々口を開いてくれました」
2人は東京で居酒屋を経営していたが、借金が200万円に膨らみ、再起不能に陥って東尋坊に自殺をしにきたと打ち明けた。
茂さんは2人を病院に搬送し、地元の役場に引き継いだ。数日後、1通の手紙が届いた。目を通すと、2人はその後、500円程度の交通費を渡され、金沢市役所から富山県魚津市、新潟県の直江津市と柏崎市の役所をたらい回しにされていたことがわかった。手紙の最後はこう締めくくられていた。
《相談しようと三国署に行った際はもう一度東尋坊より自殺しようと決めていた二人が、皆様の励ましのお言葉に頑張り直そうと再出発致しましたが、─中略─ 疲れ果てた二人には戦っていく気力は有りません。─中略─ この様な人間が三国に現れて同じ道のりを歩むことの無いように二人とも祈ってやみません》
2人は便箋を買う金がなかったのか、チラシの裏に書いていた。封筒も同じチラシで作られ、バンドエイドで封がされていた。90円切手の未納を知らせる通知書も届いた。
なけなしの状態でしたためられた手紙が、すでに手遅れであることを物語っていた。
「最終の地」に記された新潟県長岡市の役所に茂さんが電話をかけ、2人の消息について尋ねると、こう告げられただけだった。
「うちの役所の近くの神社で今朝、首をつっているのが発見されました」
誰かが声を上げなければ、第2、第3の犠牲者が現れるのではないか──。
茂さんの最後の職場での1年間、発見された自殺者の遺体は21人、保護された人は約80人に上った。
茂さんが当時を振り返る。
「自殺は犯罪ではないから警察も踏み込んで対応できない。保護すべき行政も対応が不十分でした。亡くなった彼らは何も悪いことはしていない。社会や周りの人に追い詰められた構造的犯罪なんです」
無念の思いが、茂さんの心を揺さぶった。
「今日までつらかったんでしょ?」
老カップルの悲報を機に、茂さんは自費で新聞広告を出し、自殺を思いとどまったり、家族が自殺で亡くなった遺族に作文を募った。その結果、約70人から届き、「心に響く文集」として自費出版した。このタイトルにちなんで、福井県警退官後の'04年4月、NPO法人を設立。メンバーは県警時代の同僚や知人に声をかけて集めた。
この同僚の中のひとり、森岡憲次さん(70代)は茂さんと同期生で、警察学校時代の寮が同じ部屋だった。自殺防止活動への協力を求められた際、実はこうアドバイスをしていたと懐かしそうに語る。
「県警時代にいろいろ苦労をして、これから第2の人生を歩むんだから、もう少しゆっくりしたほうがいいんじゃないかと伝えたんです。ところが頑とした態度で、決意が固かった。三国署で出会った老カップルのことが、やはり心残りなんです」
やると決めたらとことん突っ走る行動力が茂さんの魅力だ。活動拠点となる場所を商店街の近くに設置し、保護した人から話を聞くため、そこを茶屋にした。
黄色いビニール製のどでかい屋根看板には「心に響くおろしもち」と店名が大きく書かれ、商店街の中でもひときわ目立っている。地元名物「おろし餅」をモチーフにしているのだが、それには理由がある。茂さんが説明する。
「自殺しようとした人の心に響く食べ物は何だろうか? と考えたんです。昔は正月になると、向こう三軒両隣が集まり、杵で餅をついておろし大根をつけて、みんなで食べました。それが子どものときのいちばんの思い出でした。だから餅を食べて両親や故郷を思い出し、生きる糧になってくれればと」
つきたての餅を提供できるよう、餅つきの中古機械を60万円で購入した。
店の営業時間は日没まで。それにも根拠がある。
「副署長時代に、自殺して亡くなった方の死亡推定時刻は午後8時〜午前0時でした。東尋坊には午後4時ごろに到着し、飛び込む場所を決めてからしばらく座っている。そんなときに店の明かりがついていたらお茶でも飲みに来てくれるかもしれない」
そうして自殺防止に向けた活動が本格化した。パトロールは原則、1人で行う。2人以上だと相手に警戒されるからだ。1日3人で交代して2時間ほど歩き、時間は正午から日没まで。休日は、遭遇率が最も低かった水曜日のみ。
自殺企図者は岩場やベンチなどに座り、しょんぼり佇んでいることが多く、その雰囲気でわかるという。茂さんらスタッフが見つけると近づき、「こんなところにひとりで何をしてるの?」と声をかける。その次のアプローチが大事だと、茂さんが力を込めた。
「相手の横に行き、“今日までつらかったんでしょ?”と声をかけ、肩を叩いてあげるんです。そうするとどんな大きな男でもしおれてしまいます。女性は泣き崩れて、しがみついてきますよ。これが現場なんです」
