300度以上の熱さで燃え盛る高さ3メートルの炎を前にして一心不乱に護摩をくべながら真言を唱える護摩行。100日連続で1万枚以上の護摩を焚き続ける『100万枚護摩行』を達成し、高野山の最高位に上り詰めた“炎の行者”。一方で、歴代の総理大臣や大物政治家が相談に訪れプロのスポーツ選手や著名なジャーナリストとも交流、日本と北朝鮮の橋渡し役を買って出たこともあり、その広い交友範囲から名づけられたのは“永田町の怪僧”。その正体とはーー。
「高野山真言宗“宿老”の大任の栄誉を授けられ、心よりお喜びを申し上げます。
内閣総理大臣 菅義偉」
「初心を忘れず長年にわたりご活躍され、地域や人々に骨身を惜しまずご貢献を続けてこられた池口大僧正の姿勢に対し、改めて敬意を表させていただきます。
前内閣総理大臣 衆議院議員 安倍晋三」
次々と読み上げられる電報の送り主には、国会議員、スポーツ選手、ジャーナリストなどの著名人が並んだ。
今年1月19日、雪景色が広がる高野山の奥に鎮座する真言宗の総本山金剛峯寺(こうごうぶじ)にて、『宿老 親授式』が行われた。
宿老とは、高野山に現在3人しかいない最高位の役職で永久職。真言宗の宗祖である弘法大師・空海が開創した真言密教の聖地で行われた親授式。高野山管長や宗務総長をはじめとした要職らが一同にそろい、その上座には、宿老職を親授される恰幅のよい1人の僧正が座っていた。
池口恵観(いけぐちえかん)(84)。
前人未到の『100万枚護摩行(ごまぎょう)』の達成者は“炎の行者”と呼ばれる一方で、“永田町の怪僧”と囁(ささや)かれるほど人脈が広い。政財界、スポーツ界にとどまらず、過去には戦後最大級の経済事件で逮捕、起訴された人物が池口の弟子だったことも。
いったい真言宗の住職が、なぜこのような人脈を持つようになったのか。
政治家にとって池口さんのような人が必要
親授式に自身も電報を送り、40年以上にわたって親交を持つ田原総一朗(87)は、池口との出会いをこう語る。
「僕が池口さんと知り合ったのは、確か'76年のこと。最初の妻が乳がんを患い、当時は抗がん剤もなく、“死病”と言われていました。初期の症状は軽かったのですが、再発してリンパに転移して、入退院を繰り返す状態に。闘病は約9年間続きましたが、入退院を繰り返していた3年目ごろに知人から“病気を治す先生がいる”と紹介されたのが池口さんだったのです」
田原によると、日本の仏教の宗派の中で唯一、真言密教だけが「病気を治すと言い切っている」ことから、病院での治療と並行して、妻とともに池口のもとを訪れ、“加持”治療を受け続けた。
「池口さんからは“病院を出てウチで治療してください”と言われていたのですが、病院の治療を中断するまでの踏ん切りはつきませんでした。結果的に最初の妻はがんで亡くなってしまいましたが、
妻と同じ病院に入院していた末期の直腸がんを患っていた男性に池口さんを紹介したところ、彼は退院して池口さんのところで加持を受け続けた結果、奇跡的にがんがなくなったんです」
最初の妻を亡くした後、田原は再婚するが、皮肉にも2人目の妻も乳がんを患ってしまい、余命半年を告げられる。そこで、最初の妻と同じく、2人目の妻も入院治療を続けながら池口のもとを訪ね、加持を続けたところ、結果的に余命が6年延びた。
「転院したりもしていましたから、加持だけが理由かどうかはわかりません。ですが、池口さんは妻たちにネガティブな言葉ではなく常に“必ず治る”といった言葉をかけ続けてくれました。
病気をすると、さまざまな宗教の人たちが寄ってきて“感謝が足りないからだ”などと説教をしてくることもあったのですが、池口さんは“大丈夫”と妻たちを励まし、ただただ拝んでくれたのです。妻たちも池口さんのおかげで生きることに前向きになったと思います」
2人の妻の闘病をきっかけに池口と知り合った田原は以降、40年以上にわたり親交を続ける。
'17年には池口について記した『なぜ今、池口恵観なのか』(バジリコ)という書籍を出版。同書の帯には《「宗教と人間」という普遍的かつ優れて現在的なテーマにおいて、私が今最も関心を抱く人物である》との一文を記している。
田原は池口のもとに政治家らが集まってくることについて、こう分析する。
