三浦春馬さん

 三浦春馬さんが亡くなって、まもなく1年となる。彼が突然いなくなったのは、昨年の7月18日だった。

「マネージャーが自宅まで春馬さんを迎えに行きましたが、電話やメール、インターホンにも応じませんでした。管理会社に連絡して鍵を開けて部屋に入ると、すでに意識のない状態。病院に搬送されて、死亡が確認されました。警察による検証の結果、自殺だったと判断されています」(スポーツ紙記者)

 新型コロナウイルスの感染が広がっていた時期で、大勢が集まる葬儀は見送られた。

「亡くなった2日後に、所属事務所のアミューズのサイトで“お別れできる機会を設けたいと考えている”と発表。昨年10月には“'21年7月を目安に実施予定”という告知がありましたが、結局、7月18日にオンライン上で追悼の特別コンテンツが公開されるだけになったそうです」(前出・スポーツ紙記者)

 やむをえないのかもしれないが、やりきれない気持ちのファンも多い。

「亡くなったことをまだ受け入れられない人もいますから。コロナ禍とはいえ、お別れ会ができないことで、思いをぶつけるところがないんですよ。お墓がどうなっているのかも気になります。同じアイテムを購入して身につけたいと思うファンもいるので、服や小物などの遺品も、何かの機会に公開してほしい」(ファンの女性)

春馬さんが通った地元の映画館

 春馬さんを偲ぶことができる場所が、茨城県土浦市にある。映画館の『土浦セントラルシネマズ』だ。館長の寺内龍地さんは、春馬さんが子どものころからよく知っていた。

彼が小さいころロビーを駆けずり回って、従業員に“コラ!”と怒られたりしていたんですよ。普通のやんちゃな男の子、という感じでした。2002年に公開された『森の学校』という映画に彼が出たときの舞台挨拶をここでやったんです。2009年の『クローズZERO2』の撮影のときにも挨拶に来てくれました。成長してかなり変わっていたので、“誰!?”って思いましたが(笑)。“ずいぶん大きくなったなあ。モテるだろ”と声をかけたら、“いやいやそんなことないです”なんて返してくれました」

 同じ建物内にあるスポーツスタジオを貸してほしい、と頼まれたこともあった。

“空き時間を利用してドラマの役づくりがしたいんだ”と言っていました。ご家族の方は1回も来たことないですね。『森の学校』で舞台挨拶をやったとき、まだ12歳だったから、普通は母親も来そうなものなのに挨拶すらなかった。だから顔も知りません。それを反面教師にして、彼は他人を慈しむことができる人に育ったんだと思います」

土浦セントラルシネマズで桜の木を模して飾られている、出演した映画の監督やファンからのメッセージ

 この映画館では、現在も春馬さんが出演している作品を上映している。

「彼のことが風化するのもかわいそうだし、地元としてできることはないか、と考えました。彼が亡くなったときに『森の学校』の監督に連絡して、改めて上映できないか相談したら、もともとフィルムだった映像をデジタルにしてくださいました。1月からずっと上映しています。それ以外の彼の出演作品も、期間ごとに入れ替えながら上映しています。大きな映画館ではこういうことはできないから、地元の個人館としては、彼の足跡を残す意味で、ずっと続けていけたらと思っています」

 ロビーでは写真展も。『森の学校』や『天外者』の劇中写真やオフショットが展示されている。

ロビーに桜の木があったでしょ。映画を見終わった方に、春馬さんへのメッセージをピンクの紙に書いて貼りつけてもらっているんです。コロナ禍でここに来られない方もいるので、郵送でも受け付けるようにしました。日本全国からはもちろん、ニュージーランド、カナダ、ニューヨーク、ハワイ、中国からもメッセージが届いています」

 命日にイベントを行う予定はなく、通常営業だという。

「“彼に会いたくなったら、いつでもどうぞ”という気持ちです」

 春馬さんが土浦セントラルシネマズを訪れていたのは、『つくばアクターズスタジオ』が近かったから。彼が5歳から通っていた芸能スクールだ。当時、代表を務めていた加藤麻由美さんは、まだ自分の気持ちにけじめをつけられない。

ひとりっ子でお母さんもお仕事をされていたので、“帰りたくない!”という春馬を私のベッドに寝かせていたこともありました。小さいころは本当にお母さんのことが大好きでした。会話していて“それ、お母さんにも言われたことある!”と、私にお母さんを重ねているようなところもありました。あの子の人間性はわかっているので、そんな優しい子がなんで、と思うと、何を責めたらいいかわからないですよね……」

 ひとりっ子の春馬さんをアクターズスタジオに連れて行ったのは母親だった。“友達ができれば”という考えだったが、学校が終わるとほぼ毎日、歌やダンス、演技のレッスン。俳優になりたい、という気持ちが強くなっていった。

お母さんは“ステージママ”というタイプではなかったので、ある意味でスタジオとしてはやりやすい面がありました。よくも悪くも“ドライ”な方なんでしょうが、レッスンや出演する作品などについては、信頼してお任せしていただいていたんだと思います」

