女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、野球チーム『鏡子の家 エロティックス』と、大山のぶ代との同居生活を振り返る。
『鏡子の家』出演者、スタッフと野球チームを作った
大谷翔平選手の活躍が止まらない。彼の姿は、改めてさまざまな人々に刺激を提供しているのだと感じる。
例えば、私の元夫の妹さん。結婚していた当時は、それほど親しいというわけではなかった。その義妹が、今では大谷選手に熱を上げてしまって、投打走で躍動するたびに電話やメールがあり、一喜一憂している。
年を重ねたとき、スポーツ選手はもちろん、若い世代から明るい話題や刺激をもらうのはとても素敵なことだなって。興奮冷めやらぬ彼女の電話口に、私もうれしくて雄叫びを上げ、狂喜乱舞する。
そういえば、かつては私もよく野球をしていたっけ。
(岸田)今日子ちゃんが主演を務めたドラマ『鏡子の家』(1962年)の出演者、スタッフと野球チームを作ったのはいい思い出ね。杉浦直樹さん、山崎努さん、テレビプロデューサーの大山勝美さん、当時まだアシスタント(演出助手)だった久世光彦さん……今思えば名だたるメンバーが集まっていたけれど、『鏡子の家 エロティックス』なんてふざけたチーム名で、後楽園球場や哲学堂の野球場などで試合をしていた。
私が監督で投手。今日子ちゃんも投手だったけれど、彼女はボールなんて触ったことがない。投げるたびにボールがあっちこっちにいってしまうから、そのたびにみんなで笑い合った。
当時、私はNHKの専属からフリーランスになったときで、番組に出ると、ギャラはその場でいただくのが習慣。野球ではチームメートなんだけど、局ではアシスタントである久世光彦さんから直接お金をいただく─なんてこともあったから、なんだかおかしな感じだった。
そうそう。フリーになって、突然お給料が大幅に増えたことも思い出深い。NHK専属時代の月給は1万5000円だったのに、フリーになった途端にうん十万円にもなって飛び上がりそうだった。といっても、私は姉と一緒に迎賓館近くの新宿区若葉町に住んでいて、その後も上の弟が大学に入学したし、家族の生活は私が支えることに。
思い返せば、故郷・三島から上京して、最初に住んだのは横浜のいとこの家。ところがしばらくして、俳優座養成所7期生の仲間、大山のぶ代から「私のところにおいでよ」と誘われ、東京で一緒に住むことになった。私より5歳年上だけど(私、顔の真ん中がへこんでいるからペコと呼んでいた)、とても人懐っこい。誰からも愛されるような人柄だった。
ペコとの3年間の同居生活
ペコがそのころ住んでいたのは、ボロボロの木造のアパート。その2階に家賃を折半する形で彼女との共同生活が始まった。雨漏りする家だったから、2人して洗面器や鍋を置いて、ぽたぽたと天井からしたたり落ちる雨露をしのぐなんてこともあった。
当時のペコは大人ぶって、「PEARL」(パール)という、当時人気のタバコを愛煙していた。私にも「吸いなよ」なんて声をかけてくれて、一緒に吸うマネをした。そんなたわいない日々が楽しかった。
その後、2人してほど近い新築のアパートに引っ越した。といっても、電話もお風呂もない新しいだけの部屋だったから、よく2人で銭湯に通っていたっけ。「あなたのは広くて不公平ね」なんて言いながら、ペコの背中を流していたけど、まさか後年、ドラえもんになるなんて夢にも思わなかった。
あのころは、養成所の男友達はいても、ボーイフレンドなんていない。デビューしたばかりで無我夢中。そのただ中、私が20歳のとき、父が結核で亡くなってしまった。まだ未成年の弟妹たちを引き受けるため、私は若葉町へ引っ越すことになったのだ。ペコとの3年間の同居生活は、長い人生で考えれば短い時間だったかもしれない。でも、一瞬だからこそ輝かしく、楽しく、忘れられない青春の入り口だったのかも。
(構成/我妻弘崇)