「政治家は孤独。相談する相手は、誰でもいいというわけではない。その点、池口さんは私利私欲がないし、その言葉にハッタリも自慢もなく、とにかく謙虚。だから政治家にとっては、池口さんのような人が必要なのです」
後ろは崖、目の前に真剣を立てて座禅
池口恵観、幼名は鮫島正純(さめしままさずみ)。
鹿児島で室町時代から500年以上続く山岳修験行者の家系に生まれた。幼いころから「息を吐くかのように自然と“行”(ぎょう)を行うようになった」と、池口は言う。
「行一筋に生きてきた私の先祖の中には、修験の行力、いわゆる験力の強い行者が何人もいたようです。私の曽祖父は、ピンポン玉ぐらいの団子1つと水だけで、絶海の孤島で21日間の修行をしたり、竹にとまっていたスズメに念力を送って、生きたまま枝ごと家に持ち帰ったそうです」
そうした験力は「厳しい行によって養われた」と考える池口も2、3歳のころから毎朝、境内にある仏像にお茶と水をあげ、線香をたくことを日課にし、父親からは行者としてのスパルタ教育を受けていたと振り返る。
「幼いころ、父親に背負われて山に登り、険しい崖を背にして座り、目の前には真剣を立てて座禅をする『刀岳(とうがく)の禅』を行いました。この行は、途中で眠くなっても後ろに倒れれば崖を真っ逆さま、前に倒れれば刀で顔を切りますから、眠るわけにはいかない。
小学校に上がるころには、学校から家に戻ると護摩木を焚く父の横に座り、炎が燃え盛り、息もできないほど苦しくなる中、寺の御本尊の不動明王に向かって、のども張り裂けんばかりの大声で経を唱える“護摩行”を行うようになりました」
大人でも厳しい護摩行を否応なしに行っていた池口は、子どもながらに不思議な力を持つようになったという。
「年末になると、周辺の家にお祓いに行っていたのですが、玄関の前に立つと、家人の身体の調子や飼っている牛や馬がもうすぐ子を産むこと、生まれる子の性別などが不思議とわかり、それがことごとく当たったんです。寺に泊まりに来ていた友達が患っていた皮膚病を手で撫でて治したこともありました。ですが、そうした力も思春期に入る中学生ごろになると、女の子のことを考えたり、雑念が生まれたせいか、自然と遠のいていきました」
500年以上続く修験行者の家系に生まれた池口だが、修行者として、高野山の宿老となった今日にいたるまで、「母親から受けた影響は大きかった」と回願する。
「父とともに得度(とくど)し、行の道に入った母の智観(ちかん)は、霊感の強い人でした。'74年にアメリカで新聞王のウィリアム・ランドルフ・ハーストの孫娘が誘拐されて世界中から注目されていたとき、彼女の居場所は“アメリカ東部にいる可能性が高い”と報道されていたのですが、母は“彼女がいるのはサンフランシスコだ”と具体的な地名まで指摘して、それが当たったんです。
私が若いときは、こんなこともありました。鹿児島の実家近くに当時の田舎では珍しかったモーテルができて、そこに私も女の子と入ったことがあったんです。そうしたら後日、母は私が女の子とモーテルに入ったこと、その女の子の容姿までをピタリと言い当てたので、冷や汗をかきました(笑)」
大学時代は好奇心旺盛な学生
そうした霊感の強かった母親の影響を受けながら、鹿児島の実家の寺で修行を続けた。そして、高校卒業後は真言密教を学ぶため、和歌山県の高野山大学に進学した。
大学時代から現在も池口と親交を持つ、鳥取県・歓喜寺の徳岡弘昭さんは、大学時代の池口は「相撲部に所属し、舞踊も嗜(たしな)む好奇心旺盛な学生でした」と振り返る。
「私も“さめちゃん”と同じ相撲部でした。彼は身体が大きくて柔軟性はなかったですが、ガッチリした相撲をとっていた記憶があります。相撲部は、それほど強くなかったのですが、彼は強豪が集まる全国大会の個人戦でベスト32まで勝ち進みました。
仏教の教えを旋律にのせて唱える和歌のような『御詠歌(ごえいか)』も習っていたのですが、さめちゃんは御詠歌に合わせて舞ったりと、器用でしたね」
徳岡さんが証言するように池口本人も「大学時代は芸事が好きで、毎年行われる文化祭では舞台で演劇をし、優勝したこともある」と、青春時代の記憶を思い出し、こんな過去も明かしてくれた。
