「私、漁師になりたい!」何度門前払いされても諦めない小柄な女性を弟子にとったのは老漁師だった。孫ほどの年の差がある女性はやがて独り立ち。先天性脳性麻痺だった姉の自死を引きずりながら、細腕で一家を支えるママ漁師になった。引退した師匠と亡き姉。海へ出ると聞こえてくる2人の声に耳を傾け、新たな挑戦へ―。
素潜りでは身体ひとつで海の中へ
6月1日。葉山の漁師にとっては特別の日、素潜り漁の解禁日がやってきた。
葉山唯一の女性漁師・長久保晶さん(35)は、ウエットスーツに着替えると、水中眼鏡とフィンなどの道具を手にして颯爽と船に乗り込んだ。
「獲物はサザエやアワビ。特にアワビは単価が高いから気合が入ります。数ある漁の中でも、素潜りがいちばん好きですね。身体ひとつでできるし、何より海の中は楽しい!」
晶さんの操船する船は、真名瀬港から相模湾へと舳先を向ける。
朝8時ごろに出港して5、6時間潜ることもある。いきなり深く潜ると身体への負担が大きいため、2mほどの浅場から始めるのが素潜り漁の掟だ。
「徐々に身体を慣らしていき、8月くらいになると深く、長く潜れるようになるんです。最大13mぐらいまで潜ったこともあります」
最初のポイントは、浅瀬に海藻の生える岩場。船のエンジンを切ると、晶さんは右手におこしを持って海へ潜る。
おこしとは、金属の爪が柄の先についた道具。岩肌に吸いついたアワビをはがすように起こし、岩陰に隠れるサザエを掻き出す、素潜り漁には欠かせない漁師の必須アイテムのひとつだ。岩に引っ掛けながら海の中を移動する際にも使うという。
晶さんは、獲物を手にすると海面まで上がり、海に沈めた網に獲物を入れ、大きく息を吸うと再び海へ潜る。
アワビは意外と素早い。狙いを定めていても、息継ぎをするわずか1分足らずの間に岩陰に隠れてしまうこともある。素潜り漁はハンティングなのだ。
漁師になったばかりのころ、晶さんには苦い思い出がある。
「タコ漁をしていたとき、よく獲れる場所にたこつぼとたこかごを仕掛けていたら、ほかの漁師さんが真横に船をつけてきたことがあって。誰がどこにかけてもいいことになっているけど、ちょっと常識的に考えられない近さで、腹が立ったことがありました」
漁師同士は、仲間でもあるがライバルでもある。互いに「今日はどこに潜ったのか、どこに仕掛けたのか」「収穫はどれくらいあったのか」探り合うのも日常だ。
解禁日の初日は、2か所の漁場をめぐって、アワビ23個、サザエ30キロ、トコブシも少々。今年初の素潜り漁にしてはまずまずの収穫だった。
だが、こうした毎日が続くわけではない。天候が崩れると、身の危険にさらされるため漁は中止。晴れても潮の流れや波風、水の透明度によって海に出られないこともある不安定な仕事だ。
晶さんには素潜り漁のシーズンが始まる前、必ずやっている験担ぎがあるという。
「龍神様が祀られた赤い鳥居が目印の名島に船をつけ、素潜り漁の安全と豊漁を祈願するんです。今年は解禁日に波やうねりがなかったから、無事にお参りできました。
それと……もうひとつ。師匠のもとを訪ねること。今年は挨拶に行ったら、私の顔を見ても、最初は誰だかわからなかったみたい。『四郎さん!晶だよ』『潜り、始まったよ』って話しかけたら『おお晶か』って思い出してくれた(笑)」
晶さんが師匠と呼ぶのは、葉山で半世紀以上にわたって漁師をやってきた矢嶋四郎さん(85)。今は引退しているが、晶さんは10年ほど前に四郎さんに弟子入りを許され、漁師になれた。
四郎さんは最近、外に出ることもままならず、家で過ごすことが多くなった。そんな師匠のためにも、豊漁を願い、晶さんは海に潜る─。
漁師になるため“師匠”のもとへ
「私、漁師になりたい」