これに続いてかける言葉も決まっている。
「わしがなんとかしてやる!」
茂さんがその意図を説明する。
「“なんとかなるよ”ではダメなんです。なんとかならないからここまで来るんでしょ? だったらわしが身体を張ってでも、なんとかしてやると」
「死にたい病」に対する正当行為
その言葉どおり、茂さんは身体を張っている。勤め先のパワハラに悩まされた男性を保護したときは、その会社に乗り込んで上司に掛け合った。妻との関係に疲れ果てた男性を保護したときは、その家まで電車で足を運び、家族と話し合いを持って離婚を成立させた。立会人は茂さんだ。
そうして年に数回、北は北海道から南は岡山まで、全国各地を自費で駆けめぐるという。
「自殺を決意する人たちは、自分のアパートや家を手放し、友人の関係も断って仕事もない。お金もない。ここへ来るのは片道切符。そんな人に“なんとかしてあげる”と大口を叩く以上、自腹を切るしかありません」
そこまで相手の事情に踏み込む理由について、茂さんはこう訴える。
「公務員には民事不介入の原則があります。だから家庭内の問題に立ち入ったらあかん。でも本当に自殺から保護するには、相手の悩みごとを取り除いてあげないといけないんですよ」
もっとも、助けを求められたからといって、闇雲にトラブルの現場へ足を運ぶわけではない。当人の言い分だけに頼るのではなく、関係者の話も参考に、被害の確証が得られた段階で動き出すのだ。
だが、ここまでやる支援の在り方については、
「生かすことが正義?」
「死にたい人は静かに死なせてあげれば?」
といった声もSNSなどで寄せられる。これに対して茂さんはこう言い切る。
「そうした批判は、現場を知らない人が同情で言っているだけです。自殺を考えている人の心理状態は、精神を病んでいる人ばかり。一時的な感情で自殺に追い込んでいる、一種の“死にたい病”なんです。それを放置したらいつか飛び込む。医者が病人の身体を手術するとき、傷つけても傷害罪に問われないのと同様に、わしが介入するのも正当な行為なんです」
そんな茂さんの熱い思いに同調し、開設当初から一緒に活動しているのが事務局長の川越みさ子さん(68)だ。県警本部の喫茶店で店長をしていた縁で、茂さんに誘われた。
「茂さんはぶれない人です。何事に対しても物怖じしない。どんな逆境が来ても“いい機会だ”と前向きにとらえるんです。相談相手からは確かに重たい話を聞くのですが、それで茂さんがまいっているのを見たことはありません。会社に乗り込んでいくときは、分厚い六法全書を持っていきますからね」
現在までに救出した720人の中には、その後に命を断った人が数人いる。とりわけ「あれは可哀想やったなぁ」と振り返る母子3人の姿が、茂さんの脳裏に今も焼きついている。
それはある夏の日の昼下がりのことだった。
商店街の人から「ちょっと来てくれないか」と言われ、見に行くと、母親とおぼしき女性がビールを飲んでいた。隣には幼女と、生後間もない男児の姿。幼女は「かあかあ、お家に帰ろう」と泣いているので、茂さんが声をかけた。
「これから岩場に行くんです。旅行に来ただけ」
そう言い張る女性は男児を抱き、幼女を連れて岩場へと歩き始めた。茂さんが引き留めると、
「なんで引き留めるんだ!」
と引っ張り合いになったが、何とか茶屋に連れてきた。話をじっくり聞いてみると、女性は関西出身で、夫婦仲と産後うつに悩んでいるのがわかった。そこで女性の親に電話をかけ、警察に引き渡した。約束どおり迎えの親が到着し、帰宅の途に就いた。
ところが後日、親から電話がかかってきた。
「せっかく東尋坊で自殺を止めていただいたのに、助けることができませんでした。疲れて別々の部屋で寝ている間に……」
女性はビルの10階から子ども2人を投げ、自分も後を追ったという。
茂さんが回想する。
「女の子が“おじちゃんありがとう! サンダーバード(特急)で帰るね”と手を振ってくれたんです。ものすごい可愛い子やったのに」
「自殺の名所」に冷ややかな地元の視線
茂さんが活動を開始した'04年当時、日本の自殺者は毎年、3万人超えが続き、主要7か国(G7)の中では最も多かった。
3万人を初めて超えたのは1998年。バブル崩壊の影響というのが有力な説だ。その前年には山一證券や北海道拓殖銀行の倒産が相次ぎ、日本の自殺問題は深刻化の一途をたどった。ところが、自殺対策に関して国の基本方針は策定されなかった。このため茂さんはNPO開設時に行政からの支援を受けられず、茶屋の家賃を含めた年間約100万円の経費はすべて手弁当だった。