「文化祭での私の舞台を見た高野山櫻池院の大僧正だった方が当時の日活常務と友達で、私に“ニューフェイスのオーディションを受けてみないか”と声をかけてくれたんです。
私は最終審査まで残ったのですが、その課題がパントマイム。“そんなこと、できません”って尻込みしてしまって。審査員は“何でもいいからやってみろ”と言うのですが、やり切れずに俳優の道はあきらめました(笑)」
こうした池口氏の芸事好きは今でも続いており、弘法大師や自身の誕生日には、法衣を脱ぎ捨てタキシードに身を包み、ホテルを貸し切って、カラオケで歌声を披露しているという。
「兄の影響で、歌うことも好きだったんです」
取材中に突然、「歌ってみましょうか?」と、いたずらっぽく微笑むと、おもむろにスマホで持ち歌を検索。'98年に歌手・門倉有希が切ない女心を歌った曲『ノラ』をフルコーラスで歌ってみせた。
「歌うのは女性歌手の曲が多いですね。2、3回聴いたら覚えるんですよ」
クーデター事件に巻き込まれて逮捕
高野山大学卒業後は、すぐに真言行者への道を歩むことはせず、東京にいた兄を頼って上京。パイロットや作詞家、新聞記者などの道を模索しつつ、印刷会社で働いたことも。1度、高野山に戻り、教学や作法などの習得に励むが結局、約半年後に鹿児島に戻った。
「実家の寺に戻ってからは、午前中は護摩行を勤めた後、護摩壇を清掃し、法具を磨き、山へ入って護摩行に使う護摩木をつくるという代わり映えのない毎日を送り、護摩行にも身が入っていませんでした。
そうした心が定まっていない私を見かねた母から“お前の行はメッキにすぎん、点数をつければ、50~60点だ。もっと性根をすえてやらねば”と叱責され、私の気持ちはますます鬱屈としていきました」
時代は'60年代初め。世間は安保騒動で騒然とし、学生を中心とした共産主義者の安保反対運動は日に日に激しくなっていた。
池口は自身の鬱屈とした現状と連動するような世の中に対し、「もし日本が共産主義になれば、高野山は、真言宗は、どうなってしまうのか」といった焦燥を感じていた。そんなとき、池口は人生の転機となる“大きな事件”に関わってしまう。
'61年に発覚した『三無(さんゆう)事件』─。
戦前から戦後にかけ、造船業界で鳴らした実業家が元陸軍幹部や軍出身の政治家らとともに、(1)税金のない(2)失業のない(3)戦争のない社会をつくるといった理想を掲げ、関わった池口によると「経済一辺倒の池田勇人内閣では共産革命は阻止できない」という理念のもと、クーデターによる臨時政府樹立に傾いていった。
そうした激動の時代、池口は大学時代の先輩から布教のための講習会に講師として招かれる。講習会の終了後、池口は先輩に呼ばれると、ある計画を打ち明けられた。
「“現状を放置したら、日本で共産革命が起き、布教活動どころではなくなる。ソ連や中国のように宗教は弾圧され、抹殺される。それを阻止するために、われわれは予防革命を計画している。そのために、君に国会秘書として国会に潜入してほしい”と託されたのです。驚天動地の話でしたが、私自身、共産革命による宗教・仏教の危機感は感じていたから、覚悟を決めたんです」
“世直しをやる”と母親に別れを告げて上京した池口は、先輩に導かれて、三無主義運動の首謀者を紹介された。ある国会議員も紹介されて、秘書として国会に潜入することに成功。その後は国会の電話交換所の場所から変電所の場所、部屋の配置や階段の位置、扉の数まで頭に叩き込み、革命の突撃隊の来るべき国会突入の日に備えた。
だが、計画は警察の知るところとなっていた……。
「革命への賛同を呼びかけるため、自衛隊との接触などから計画は早い段階で警察に内偵されていました。計画実行前に首謀者らは一斉に捜索を受け、次々と逮捕。
私も捜索の過程で任意同行を求められ、破防法の容疑で逮捕されたのです」
事件は池口の写真入りで新聞に報じられた。取り調べ中に母親からは「私の子として恥ずかしい死に方だけはするな」との手紙が届き、留置場で池口は「なぜ自分はこんな奈落の底に落ちねばならなかったのか」と落涙した。
逮捕、勾留はされたものの、クーデター計画の内実や決起当日の行動計画などもまったく知らなかったことなどから、20日間の勾留を経て起訴猶予に。実家から勘当同然となった池口は釈放後、ひっそりと鹿児島へ戻り、三畳一間の部屋を借りて、朝は経や真言を唱え、午後は托鉢(たくはつ)に行くといった毎日を続けた。