1人で漁業組合の門を叩いたのは、2012年秋のこと。
「最初は私1人で漁業協同組合に行って『漁師になりたい』と相談したんですが、全く相手にされませんでした。3回通ったけど、ダメ。うちは漁師の家系ではないし、女だし、無理だと思われていたようです。それでも諦めきれなくて、師匠になってくれる人を探しました」
真っ先に脳裏に浮かんだのは、真名瀬の浜でほかの漁師たちとは群れず、少し離れたところに船を揚げていた一匹狼の漁師・矢嶋四郎さんの顔だった。
「2007年真名瀬の海岸に遊歩道をつくる計画が持ち上がったとき、住民の反対運動が起きて……。その先頭に立っていたのが四郎さん。自分が生きてきた真名瀬の海を守るために『命がけで反対する』と言っていた四郎さんの顔が忘れられませんでした」
─弟子入りするなら、四郎さんしかない。
晶さんは仕事の合間に足しげく真名瀬の浜に通い、四郎さんのもとで網の掃除などを手伝うようになった。
「私、漁師になりたいの。どうしたらいいかな?」
「いつでもいいよ!」
何げなく四郎さんに相談しても、明らかにはぐらかされている。そんな状態が3か月ほど続いた。
晶さんの修業時代を間近で見ていた四郎さんの旧友・佐久間浩さん(66)が言う。
「四郎さんはヘリーハンセンの長靴を履いて、湘南ビーチFMの帽子がトレードマーク。とにかくおしゃれで海のことにも詳しくて、面倒見がいいもんだから、女性にモテてね。お弁当を作って遊びにくるファンもいた。晶ちゃんもその1人くらいにしか、思っていなかったんじゃないかな(笑)」
─このままでは埒が明かない。師匠が決まらなければ、漁師になる夢を諦めなければならない。
漁師の家系ではなく、ほかに頼めるあてもない晶さんは焦っていた。
思いつめた晶さんは意を決して、正式に「弟子入り」を志願しようと心に決める。
いつもはショートパンツにTシャツ姿で四郎さんの仕事を手伝っていた晶さんも、この日は自分なりに正装をした。
「ドキドキしていましたね。すごく緊張していて……。口調も結構強めだったと思う。
『本気で漁師になりたいから、修業させてくれる?』って。四郎さんの目をまっすぐ見て訴えました。そのとき、四郎さんの目つきが瞬時に変わって。あ、伝わった……って、何かを悟ってくれたような感じだった。今でもよく覚えています」
はぐらかしてばかりいた四郎さんは、まっすぐに晶さんを見つめ、こう言った。
「よし、わかった。組合に行くから、履歴書を持ってこい」
おじいさん師匠の口癖「海は大切」
葉山にはそれまで女性の漁師が1人もいなかった。前例のないことから、組合でも反対の声が上がったが、四郎さんは組合長や県の役人と掛け合った。
2012年3月、水産庁の担い手育成金を利用して、晴れて弟子入りが認められる。26歳、晶さんは「見習い漁師」になった。
初めて弟子をとる四郎さんの教え方は、少し変わっていたという。
「使い古しの網や道具を『これ、晶のな!』と渡されて、網の仕掛けや獲物の水揚げなどをさせてくれました。
同じ場所に網をかけても、四郎さんはかかるけど、私の網にはかからない。潮を予測してかけても絡まってしまったり、船が流されたりする。悔しかったですね。でも失敗がいちばんの財産。なぜ失敗したのか、考え続ける毎日でした」
見習い漁師の間は、漁のお手伝いをするのがルール。普通は自分の網など持たせてもらえないという。しかし、四郎さんはルールなどおかまいなしでとにかく「やってみろ!」と実践をさせてくれた。おかげで見習い期間中にもかかわらず、晶さんの腕前は格段に進歩した。
見習い漁師のうちは、基本的に収入がないため、アルバイトと掛け持ちしなくては生活ができない。夕方から中華料理店で夜遅くまで働き、早朝には浜へ出て、四郎さんが来るまでに船の準備をした。
