赤い髪が印象的なココさんはパリコレにも参加したことがあるハイブランドのデザイナーとして長年活躍。第二の人生を求めて飛び込んだ福祉業界で「がっちゃん」と出会った。そして重度の自閉症である青年との距離を少しずつ縮めていく。やがてGAKUは、言葉で伝えられない気持ちを「絵」で表現するアーティストに成長した。「がっちゃんにとって、私は先生? お手伝いさん?」そんなココさんの問いにGAKUは──。

同じポーズをとる古田ココさんとGAKU(撮影/渡邉智裕)

 川崎市の高津駅から徒歩1分、雑居ビルの殺風景な階段を3階まで上りドアを開けると、別世界のようにカラフルな色に囲まれたアトリエがあった。アーティストとして活動するGAKU(20)は、ここで1年におよそ240作品を生み出している。

凸凹二人三脚で世界へ

 鮮やかな黄色の壁、天井にはシャンデリア。窓枠と色をそろえた赤い椅子。棚にはキャンバスや絵の具がぎっしりと並べられ、反対側の窓際にはノートパソコンが置かれたデスクがふたつ。

 奥の席はGAKU、手前はアートディレクターの古田ココさんの定位置だ。机の前には、ムラなく一色に塗られたキャンバスが2枚置いてある。

「どうも、ココです。GAKUは今日、少し遅れて来るから、先に話しましょう」

 ふわふわの赤い髪に大きな瞳、迷いなく歯切れのいい言葉。小さな身体から発する存在感が大きい。

 毎週月曜日から金曜日の朝10時から夕方5時まで、GAKUはココさんと一緒にこのアトリエで過ごし、絵を描く。ずっと描いているわけではなく、お気に入りの乳幼児用DVD『ベイビー・アインシュタイン』を繰り返し見たり、突然部屋を飛び出して4階に駆け上がって窓から道を見下ろし、ビルの前の通りを行き交う車をじっと見つめたりして過ごすことも多い。

 この日、GAKUがやってきたのは11時だった。階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、イケメンの青年が風のように現れた。金髪でサラサラ揺れる前髪の間にチラリと見える目が色っぽい。すらりと背が高く、おしゃれなジーンズをモデルのようにはきこなしている。

「おはよう、がっちゃん!」とココさんが声をかけるが、GAKUはチラリとココさんを見ると、その横を素通りして自分のデスクにまっしぐら。家から持参したDVDを無言でバリバリとシュレッダーにかけ、そのゴミを持ってすぐに部屋を出て行った。

 ゴミがゴミ箱にあることが嫌いで、すぐにゴミ箱を持って捨てに行くという。目的をすませるとすぐに戻ってきて、青い作業着に素早く着替え、絵を描きはじめた。動きが早く、人の倍速で時間が流れているようにも見える。

「アトリエで2人で過ごすようになって1年半くらい。最近、『がっちゃんの仕事は?』って本人に聞くと、『ペイント!』って答えます。個展をいくつも経験して絵も売れて、自分は画家だという自信が出てきたんじゃないかな」

 GAKUは知的障がいを伴う重度の自閉症と診断されている。ADHD(多動症)でもある。アメリカで9年間療育を受けたため、会話は5歳児程度の英語と、3歳児程度の日本語を織り交ぜて使う。

「私は絵の先生ではないんです。『ココさ〜ん、ふく!』と言われれば、こぼれた絵の具を拭き取り、『ブラシあら〜う!』と言われて筆を洗う。ものが落ちれば『ひろう! ひろう! ワン、ツー、スリー!』って言われながら、せっせと拾います。まぁ、アシスタントかな。がっちゃんは王様気質なの」

夢中で絵を描くGAKU(撮影/渡邉智裕)