「そんな私を勇気づけてくださったのが、お大師様でした。即身成仏─。すべての生命は仏様の子だから、生きながら仏様になることができる。私は、お大師様が教えられたその境地を会得すべく、生まれたときから宿命づけられていた行三昧の道に、改めて踏み出したのです。三無事件の挫折がそのことを教えてくれました」
行への心が定まらなかったために背負った大きすぎる代償。それを自身の本来、生きるべき道の糧とした。
鹿児島に戻ってからは、一心不乱に行にのめり込む。そうした姿を見かねてか、ほどなくしてある信者が実家との仲を取り持ってくれ、実家の寺に帰れることになった。
「実家に戻ってからは、より一層、行に励みました。午前1時に目を覚まし、身体を清め、身支度をして2時から行に入りました。毎日の睡眠時間は4、5時間でしたが、少しもつらくない。むしろ快い疲労でした。“私の人生には行しかない”と目覚めた瞬間でした」
朝から晩まで経を唱え、護摩を焚く。そうした毎日を過ごすことによって、池口は目の前がパッと開ける思いがした。脇目も振らずに行に集中した池口は、満を持して真言密教の荒行である『8000枚護摩行』に挑んだ。
「8000枚とは、護摩行で火にくべる護摩木の数です。これをやり遂げることができれば、古来、飛ぶ鳥を落としたり、河川の水を自在に操ったり、山をも動かせるようになると言い伝えられている、密教の秘法です。
行に先立つこと21日間、五穀断ち、十穀断ちを続けながら毎日、真言を一万遍唱え、護摩を三座行います」
行場が行者の死に場所だ!
1週間前から断食し、24時間前からは水も断つ。3メートルの高さ、300度以上の熱さで燃え盛る炎を前にして、一心不乱に護摩に火をくべながら真言を唱える。発汗とともに身体中から水分は失われ、意識は遠のき、気力、体力は限界に達する。そうした過酷な状況を約6、7時間続けながら、8000枚の護摩木を焚き上げるこの行は、真言密教の行者でも一生に1度、やれるかやれないかといわれる。
池口は、この『8000枚護摩行』を、これまで100回以上やり遂げてきた。
「4、5回目のとき、1度だけ熱さに堪えかね意識を失ったことがあるんです。一緒に行をしていた弟子が私を壇から降ろそうとしたとき、傍らで不動真言を唱えていた母が“苦しかったらここで死ね!行場が行者の死に場所だ!”と、私に叫びました。その言葉を聞いて私は意識を取り戻し、行に戻ることができたのです」
行場が行者の死に場所─。この言葉は、今でも池口の耳に鮮明に残る。
「いろいろな職業の方が、私のもとを訪れます。政治家、スポーツ選手、実業家。そうした人が、さまざまな状況の中で、“もうダメだ”というときもある。そんなとき、私は母から叱咤(しった)された話をするんです。
政治家なら政治が行場、スポーツ選手ならスポーツが行場、実業家なら実業が行場。その行場で命がけで“ここが自分の死に場所なんだ”という気持ちでやっていますか、と。命がけで自分の行場で行をしてこそ道が開ける、そう伝えるんです」
'89年、毎日1万800枚の護摩木に加えて、全国の信者から送られてきた3500枚の添え護摩を100日間連続で焚く前人未到の『100万枚護摩行』に挑む。
前述したように、8000枚護摩行でさえ密教行者が一生に1度、行えるかどうかの荒行。それを毎日1万800枚以上、合計100万枚以上になる護摩木を100日間かけて焚き続けるというのだから過酷極まりない。挑む前に、池口は行中に死んだ際の後継者も決めて臨んだ。
「想像を絶する苦しさでしたが、護摩行を続けている間に、熱さも苦しさも感じなくなり、逆に全身の感覚がさえわたり、自然と真言が口から出て、完璧なリズムで護摩木が手から離れていきました。自分の中に御仏が入ったような感覚にとらわれ、身体中の細胞が一斉に目覚め、呼吸するのを感じました」
前人未到の行を勤め終えた際、池口は7色の光の中から御仏が近づき微笑むのを「確かに感じた」という。
ダライ・ラマと並ぶお坊さんに
80歳を越えた今でも、ほぼ毎日2500~3000枚の護摩を焚き続けている。そんな氏のことを「スーパーマンですよ」と言うのは、元広島、阪神の内野手として活躍し、現役時代には2000本安打を達成した新井貴浩(たかひろ)(44)だ。