 春馬さんが7歳のとき、地元で“三浦春馬を大きく育てる会”がつくられる。

「県議の方、市長さん、商工会の会長さんなど、地元の名士の方に実行委員になっていただきました。1000人以上集めて春馬の映画を公開し、実行委員のみなさんに舞台挨拶をしてもらったこともあります。地元のお祭りで市長さんに、春馬と手をつないで歩いてもらったことも。それだけ私も、春馬のことは目をかけていたというか……」

“あの日”にアミューズから連絡が

'07年に携帯小説が映画化され社会現象にもなった『恋空』の舞台挨拶に登壇した春馬さん(左)と新垣結衣(右)

 春馬さんは2007年の映画『恋空』で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞。報告のため、加藤さんの自宅を訪れた。

「キッチンのカウンターに寄りかかりながら“アカデミー賞もらったよ!”と話してくれました。普段はあまり連絡をとっていませんでしたが、報告があると連絡をくれたんです。ただ、“受賞を報告してもらえるような立場でありながら、不幸を止められなかった”という思いがあるんです。“あの日”はテレビの速報をたまたま目にして、彼が亡くなったことを知って、半狂乱でした。しばらくしてアミューズの方から連絡をいただいて、“守れなくて、すみませんでした”と……。それが、近しい大人の素直な感情なんだと思います」

 一周忌を迎えても、加藤さんは何かをする気持ちにはなれないでいる。

本当に罪なヤツですよ。会ったらぶん殴ってやりたい。なんでこんなに悲しい思いをみんなにさせるのか、どういうことかわかってるのか、と……。スタジオで主に彼を指導していた当時の常務は先に亡くなっていますが、向こうで怒っていると思います。もともと常務は役者をしていた人でもあるので、春馬からすると“師”ともいえるでしょう。あえて時代劇に出演させて、きちんとした演技の基礎や現場の常識から学ばせましたが、ちゃんとあの子は応えてくれました。だから私の半生はなんだったんだろう……って、本当に春馬は馬鹿野郎ですよ」

 加藤さんは今年、『森の学校』が再上映されたとき、舞台挨拶に登場した。

「悪天候の中、全国からファンの方に集まっていただいたんです。舞台挨拶が終わって、みなさんに声をかけていただいて、ひとりひとりとお話ししました。ファンは春馬のお母さん世代くらいの、年配の女性が多いんです。昔からのファンではなく、“亡くなってからファンになりました”という方も大勢いて驚きました」

 春馬さんにとって加藤さんが母親代わりだったとするなら、父のような存在だったのが卯都木睦さんだろう。茨城県のオリジナルヒーロー『時空戦士イバライガー』を運営する『茨城元気計画』代表を務めており、春馬さんにとってはサーフィン仲間だった。

「今でも世界中のファンから手紙が届いています。今、私は春馬ファンのことを優先して日々を考えているので、僕自身が落ち着くのはだいぶ先になると思います。僕は“ヒーロー”でもあるので、目の前のことから逃げるわけにはいかない。泣きながら電話をかけてきたファンの対応を何時間もするような生活を1年続けてきました。だから“あれ、春馬っていなくなっちゃったのかな?”と、思い出す余裕すらないんです」

“父親”から熱心な指導を受けていたサーフィンは、春馬さんの趣味のひとつだったそう

 春馬さんの死後、彼の出演する作品を見ていないという。

「まだ春馬のことをゆっくり考えている暇がないんです。今いちばん困っている、悩んでいるのは、突然の訃報に苦しむファンたち。彼らに手を差し伸べ、救うことを優先したい。もし天国から春馬が見ていたら“いっぱい迷惑かけちゃってごめんね”なんて言うと思いますが、全然気にならない。“俺メンタル強いから大丈夫だよ、気にすんな”って言ってあげたいですね」

春馬さんから「家族だよね?」

 春馬さんは、卯都木さん宅では自分の家のようにくつろいでいた。

海から帰ったら、ソファに寝そべって携帯をいじったりしていました。妻の誕生日には“ママさーん! 誕生日おめでとう!”と玄関から叫んだことも。春馬から“家族だよね? お父さんじゃん!”と言われたんです。“卯都木さんは僕にとって特別な人だから”って言ってくれたこともありました。“何、照れくさいこと言ってるんだよ”って笑ってごまかしましたけど(笑)。そういうふうに慕ってくれた春馬の、そんな彼のファンをないがしろにするわけにはいかないんですよね」

 卯都木さんが春馬さんとの関係をより深めていったのは、2016年ごろから。

「その当時は、春馬と家族との関係がなくなっていたので、知恵袋であり親代わりとしてついていてあげよう、と思って。春馬がいつ海に来てもいいように、サーフィンに適した午前中には予定を入れないようにしたんです。そうすると電話があって、“あさって空いてる?”とか言われて。亡くなる前の年の秋までは、週2くらいで来ていましたね」

 春馬さんがサーフィンをしていた海岸には、今もファンが訪れている。

「寂しげに海を見つめている女性がいるんです。浜には花が手向けられていることも多いですね。曜日を決めて海岸の清掃を行っているファンもいます。ときどき春馬のファンから僕が写真やサインを求められることもあります。春馬にゆかりのある人と関われることがうれしいみたいで」

 春馬さんの死を止められなかったことに、悔しい思いは残る。だからこそ、春馬さんの面影を、いつまでも忘れずにいたい。