何より大変だったのは、四郎さんの船が「お神楽さん」、つまり電動ではなかったこと。人力で浜に引っ張りあげなければならず、弟子である晶さんが細腕一本で「お神楽さん」を1人で回す。この力仕事は並大抵ではない。
「四郎さんは利便性を追求しない人で、そういうところを尊敬していました。手作りが好きで、網を縫うアバリを流木で作ったり、船のエンジンが故障したときは、私と2人分の重みに耐えて櫓を漕ぎ、浜まで帰ってきたこともありました。そんな漁師は葉山にもなかなかいないんですよ」
「海は大事にしろよ」が四郎さんの口癖。環境問題にも気を配り、海岸のプラスチックゴミを拾うなどビーチクリーンの先駆けでもあった。
「『海は大切。獲るだけじゃない』と言って、小さい魚やエビは捕まえても逃がしていましたね。今はあまり生えていないはばのり、アオサ、岩のりなど海藻の名前にも詳しくて、たくさん教えてもらいました」
気分屋で理不尽な怒られ方をしたこともあったが、機嫌のいい日は、
「AKBって知ってるか?あっかんべーのことだ」
と言って笑わせるユーモアの持ち主でもあった。
修業を始めて1年。晶さんは組合の漁師たちの審査を受けて準会員となり、2年後の2015年には正会員へ。30歳を迎え、ついに葉山初の女性漁師が誕生する。
晶さんの修業を間近で見ていた前出の佐久間さんは、「おじいさんの師匠と若い女の子。見たことのない師弟だった」と目を細める。
「『今度こいつ、漁師になるんだよ』『モノになるかは、これからだけどな』と言って、四郎さんがうれしそうに話してくれたことをよく覚えています。晶ちゃんが一生懸命だったから、四郎さんもちゃんと教えてくれた。他人を教えるのは難しい。晶ちゃんの努力もあったと思う」
夢に向かってまた一歩近づいた晶さん。
しかし、その行く手には大きな壁が立ちはだかっていた。
師匠のもとで流した悔し涙
一人前の漁師となった晶さんは、四郎さんのもとから独立。
上げ場のある真名瀬漁港に、初めて『桜花丸』と名づけた自分の船を持った。
「葉山の漁師は準会員を含めても100人あまり。そのうち1年中漁に出ている専業漁師は私を含めて20人ほど。春から夏にかけてワカメやヒジキ、素潜り漁である程度稼ぎますが、冬場はひと月5万円いかないこともあって。それだけじゃ食べていけないから、近所のカフェで『魚料理を出さないか』と誘われて、2年間店長をしたこともあります」
葉山の漁師は忙しい。
3月に入ると天然ワカメ漁が解禁になる。毎朝7時には港に行き、前日干したワカメを取り込み、漁に出る。船の上から海中を箱メガネで覗き、長い竿の鎌でワカメを切る。港に帰ってくると大きな釜に湯を沸かし、ワカメを湯がいて干す。さらに家に帰ったら自宅でワカメの袋詰め。休む暇はない。
4月になるとヒジキ漁が始まる。ヒジキ漁も採った後に大仕事が待っている。釜に入れてひと晩かけて薪で蒸すのだが、温度調節が難しい。さらに乾燥させたものをひとつひとつ手作業でチェックして、ごみ取りを行う。
6月からは素潜り漁。夏場はタコ漁、そして魚の通り道に網を仕掛けて魚を獲る刺し網漁でシタビラメも狙う。冬場には、長い竿を使ってサザエやアワビを突くみづき漁、ナマコ漁も最盛期を迎える。
独り立ちした当初は、戸惑うことも多かった。
晶さんの腕前について、同じ年に漁師になった真名瀬の池田さん(74)はこう話す。
「海の中はウツボをはじめおっかない魚がウヨウヨしているのに晶はおかまいなし。素潜りで10mくらい平気で潜って視野も広いし鋭い目を持ってる。天性の漁師だな」
ともにヒジキ漁に出ることもある池田さんは、きめ細かな仕事ぶりを絶賛する。