「僕は'04年のオフに、恵観先生と面識があったOBに“鍛えてもらってこい”と言われて、修行をしたんです。
巻き上がる護摩木の火の粉で、顔や首、指やひざなんか、袈裟を着ていても水ぶくれになるぐらい火傷しました。護摩行は、野球をやっているときのキツさとはまったく違いましたね。死を感じるというか……。炎の前で真言を唱え続けると、酸欠になり、意識を失って倒れそうになるんです。味わったことのないつらさでした」
それでもシーズンオフになると、池口のもとで護摩行をするようになった新井。
「護摩行をすることによって野球の調子が悪いときに“もうダメだ”ではなく“まだダメだ”と思えるようになりました。苦しくても次に頑張る、といった折れない気持ちや精神的な強さを養いました」
精神力を養うことを求めて、池口のもとを訪れるスポーツ選手は少なくない。
元阪神監督で“鉄人”こと金本智憲(かねもとともあき)(53)もその1人だ。
「僕が先生のところで護摩行を行ったのは、野球の技術向上や成績よりも、打席に立ったときの“ここ一番”の場面で、ピッチャーの手元から目をそらさないといった集中力を鍛えることが目的でした。
“熱くても炎から目をそらさない”という苦しいときに集中することが、ここ一番の打席に入ったときの集中力と共通すると思ったのです。そうした“集中力”を高める目的は、達成できたと思います」
新井や金本のように野球界のみならず、相撲界にも池口のもとで護摩行を行った人物がいる。モンゴル出身力士のパイオニアであり、現在はモンゴルで実業家として活動する元旭鷲山(きょくしゅうざん)(48)だ。
「知人の紹介で先生と知り合ったのですが、私は初め、先生のことは信じていませんでした。ですが現役中に身体を壊し、何連敗かして次に負けたら幕内から陥落という大事な一番を迎えたことがあったんです。しかも相手は大関。そのとき、ふと先生のことが頭に浮かんで……。
藁(わら)にもすがる思いで取り組み前日に先生のもとを訪ねたのですが“大丈夫、心配ない。護摩を焚いてやるから俺に任せて、今日はゆっくり寝ろ”と。半信半疑でしたが翌日、取り組み相手の大関が突然、調子が悪くなって休場したんです。驚いて、それから先生のことを信じるようになり、護摩行をやるようになったのです」
それ以降、旭鷲山は交流を続け、池口はたびたび渡蒙(ともう)。戦没者、戦争犠牲者の慰霊法要および世界平和祈念を行い、モンゴルの“マンホールチルドレン”や現地の寺院に寄付を続けた。
「先生のそうした社会貢献が新聞に取り上げられ、モンゴルでもチベットのダライ・ラマと並び称される有名なお坊さんになったんです。モンゴルと日本の国交30周年記念の際は切手にもなりました。日本人なのにモンゴルや北朝鮮のことを考えたり、普通の日本人の感覚じゃないんです」
初対面で安倍が抱える持病を指摘
著名なスポーツ選手らが池口のもとで護摩行を行うようになると、いつしかメディアは池口のことを“炎の行者”と呼ぶようになった。だが、池口の名前を世間に知らしめたのは、'13年に起きた『朝鮮総連ビル落札』問題だった。
千代田区にある北朝鮮の事実上の出先機関とされる『朝鮮総連本部』の土地・建物が競売にかけられたところ、池口が約45億円で落札。その資金の出どころや意図を含め、政界、公安、マスコミ関係者の間では、さまざまな憶測を呼んだ。
池口本人が改めて、落札した意図と経緯を説明する。
「私は『朝鮮総連本部』落札前の4年間に5回訪朝し、北朝鮮側の要人と会談して、日朝関係改善に取り組んでいました。訪朝のたびに要人から“朝鮮総連ビルは北朝鮮にとって事実上の駐日大使館である。強制退去させられた場合、宣戦布告と見なす”と言われていたんです。
それが現実になれば、日朝双方に犠牲者が出るのは避けられません。日朝友好の促進を祈念する仏教者の1人として、最悪の事態を避けるために必死の思いで応札したのです」
北朝鮮による拉致問題、核開発疑惑をはじめとした問題が山積し、日朝問題が遅々として進まない中、池口の落札は世間からの批判を集めた。