 撮影が入ったこの日、カメラを向けられながら創作活動をしていたGAKUは、キャンバスからこぼれ落ちた絵の具を自分で拭いた。

「がっちゃん、自分で拭いてるの? うふふ。いつもは絶対私に頼むのに、お客さんが来てると頑張っていいところ見せちゃうんですよね。これもまたかわいいんだな」

 お昼が近づくと、がっちゃんの「ランチ!」のひと声でランチタイムに。

「最近は、ビルの1階にあるコンビニにがっちゃんと一緒に買いに行きます。がっちゃんは必ず納豆巻きを3、4本とポケチキのホット(辛味)と柿ピー。柿ピーのピーナツは取り分けて、自分は食べずに私にくれるの。私も食べきれないから、ストックしてます。最高でしょ?」

 GAKUが初めて個展を開いたのは2019年5月、世田谷美術館の区民ギャラリーだった。約50点の作品で壁を埋め尽くすと、「作品からあふれる力強いパワーとハッピーなオーラで空間が満たされた」とココさんは振り返る。GAKUを応援する身近な人たちはもちろん、GAKUを知らずに訪れた人たちもその作品に魅了され、無名だった彼の作品が10点売れた。

 開催前は作品が売れるとは思っていなかった。ハワイ在住の祖父母が来るというので、「記念に買ってくれるといいね」と冗談のように言って笑っていた。

 終わってみれば150万円の売り上げとなった。

 以来、年に200点以上のペースで作品を生み出し続け、毎年個展を行っている。昨年はニューヨークのギャラリーでも個展を開催。作品の値段は上がり続けている。有名なバッグのブランドとのコラボレーション企画も進行中だ。ココさんは、いわばその立役者でもある。

ココさんとGAKUの出会い

「20代のころからファッションデザイナーとして服を作ってきました。でも、人生の最後の仕事は障がいに関わることをしたいと決めていたんです。そこには、自分の生い立ちも関係しています」

 ココさんがGAKUと出会ったのは2017年のことだ。GAKUの父である佐藤典雅さん(50)は現在、発達障がいの子どもたちをサポートする株式会社アイムの代表を務めている。その会社が運営する放課後等デイサービスのスタッフ面接に、ココさんが応募したことがすべてのはじまりだった。放課後等デイサービスとは、発達障がいの子どもたちが放課後を過ごすための学童保育のような場所だ。

「私、子どもたちに絵を教えようとかファッションの仕事を生かそうとは考えていなかったんです。弟が難病だったことや、親戚に自閉症のいとこがいたこともあって、私が障がい者として生まれてもおかしくなかったなと思っていて。なんだろう、自分のルーツを知りたいと思ったのかな」

「がっちゃんにとって、混ざる=汚れる。だから、絵の具そのままの色で描くんです」とココさん(撮影/渡邉智裕)

 長年ファッションの世界で生きてきたが、60歳を前に「ファッションはやり切った」という感覚になった。全く違う仕事をしてみたかったという。

 放課後等デイサービスのパートの面接を受けるたび、毎回こんな会話が繰り返された。

「髪を黒くして、マニキュアはやめて爪を切って、ピアスははずしてください」

「どうしてですか?」

「保護者や学校関係者と会う仕事なので、相手に対して失礼ですから」

 ココさんは衝撃を受けた。パリコレに参加するハイブランドでの経験もある。ブランドをいくつも立ち上げた。ファッションはココさんの人生を投じた世界だ。それなのに、長年生きてきた自分のスタイルは「失礼だ」と、うさぎのエプロンをして髪を無造作にゴムでまとめている人に言われ続ける。「この業界では働けないかな」と諦めかけていたとき、最後に『株式会社アイム』の面接を受けた。

「もうね、最初に自分から聞いたんですよ。私、髪も染めないし爪も切らないし、ピアスもはずしませんけど、大丈夫ですかって」

 黒い服、赤い髪のココさんの前には、社長であるGAKUの父、典雅さんが座っていた。同じく全身黒い服でツーブロック、服装も髪型も話し方も、これまで会ってきた福祉関係者とは全く違う。