「晶のつくるワカメもヒジキも仕事が丁寧で、見た目もきれい。だから売れる。何をやるにも前向きで一生懸命だから応援したくなるんだよ」
しかし、漁師仲間とはいえ、みんながライバルでもある。意地とプライドをぶつけ合う漁師の世界にたった1人で飛び込んだ晶さんも洗礼を受けた。
真名瀬漁港に来たばかりのころ、港で四郎さんに教わったやり方で網を編んでいると、
「なんだ、この編み方は!こんなんじゃダメだ」
「あんな網でイセエビ獲ろうとしてんじゃねぇよ」
そんな罵声が飛んできたことも一度や二度ではなかったと、晶さんは振り返る。
「ある台風の日、タコの仕掛けを入れっぱなしにしていたら、『早く上げてこいよ』とまわりに言われたのを真に受けて、うねりが高い中、危ない目に遭って帰ってきたんです。そうしたら、『なんだオメェ海に出たのか。こんなときに出たらダメだろ』と言われて……。ようやく、からかわれていることに気がつきました」
嫌なことがあるたび、四郎さんの小屋に行って悔し涙を流した。
「アイツらの言うことは真に受けるな」
そんな四郎さんの言葉に救われながら、漁獲量を競い合う漁師界の厳しさを悟った。
「人のことは気にせず、自分の判断でやらないとダメだ。そういったことが身に沁みてわかりました」
働き詰めだった母の背中
6人きょうだいという大家族の5番目に生まれた。幼いころの晶さんは「きょうだいの中でも明るく活発な女の子だった」と母・能里子さんは言う。
「小さいときから、出されたご飯をさっさと食べて、次のことをする。暇にしているところを見たことがない。なんでも自分でやってしまう手のかからない子どもでしたね」
晶さんが自分のことはなんでも自分でするように育ったのは、ひとつ上の姉と5つ下の弟が先天性脳性麻痺で生まれてきたことも理由のひとつかもしれない。
「父は仕事が長続きしなくて……なんというか、ヒッピーみたいな人だったんです(笑)。履歴書を書かせたら、100種類以上の職業を転々としているんじゃないかな。そんな父に代わって、朝から夜中まで働き詰めの母の背中を見て、育ちました。
母は朝、新聞を配り終えるとハンディキャップのある姉と弟の送り迎え。昼間に山のような洗濯、食事の準備といった家事をすませると夜中は飲食店の皿洗いなどのアルバイト。
寝る間を惜しんで働く母のことが心配で、小さいころ新聞専売所の電信柱の陰からこっそり母を見ていました。
今から思えば、そんな時間があったら、家事とか手伝えばよかったな」
地元・葉山の中学を卒業後、神奈川県立三崎水産高校(現・県立海洋科学高校)に進学。
卒業後は海の仕事がしたいと思い、幼なじみの親が経営するダイビングショップに非常勤で雇ってもらった。
ある日、ダイビングショップの仕事で、定置網を潜って修理したことがきっかけで、初めて漁師の船に乗った。
「網を引き揚げると、魚だけでなくハンマーヘッドシャークやイルカ、カメなどいろんな海の生き物がかかっていて、改めて海の豊かさに驚きました。何回か漁を体験させてもらううちに『こんな仕事ができたら幸せだ』。『漁師になりたい』という思いが芽生えてきました」
思いの丈を社長に打ち明けたが、「ムリ」の一点張り。やはり女に漁師はムリなのかと一度は諦めた。
ところが、運命の出会いが再び訪れる。ダイビングショップを辞め、母校の水産高校で、マリンスポーツを教える非常勤の実習助手を務めるかたわら、晶さんは鎌倉の女性漁師・奥田ゆうこさんと知り合い、半年ほど仕事を手伝うことになる。
「3人の子どもを持つシングルマザーのゆうこさんは、どんなに大変でも常に笑顔で頑張っていた。そんな姿に惹かれ、私も彼女のような漁師になりたいと本気で考えるようになりました」
晶さんが懸命に手伝う姿を見て、「鎌倉で漁師をやらないか」と誘ってくれたゆうこさん。