「寺には落札に抗議する街宣車も来ました。ですが、決して私は北朝鮮の“ダミー”的な立場で動いたわけではありません。私は落札までの訪朝で、北朝鮮は体面を重んじる国だと感じていました。体面を保つことができれば、落札した後に別の場所に朝鮮総連本部を移ってもらい、靖国神社に隣接する本部の跡地とその一帯を再開発し、広く戦没者を慰霊して祈とうする世界平和祈念公園をつくることを構想していたのです。
民間に払い下げられ、商業的な再開発をされるよりも、跡地に国家プロジェクトとして世界平和を祈るための施設をつくることを北朝鮮側に誠意を尽くして説明すれば理解は得られるだろうと考えていたんです」
ところが落札は、複数の金融機関から決まっていた融資が反故にされ、約45億円の資金調達ができず、池口は辞退することに。この際、池口は政府関係者や官僚などから金融機関へのさまざまな圧力があったと推測しているという。
それ以降、政治的な動きはしていないが、池口のもとには今も数多くの政治家たちが相談に訪れる。中でもとりわけ関係が深いといわれているのが、安倍晋三・前首相。池口が「お父さんの晋太郎さんの友人で、父親代わりといわれていた病院の理事長から、議員1期目に紹介されて知己を得た」という安倍との出会いについて振り返る。
「初対面の際、私は“この人はお腹が弱いですね”と晋太郎さんの友人に伝えたんです。誰にも持病を伝えていなかった安倍さんは驚いていました。友人は“安倍さんを総理にしてくれ”と、毎月祈願に来られていました。それ以降、私が上京した拠点に安倍さんがお加持を受けに来たり、さまざまな相談の話をするようになったのです」
'06年に総理大臣となった安倍だが、1期目には持病の潰瘍性大腸炎の悪化により、わずか1年で退陣。
その際、安倍は池口に「先生、気力が出ないんですよ」と吐露したという。
そんな安倍に対して「5年後、また大きな潮目があります。そのときは長期政権ができますから頑張ってください」と伝えた。その言葉どおり、'12年に安倍は首相の座に返り咲いた。
「私には安倍さんのほかにもさまざまな政治家の友人や知人がいます。私には信者も多い。
昔の大名はお坊さんを後ろに置いていたじゃないですか。私は仏様を拝んでいる人とは誰とでも会いますよ。偏見がないんです。みんなが避けるような人こそ、私のような行者が会うべきだと思っています」
7歳までに大事なことを教える家訓
そんな池口にも夫、父親、そして祖父としての顔がある。
私生活では1男2女をもうけ、長男は池口の後を継ぎ、現在は鹿児島にある寺の住職を務め、次女も得度した。
「亡くなった妻からは“いけちゃん”って呼ばれていました(笑)。妻とは一緒にカラオケに行ったりしました。妻はさっき歌った『ノラ』が大好きでしたね。長女は歯科医と結婚して、その息子2人は医学の道を進んでいます。次女はパティシエと結婚しましたが、僧侶になりました」
池口は自身の教育論について、次のように語る。
「家訓として、2歳から7歳までがいちばん大事とされるんです。その間にいろいろと教えると忘れない。私は孫にも行を見せ、自然と頭と身体に染みつくようにしています。仏様に水をあげたり、線香をつけさせたり、7歳までにそうしたお手伝いをさせると、反抗しなくなりますね」
4月25日、湘南の海にある『江の島大師』。池口が護摩行を行う寺に50名以上の信者が集っていた。不動明王が鎮座するお堂で、池口の護摩壇を中心に弟子と信者が集まり、一心不乱に真言を唱える。取材班が構えるカメラのレンズフードが溶けそうな熱さの中、池口は微動だにせず、印を結びながら真言を唱え、護摩を焚き続けた。
護摩行を終えた後、筆者はどうしても池口に聞きたかった質問をぶつけてみた。
─永田町の怪僧と呼ばれていることは、どう思われているのですか?
池口は顔に笑みを浮かべたままに、こう答えた。
「誰かが言ったんでしょうね。私は何とも思いません。言いたい人は、何を言ってもいいんじゃないですか」
炎の行者は、涼しげに受け流してみせるのだった。
〈取材・文/大島佑介〉
おおしま・ゆうすけ ●アメリカと中国に留学後、'99年より小学館『週刊ポスト』、'04年より文藝春秋『週刊文春』の記者として、殺人事件をはじめとした刑事、公安事件を中心に取材。'19年よりフリーのジャーナリストとなり『半グレと芸能人』(文春新書)を上梓