「え、逆になんで? 全然いいじゃん」

 その場で採用が決まった。1か月半後、社長の息子「がっちゃん」と出会い、ココさんの第二の人生は幕を開けた。

「自閉症は治る」と思っていた

 GAKUの本名は佐藤楽音。2001年5月1日に横浜市で生まれた。出産も大変だった。母の祥江さんは当時をこう振り返る。

「妊娠中は切迫早産で2回入院しました。生まれたときは、へその緒が首に巻きついていたんです。分娩中に心音が消えて陣痛も急になくなった。お医者さんは何も言いませんでしたが、私はとにかく赤ちゃんに酸素を送らなきゃと思って、一生懸命深呼吸をしました。そうしたら心音が戻ってきて……。母子手帳には胎児切迫仮死と書いてありました」

 3175グラムと身体は大きかったが、聞こえてきたのは、「ふにゃあ」という微かな産声だった。

黄色いキャンバスに黒のひよこを描いた作品はGAKUのおすすめ。父の典雅さんと(撮影/渡邉智裕)

 愛称は「がっちゃん」。名づけたときは、「ガチャガチャした騒がしい子になるかな」と冗談で笑っていたが、名前のイメージ以上に大変だった。

 産後は順調に育ったが、おっぱいでは足りずミルクを大量に飲む。飲み切ると癇癪を起こして大声で泣き続ける。規定の量の粉ミルクを多めのお湯で溶き、お腹を満たした。抱っこで揺らし、ベビーカーで動き続けなければギャン泣き。車に乗っているときも赤信号で止まっただけですぐに泣き始める。

ハイハイもせずに6か月目で立ち上がり、1歳になると走り回るようになりました。1回の散歩では毎回2時間歩き続けるので主人が引き受けてくれました。とにかく目が離せない。身体の発達は早いのに、言葉はあまり出てこない。気に入らない食べ物が出るとスプーンを床に投げつける。でも男の子だし、こんなものかなと思っていたんです

2歳のGAKU。散歩に出るとなかなか帰ろうとせず、早足で約2時間ひたすら歩き続けた

 自閉症の診断を医師から受けたのは3歳のときだった。

「2歳の終わりごろから、同じ時期に生まれたお子さんはペラペラお話しするし大人の言うことも理解しているように見えました。でも、がっちゃんは言葉が遅いだけじゃなくてわかっていない。インターネットで心当たりのあることを調べたら、自閉症という言葉が出てきて、血の気が引きました」

 はっきりとした診断を受ける前後、夫婦で自閉症について必死に調べた。アメリカで保険適用となっているABA(応用行動分析)という療法がよいらしいと知った。夫婦ともにアメリカの教育を受けて育ったため、出産前から「子どもが生まれたら小学校に入る前にアメリカで生活しよう」と話していたことも後押しした。

「一刻も早くアメリカに行こう」

 父の典雅さんは日本での仕事を辞め、アメリカでの仕事を探し始めた。

「自閉症と言われても、最初はよくわからなかった。自分で閉じこもるという字を書くのだから引きこもりになるの? 病気なの? それくらいの知識しかありませんでした。当時は、日本で診断後のことを聞いても、月に1度診察を受けて様子を見るだけと言われて、ダメだと思った。アメリカに行けば、治る病気だと思っていたんです」

13歳のころ、ロサンゼルスにて。左から父の典雅さん、GAKU、妹、母の祥江さん

「楽しければそれでいい」

 4歳のとき、家族でロサンゼルスに引っ越した。アメリカでは療育は無料だ。障がい児のプログラムはスペシャルエデュケーション(特別教育)と呼ばれ、その子に合った学習プログラムが組まれる。

 義務教育の幼稚園で支援学級に入ると、マンツーマンでセラピストがつき、言語聴覚士や作業療法士など専門の先生が細やかに見てくれる。アフタースクールも週に4回、2時間ずつ家にセラピストが来て、週1回は放課後等デイサービスのような場に通った。

「サポートは手厚かった。でも、2年くらいでわかったんです。突然走り出す、トイレの水を何度も流す、天井にピザを投げる、時には部屋の真ん中にうんちをしてしまう。

 そんな困ったこだわり行動は訓練しても治らない。がっちゃんが嫌なことは絶対やらないし、やりたいことは誰も止められない。一定の周期でピタッとおさまって、また違うこだわり行動に移る」