しかし、「漁師をやるなら、生まれ育った葉山でやりたい」
との思いが晶さんの胸に込み上げ、真名瀬港へ。四郎さんのもとで修業の末に漁師として独立したのだ。
先天性脳性麻痺の姉が自殺
一人前の漁師となった後も、深夜2時3時まで葉山海岸通りにあるカフェで働き、朝は5時起きで漁に出た。過酷な生活を送るうち、晶さんはいつしか不眠症に悩まされるようになっていた。
「お酒や睡眠導入剤を飲んでも、明け方近くに少しまどろむくらいしか眠れない。身体は疲れていても『もっと頑張んなきゃ』『もっと働かなきゃ』といった思いが胸を締めつける。これまでやりたいことは、自分で勝手に決め、人の顔色なんてうかがったこともなかったのに。ものすごく気になりだして、そんな時期が1年くらい続きました」
夜遅くまでカフェで働くため、ほかの漁師に比べるとどうしても海に出る時間が遅くなってしまう。
そんな晶さんの生活態度を見て、漁師仲間から「あいつは遅ぇ」と陰で言われていることも知っていた。
当時の晶さんには、「もっと頑張んなきゃ!」と自分を追い込んでしまう根深い理由があった。
先天性脳性麻痺の姉の存在である。晶さんは躊躇いがちに、ポツリポツリと言葉をつないだ。
「実は、私が四郎さんに弟子入りをお願いした同じ日の夜……ひとつ上の姉が自殺してしまったんです」
その日の午前中、姉から携帯に着信があった。気になって姉のアパートの前まで行ったものの、前日ケンカ別れしたばかり。またケンカになるのが嫌で、引き返したという。その後も着信があるたびに晶さんはかけ直したが、姉は電話に出ない。
夜10時ごろ、バイト中の晶さんに母から電話が入り、慌てて病院に向かうが、帰らぬ人となっていた。
「雨が降っていたんです。寒いのに、病院に向かう道中バイクを走らせていたら、背中だけ急に温かくなって……、もしかして……って。
後日、姉のパソコンの履歴を調べると、『死に方』を検索した形跡が残っていました。もし、姉の家に行っていたら、もし、あの電話に出ていたら……。何か変わっていたのかな。姉は死ななかったんじゃないかな……」
そういった後悔の念が晶さんの中で、繰り返し甦る。
もともと姉は病気のために機敏に動くことができず、アルバイトをしても、人とうまく付き合えないことに苦しみ、家に閉じこもりがちだった。そんな姉を晶さんは度々、外に連れ出していた。
「姉は葉山でオーガニックコットンの畑をやって、自分の服を作りたいという夢を持っていました。そんな姉の夢を応援したくて、葉山で行われた環境のイベントに誘って、地元の人たちに紹介したりもしました。でも、今思えば、それも身勝手なひとりよがりだったのかと、考えてしまって……」
時折、うつ症状にも陥り、姉は「連れ回さないでほしい」と怒りを爆発させることがあった。それでも、根は優しい姉だったと晶さんは言う。
「姉は人付き合いや身体のことで悩んでいたから、あまり自分の悩み相談はしないようにしてきました。気を使いすぎてきたのかな……。でも、ある日ぽろっと悩みを相談してしまったことがあって。そのとき、姉はメールで『レッツ・ポジティブ・シンキングだよ!』とメッセージを送ってくれました。今でも、嫌なことがあると、この言葉を思い出してはつぶやいています。
姉は病気で満足にやりたいこともできなかった。でも、私は手も足も自由にできる。だから、もっと頑張んなきゃ、そう思ってしまうんです」
母の能里子さんが言う。
「家族みんなが一生背負っていかなければならないことです。特に晶にとっては、ひとつ上の姉。だから人一倍、あの子の分まで頑張ろうという思いがどこかにあるんだと思います」
一家を支えるママ漁師