こうした政府の「無策状態」が続くなか、自殺者の遺族や自殺予防活動に取り組む民間団体から、「個人だけでなく社会を対象として自殺対策を実施すべき」といった声が強まり、国会でのシンポジウム開催や自殺対策の法制化を求める署名活動などの動きが広がり、'06年、自殺対策基本法が成立した。その3年後には、自殺対策のための基金が設立され、100億円の予算が各都道府県に配分された。
茂さんのNPOも県から助成金が受けられたが、救済した人を保護するシェルターや当面の生活支援費などで経費は膨らみ、すべてを助成金でまかなえなかった。
その穴埋めについては、年間数十回の講演活動でやり繰りしていたと、茂さんが笑いながら「秘策」を明かす。
「講演料といっても1回数万円です。経費はまかなえないので、茶屋でついたおろし餅を講演会場に持ち込み、売っていました。8個入り1パックで1000円!」
こうした茂さんの地道な活動は、『自殺したらあかん! 東尋坊の“ちょっと待ておじさん”』(三省堂)をはじめとして7冊の著書にもなっている。日本のメディアだけでなく、海外からも注目され、米CNNや英BBCをはじめ、17か国の取材に対応した。『命の番人』というタイトルでドキュメンタリー映画にもなり、'16年、ロサンゼルス国際映画祭で短編ドキュメンタリー賞を受賞した。
こうして世界中から脚光を浴びることになったわけだが、地元、特に観光業界からの視線は冷ややかだった。当初は反発も強かったと、茂さんが渋い表情で振り返る。
「東尋坊のイメージが悪くなるから、こそっとやってくれと言われました。新聞やメディアの取材には応じるなと」
東尋坊は前述のとおり、風光明媚な景勝地だから、報道によって「自殺の名所」というイメージが定着するのを避けたい、というのが地元側の総意だったようだ。だが、茂さんがNPO法人を立ち上げる前からすでに、東尋坊の年間自殺者数は多いときで30人を超え、その名はすでに知れ渡っていたはずだ。
茂さんはこうも言う。
「地元の観光業界の中には、“自殺の名所”との評判を逆手に取り、客寄せに使っているところもありました」
当時を知る観光業界の関係者に聞いてみると、こんな反応が返ってきた。
「助かった人たちに警察が事情聴取をしたところ、この地に縁のない人が多かったんです。“自殺の名所”という報道を目にしたので東尋坊に来たと。そういった宣伝による逆効果を防ぎたかった。観光業界が自殺者を防ごうという崇高な理念を妨害したなんてことは一切ないし、自殺者を防ぎたいという思いは茂さんと一致しています」
茂さんが活動開始後は自殺者が減少、'14年には初めて一桁台に達し、7人まで減った。過去10年の年間平均自殺者数でも11・6人と、活動開始前に比べて圧倒的に少なくなった。「自殺の名所」報道によって確かに、自殺を決意した人々が東尋坊に集まった可能性はあるものの、逆に東尋坊の存在が知れ渡らなければ、彼らは「命の番人」の網の目に引っかかることもなく、ほかの場所で自殺していたかもしれない。そもそも彼らは「死にたい」のではなく、「生きたい」から話を聞いてほしいのだ。
「自殺の名所」のイメージを逆手に取った客寄せについては、東尋坊観光交流センター内にある一般社団法人『DMOさかい観光局』の担当者がこう説明する。
「その昔、平泉寺にいた『東尋坊』という悪僧が、断崖絶壁から突き落とされた伝説に由来しているのだと思います。確かに遊覧船ではその伝説が放送されていましたし、数年前までは観光パンフレットにも掲載されていました。それが“自殺の名所”としてのイメージにつながった可能性はあります」
東尋坊を訪れる観光客数は右肩上がりだ。茂さんが活動を開始した'04年は98万3000人で、翌年に100万人の大台に乗り、以降は増え続けた。東日本大震災の発生後は一時的に減少したが、北陸新幹線が金沢まで延伸した'15年には、関東からの観光客増で過去最多の約148万人を記録。以降は横ばいが続く。新型コロナの感染が拡大した昨年は、大幅に減ったが、昔も今も東尋坊は県内有数の観光地の座をキープし続け、魅力のさらなる向上に向けた再整備計画も進められている。
そうした時代の変遷もあってか、茂さんの活動にも理解が生まれているようだ。
前出・DMOさかい観光局の担当者はこう続けた。
「観光に携わる立場から言うと、『自殺』という言葉を使うのはやはりタブー。マイナスイメージがメディアを通じて露出されるのは避けたいです。それよりも明るいイメージを出したほうが、自殺のために訪れる人が減るかもしれません。
とはいえ影の部分があるのも事実ですし、それに対してボランティア活動を続ける茂さんには感謝しています」
自殺現場のリアルを写真集で再現