 自閉症は変化を嫌うため、セラピストはスケジュールどおりに行動させて、ご褒美シールをあげるなど、アメとムチで指示を守らせていた。典雅さんには「特定の行動パターンに押し込んでいるように見え、がっちゃんにとっては屈辱的だと思った」と言う。

 しかし、1つ救いだったこともある。アメリカのセラピストは、訓練をしていても、本人が集中していなければ、中断して一緒に遊んでくれた。泣き叫んでいるのに無理にやらせてもいいことはない。

「がっちゃんは療育を受けてもずっとがっちゃんなんですよ。アメリカで最先端といわれる訓練プログラムを受けても自閉症の特性は治らない。だから、がっちゃんが楽しければそれでいいじゃないかって思えるようになった。ようやく自閉症を受け入れた。それからは僕自身もリラックスできるようになりました」

 祥江さんにとっては、アメリカでの手厚いサポートや、そんな典雅さんの態度が支えになっていた。

「セラピストが家に来てくれると、困っていることを相談できる。本当に安心でした。がっちゃんも、一緒に遊んでくれるセラピストのお姉さんが大好き。それに、主人ががっちゃんにおおらかだったから、とても救われたんです」

 一瞬でも目を離せばいなくなる。2人きりで散歩に行くことはできなかった。買い物に出かけてもベビーカーからは絶対に降ろさない。レジで止まるだけで大泣きだった。

「主人は仕事が休みの日にがっちゃんをあちこち連れて行ってくれましたし、家を汚してもおおらかに対応してくれて、いつの間にか笑い話にしてくれる。友人たちとのバーベキューにも連れ出して、がっちゃんの困ったエピソードも笑い話のように話してくれる。私みたいに心配性だったり、ちゃんとしつけろって怒る人だったら、2人してがっちゃんにつらく当たったかもしれない。私とがっちゃんで心中していたかもしれません」

「がっちゃんを通わせたくない」

 がっちゃんが14歳のころ、家族で日本に帰国した。神奈川県川崎市の公立中学校の特別支援学級に通うことになった。夫婦でいくつかの放課後等デイサービスに見学に行って驚いたという。

「あまりにもアメリカの学校と印象が違う。暗い」

 アメリカの教室はデザインも洗練されていて、開放的な空間に子どもたちが楽しそうに通っていた。しかし、帰国して見学に行った放課後等デイサービスは、ゴムマットが敷かれたフロアに折り畳みのテーブルがポツンと置いてあるだけ。部屋は飾りもなく寂しい。スタッフも元気がない。空気も澱んでいるように感じた。

「こんなところにがっちゃんを通わせたくない。療育は学校だけで十分。放課後くらいはがっちゃんが楽しめる場所、自閉症の子どもたちが楽しく過ごせる場所がないと」

 そう思った典雅さんは、日本で転職活動中だったが、「探し回るよりつくったほうが早い」とすぐに思った。

 典雅さんは、グラフィックデザイナーから始まり、ヤフー・ジャパンのマーケティング、東京ガールズコレクションのプロデュースなどさまざまな仕事を手がけてきた。

「アメリカで教育の大半を受けたので英語は使いこなせるけど、日本では、高卒だということで転職がままならない時期もありました。突然仕事を失ったことも、収入が途絶えた時期もある。しかし、どんな状況に追い込まれても立ち上がってきた。怖いものはありませんでした」

 最初の利用者はがっちゃんを含め3人。スタッフは典雅さんや共同経営者、妻の祥江さんも含め7人。立ち上げのころからのがっちゃんを知っている三枝倫代さん(56)もそこにいた。

「出会ったとき、がっちゃんは14歳。150センチくらいだったかな。とにかくパワフルで頭の回転が速いので、次々にいろんなことを思考して、行動に移していくんです。絵を描くこともあったけど、ほんの数分チャチャッと描いたらすぐ次のこと。しかも大人から見ると困ったいたずらばかり。掃除機を教室の前の川に投げ入れたこともあった。吸引力が落ちていたので捨てたかったんでしょうね(笑)。さすがにスタッフが慌てて回収しました」