2018年、晶さんは長男・花男くんを授かり、年上のバンドマンとの結婚を決めた。
「いつも漁師の仕事を手伝ってくれる女の子のライブを見に行って、紹介されたのが同じバンドでギターを弾いていた夫。14歳上と聞いて、最初はないなと思いました(苦笑)
でも、人間関係に悩んでいたころ、話を聞いてくれたうえで平等に判断してくれる。私が間違っていたら『晶が悪い』とはっきり言ってくれる。この人は私を裏切らないと思って、妊娠をきっかけに結婚に踏み切りました」
そんな晶さんのことを夫の寛之さんはどう見ていたのか。
「随分、男前でサバサバしてる娘だなぁと思いました。年下だけど年の差をあまり感じなかったですね」
東京・調布市に住み、清掃の仕事をしていた寛之さんは結婚後、仕事を辞めて葉山に引っ越してきた。ところが、なかなか新しい仕事が見つからなかったという。
「僕が漁師の仕事を手伝えば、倍稼げると思ってワカメ漁やヒジキ漁を手伝いましたが、夏場の素潜り漁は漁業権がないから何もできない。
そこで、自動販売機の設置・撤去を請け負う会社で働くことにしたんですが、仕事中に手の小指を潰すほどの怪我を負って働けなくなり、晶にはとても苦労をかけてしまいました」
出産直前の夫のアクシデント。生活面でも苦境に立たされた晶さんは、精神的に追い詰められ、沈み込んだ。
だが、花男くんの誕生でそんなモヤモヤした気分も吹き飛んだ。ただひとつ、今は叶わぬ姉への出産報告に思いを馳せることがあるとこぼす。
「花男が生まれて、気がついたら、霧が晴れるように前を向けていました。
でも、もし今、姉に花男を見せたら、喜んでくれるのかな……と考えることがあります。姉が自殺した当初は、どこかで幸せになっちゃいけないという気持ちがあったから」
漁師だから伝えられること
豊かな漁場を持つ葉山にはかつて三浦の清浄寺の下浜に市場もあったが、戦後まもなくして閉鎖。それ以来、葉山には魚市場がない。
「市場がないから、直接飲食店に卸すか、逗子や横須賀の市場に持っていくしかない。しかも葉山には魚屋もないから、葉山の住民は葉山の魚を買うこともできない。葉山でイセエビやアワビが獲れることを知らない人も多いんです。地元の人たちに地元で獲れた旬のものを味わってもらいたい。そんな思いで真名瀬の漁師を集めて、毎月第2土曜日に朝市をすることを思いつきました」
2013年12月、 朝市を始める際、漁師仲間の池田さんが警察署や保健所との交渉に当たってくれた。
「『何かあったら、私がやる』とタンカを切って晶が先頭に立って頑張っていた。気っ風がよくて度胸がいい。真名瀬の巴御前だな。晶は(笑)」
そのかいあって、真名瀬の朝市はたちまち大盛況。
朝市の実行委員を務めている葉山小学校教諭の吉田俊也さん(32)もその盛況ぶりに目を見張った。
「まず、葉山でこんなにたくさんの種類の魚が獲れることに驚いた。しかも、ただ売るだけでなく、晶ちゃんは魚の捌き方も丁寧に教えてくれる。冬にはナマコの調理法から、こだわりのお酢、ゆずをのせる美味しい食べ方まで実演して、試食させてもらいました。でも、何よりのごちそうは、朝市に携わる真名瀬の漁師さんやご家族との会話でした」
こうした人気ぶりから朝市を月2回にしようという声も上がったが、天候に左右される海の産物だけで朝市を続けるのは難しかった。そこで、晶さんは魚だけでなく、野菜やコーヒーなどいろんなものが楽しめるマルシェとして発展させた。
出産を終えた2019年6月、葉山マリーナのある鐙摺港に葉山町漁業協同組合直営の海産物直売場もオープン。その責任者に選ばれた。
さらに、晶さんは先を見据えて加工品の製造も始めた。