岩場に体育座りをし、顔をうつむけた男性が写真に収まっている。目元はモザイクがかかり、グレーのパーカに黒いズボン、白いスニーカーを履いている。隣には黒いリュックサック。
写真の下にはこんな説明が添えられている。
《新型コロナ禍の影響で仕事に就けず、蓄えも無くなりアパートの家賃も払えなくなったことからアパートを追い出され、頼るところが無いため自殺しに来た》
別のページの写真は、西日が当たるベンチに座る男性の後ろ姿。ジャケットを羽織って野球帽をかぶり、すぐ目の前の波打ち際を眺めている。荷物は写っていない。
《中学時代に受けたイジメがトラウマになっており人間恐怖症になり、就職しても友達ができず、いつも孤立の状態であり、将来が見えないため自殺しに来た》
これは茂さんが今年3月に出版した写真集『蘇 よみがえる』の一部だ。収録されたのは17人で、いずれも茂さんたちが昨年、パトロール中に遭遇し、声をかける前に撮影したリアルな現場の様子である。全員から同意を得たうえで掲載した。
厚労省の助成を受けて500部を刷り、ボランティア団体や全都道府県と全政令指定都市の自殺防止対策を担当する部署に送った。
そのまま放置したら自殺をするかもしれない直前の姿を写真集にするのは、やや過激ではないか。その意図について、茂さんはこう説明する。
「私たちの活動に対し“なぜ自殺を考えて来た人だとわかるのか?”、“声をかけたときの相手の反応は?”という質問が多く寄せられています。その声に答えるべく、自殺をしにきた人々のオーラを写真集にしました」
事務局長の川越さんが、
「もうすぐ80歳に手が届きそうなのに茂さんのあのパワーは何だろうな? と思います。まだまだ挑戦したいことがいっぱいある」
と語ったように、茂さんは自殺防止に向け、今後も活動の幅を広げる意気込みだ。
日本の自殺者は'14年に3万人を下回り、10年連続で減少した。昨年は新型コロナの影響で前年から微増し、芸能人の自殺も相次いだ。とはいえ3万人超えが連続していた当時に比べれば、明らかな改善と言える。
この背景には、民間団体による取り組みの力が大きいと、厚生労働省自殺対策推進室の担当者は認める。
「行政にはパトロールの人員を配置するほどのマンパワーやノウハウがありません。自殺対策においてはその隙間部分を、民間に頼らざるをえないのが現状です」
これだけ自殺が社会問題化しながら、その解決を民間の力に依存し続けてきたのは、日本政府の失策と言わざるをえない。そんな「自殺大国ニッポン」の姿は、折れた心に寄り添い続けた「命の番人」にとって、どう映るだろうか。茂さんが語る。
「頑張り主義や競争社会によって精神的に追い込まれるのが、そもそもの原因だと思います。子どものときから英才教育を受けさせ、学業成績が落ちると叱る。そんな空気感が蔓延した社会構造に問題があるのではないでしょうか。いわゆる貧困からきているわけではないでしょう」
競争社会は必ずしも人間の幸福につながるとは限らない。むしろ足の引っ張り合いをするだけだ。そう頭ではわかっていながらも、いまだに日本社会は「勝ち組」と「負け組」を分ける境界線が暗黙のうちに敷かれている。ゆえに自分と他人を比較し、劣等感や自信喪失、厭世観に苦しむ。そうして負のスパイラルから抜け出せない人々が、東尋坊を目指すのではなかろうか。
そんな彼らに対し、茂さんはこう包み込む。
「夢を持て、希望を抱けと言いますが、そういうことじゃない。食べるだけあればいいんです。無理したらあかん。自分の楽しみを探せ。楽しみがなければここ1週間、あるいは1年で楽しかったことは何だろうかと考えてみる。例えば正月や盆に、家族みんなが丸い心で過ごせる。そんな楽しみが、夢であり、希望であるべきなんです」
東尋坊を案内してくれた日の夕暮れ時、1本の電話が茂さんにかかってきた。茶屋の椅子に座り、受話器を耳に当てながら茂さんが語る。その内容から、4年ほど前に東尋坊で茂さんに救われた男性が、今回は父親との関係に悩んで相談してきたようだった。
ため口だが、どこか人情味を感じさせる茂さんの声が、店内に響き渡る。
「そんなこと言ったらあかん。そしたらわしがあなたのお父さんと1回、談判するか?」
「そんなブラック企業みたいなところ行くな。早くおさらばせなあかんって」
「大丈夫や! 生きる道はある。アホなこと考えるなよ!」
川越さんらスタッフが店じまいをする中、茂さんの電話相談は40分ほど続いた。
「わしがなんとかしてやる!」
茂さんは今日もまた、双眼鏡を手に、岩場をパトロールしている。
日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』(集英社)ほか、著書多数