 ここでのルールは何もない。やりたいことをやらせてあげてほしい。「すべての個性をハッピーに」。それが『アイム』の運営方針だった。

「その子がやっていることを制止せず、フォローする。そのほうが子どもたちが伸びることを私も子どもたちに教わりました。子どもたちも『アイムに来ると楽しい』と言ってくれます」(三枝さん)

 がっちゃんや通っている子どもたちの成長に合わせて、アイムの事業は高校やグループホーム、生活介護や就労支援などに広がった。

放課後等デイサービス『アインシュタイン』で、一緒に過ごした仲間たちと高校の卒業祝い。中央左がGAKU、右隣はノーベル高等学院の同級生

 ココさんががっちゃんと関わりはじめたのは、今から4年半前。中学校を卒業したがっちゃんのために、アイムが立ち上げたノーベル高等学院(現在休校中)でのことだ。以来、ココさんは午前中はノーベル高等学院のスタッフとして、午後は放課後等デイサービスに移動して「がっちゃん」担当として、ほぼ一日中ともに過ごすようになる。

「がっちゃんはアイムでいちばん大変だとみんなが言っていました。でも、最初見たときに、この子おもしろいなって直感的に思ったの。キラキラして只者じゃない感じ。『ココさん』って名前もすぐに覚えてくれた。でも、初めのころはお試し行動があって、どこまで自分を受け入れてくれるか、いろんなことをやって私がどこまで信頼できる人間かを確認するんです」

 突然外に走って出て行ってしまったときは、慌てずにココさんが建物の入り口でがっちゃんが帰ってくるのを待っている。そうすると、うれしそうに戻ってくる。しばらくして納得するとまた次のお試し行動が始まる。そんなやりとりを何度も繰り返し、関係性をつくっていったという。

「がっちゃんは頭がよくて、こちらが話すことは大体わかってくれる。でも、自分の思いを伝えられない。だからときどき爆発しちゃうんだろうなって。何か彼の思いを表現する方法が見つかるといいなとずっと思ってました」

「生まれてこなければ……」

 ココさんは5歳のころに母親から言われた言葉を忘れられないでいる。

「あなたが生まれてこなければ、こんなに不幸な子(弟)は生まれてこなかった」

 ココさんには3つ上の姉と3つ下の弟がいた。弟は生まれつきの難病で、入退院を繰り返していた。子どもは男女1人ずつが理想で、2人目が男の子なら3人目は産まなかったという意味だったとココさんは理解している。

「母を恨んではいないけど、父の告別式に参列して以来、母やきょうだい、親戚とは一切の交流を絶っています」話すココさん(撮影/渡邉智裕)

「最初は意味がわからなかったけど、自分のせいで母がひどく悲しみ、自分を快く思っていないことはわかった。だから、私は悪い子なんだと途方に暮れていました。母はことあるごとに弟が可哀想だと泣いていた。私から見れば弟はそれなりに幸せに暮らしていたのに、どうして目の前で本人に向かって可哀想って言うんだろう、そんなことを言う母親は歪んでるって子どもながらに思ってた」

 父親がいるときは偽の家族団欒が繰り広げられた。銀座で画廊をしていた父は家を空けることも多かった。母親と2人きりになると肉体的な虐待もあった。言葉による心理的な虐待に加え、洋服で見えないところにあざができるほどに叩かれ、倒れると蹴られた。母の気持ちを察した姉に、風呂場で浴槽に沈められたこともある。

「私、姉よりも何事も要領よくできたんです。勉強もできたし、絵も好きだった。広い家だったのでなるべく母や姉と顔を合わさないように、父の書斎の机の下や、螺旋階段の下の小さなスペースで過ごしていました」