「7月からはタコやサザエのオイル漬け、ヒジキご飯の素、ワカメの味噌汁の具などを作って、ホームぺージで売っていきたい。葉山の海の幸をもっと知ってもらいたいんです。水産加工品が人気を呼べば、私たち漁師の生活も安定しますから」
晶さんには、葉山の海産物を使って新しいブランドを立ち上げたいという夢もある。
「御用邸の街として知られる葉山には、『葉山牛』以外に目玉になるブランド品がありません。そこで取り組んでいるのが、海で獲ってきたサザエに生け簀でキャベツを食べさせて出荷する『キャベツサザエ』の商品化。町とも協力して試食会なども行っています」
地球温暖化で餌となる海藻が減っているためにやせて味が落ち、1キロ500円という安価で取引されているサザエ。なんとかしたいという思いがある。
「キャベツを食べさせると、サザエのクセがなくなるんです。身もやわらかくなり、食べやすくなったという声もあって、今まで磯臭くて苦手だった女性や子どもたちには喜ばれるかもしれません」
師匠と姉の志「海を大切に…」
昨年、コロナウイルス感染拡大の影響で朝市は休業に追い込まれた。代わりに始めたのが、ビーチクリーンの活動だ。朝市の実行委員のメンバーが中心となって真名瀬海岸の清掃に取り組んでいる。
時折、海岸のゴミを拾い集めながら、亡くなって9年の月日がたつ姉と、高齢で引退した師匠の顔が浮かぶという。
「環境問題にいち早く目を向けた姉と、『海は大切。獲るだけじゃない』と言って小さな海の生き物を逃がし、海岸のプラスチックゴミを拾い集めていた四郎さんの姿をよく思い出します」
大切な2人の志を継いで奔走する晶さん。
子どもができ、母になったことで環境問題については、より一層深く考えるようになったという。
「自分で獲って食べるって生きるうえで大切なこと。それが子どもたちの世代でできなくなるのはかわいそう。これ以上、獲れなくなったら、子どもたちは将来何を食べるのかなって。弟子のころ、四郎さんが言っていたことが、今、すごく胸に響いています」
修業時代、漁を終えた2人が真名瀬の海岸で肩を並べて網を繕う。その姿は、葉山の海の風物詩だったと四郎さんの旧友・佐久間さんは言う。
「いいコンビだったよ。最初で最後の愛弟子をとったことで、いつか四郎さんが亡くなっても技術や考え方は晶ちゃんに伝承される。四郎さんも、うれしいんじゃないかな」
最近、晶さんのもとには、「海の仕事がしたい!」と目を輝かせる高校生の男の子が手伝いにくるようになった。
「獲ってきたヒジキを釜に入れてじっくり蒸していく。一緒にそんな作業をしながら、食材がどうやって人の口に入るのか話しています。でも、いちばん伝えたいのは、ヒジキもアワビもサザエもこんなに少なくなってしまっているんだよってこと。サステナブルとか、SDGsって言葉を使うのは、まだちょっと気恥ずかしいんですけど(笑)」
子どもたちのためにも、なんとか葉山の海を守りたい。
漁師になって8年。その思いが年を重ねるごとに晶さんの中で強くなってゆく。
「朝4時くらいにはそわそわしちゃって、毎年ワクワクが増えていく。漁に出るのが楽しみなんです。なんというか、ギャンブル要素がこの仕事の醍醐味。だからこそ、獲れなくなるのは困る。おばあちゃんになっても、漁師を続けていたいですね」
漁師は今、ただ魚介類を獲るだけでは生きていけない。朝市に始まり、直売所、ネット販売、新しい葉山ブランドの開発、そして海を守る活動─この仕事を次世代につなぐため、晶さんの挑戦は続く。
〈取材・文/島右近〉
しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツなど幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。神奈川県葉山町在住。