 螺旋階段の上のステンドグラスから差し込む光でホコリがチラチラと光る様子をじっと見つめているのが好きだった。どこで知ったかは忘れてしまったが、死のうと思って布団をかぶり、鉛筆を削るナイフで手首を切ったのも5歳のときだ。怖くて悲しくて、ほんの少し傷をつけることしかできなかった。

「小中学校の友達とも話が合わないし、することがないから本を読んだり勉強したりしてました。私にとって楽しかったのは、お絵描き教室とファッションだけだった」

 家に仕立て屋さんが来て、生地を選び、母や姉と3人おそろいの服を作る。

「お仕立て屋さんがそこにいるから、そのときは自分の意思を出せる。この柄がいいって言えたんです」

 高校生のころは画家を目指したが、父に「絵の才能はない」と言われ断念。デザインの専門学校に進んでファッションデザイナーになった。

 20代後半、バブルの時代の3年間、ファッションの現場でチーフデザイナーとパタンナーとして、ともに駆け抜けた仲間が天野泉さんだ。仕事が別々になっても、互いに飾ることなく話すことができる長年の友人だ。

「ココさんは人の力を見抜く力があると思います。ココさんと組んでいたパタンナーは当時3人いてみんな個性的でしたが、得意なことややりたいこと、仕事のこだわりを見抜いて的確に仕事を依頼してくれました。それに、話すのも上手だけど、それ以上に聞き上手。サバサバしているようで優しいから、とても話しやすい。人間的にも総合力の高い人ですね。私にとっては、ともに戦った同志です」

 隣で聞いていたココさんのファッション魂に火がつく。

私ね、あのころの服も捨てられないものをたくさんとってあるんだけど、がっちゃんに着せると似合うんだ。私の服が私より似合うのよ(笑)。がっちゃんの宣材写真を撮影したときも、家にある服を持っていってスタイリングしたの。がっちゃんも、今まで無頓着だったのに今では取材が入る日は自分で洋服を選ぶようになったんです。

 ファッションで自分を表現する素晴らしさを知ってくれたんだと思います。大好きだったファッションや絵が今の仕事でパズルのようにつながって、すごく楽しいし幸せ。人生で無駄なことは何もなかった。人間、長くやってみるもんだよね」

 楽しそうに話すココさんを見て、泉さんが口を開く。

「第二の人生、さらに輝く場所を見つけてる。がっちゃんもがっちゃんの描く絵も、ココさんも、アトリエや個展で会うたびにどんどん進化してる。20代とは違う充実感が全身からあふれてて、同世代の女性としてうらやましい」

岡本太郎の絵で立ち止まった

 ココさんががっちゃんと出会って半年ほどたったころ、がっちゃんが突然、ピタッと足を止めて動かなくなったことがある。

 1分たりともじっとできないがっちゃんが、遠足で出かけた岡本太郎美術館の1枚の絵の前で吸い込まれるようにじっと絵を見て身動きもしなくなった。時間にして5、6分、がっちゃんにとってはとてつもなく長い時間。

 岡本太郎の代表作『傷ましき腕』だった。

 ほかの作品を見るのはほんの数秒。パッと見てハイ次、パッと見てハイ次。

 それなのに、「がっちゃんなんで止まってるの?」とみんな首を傾げた。スタッフは理由もわからず、「がっちゃんが止まることなんてあるんだね」と笑っていた。じっとしていることは奇跡に近い。

 翌日、がっちゃんが突然ココさんに言った。

「GAKU、絵描く〜!」

 それまで、ココさんは鉛筆や筆やスケッチブックを渡したり、絵の具を買いに行ってみたりとあれこれ試していたが、自分から「絵を描く」と言ったことはなかった。ささっと描いて数分で終わり。チューブをぷにぷにと手で触って終わり。初めて自分から絵を描くと言ったのだ。

 慌ててトレーシングペーパーを渡すと、「太陽〜、太陽〜」と言って大きな丸をいろんな色で描き上げた。そしてその周りを黒く塗りつぶした。2018年5月、奇跡の1枚。

 アーティストGAKUがそのとき誕生した。

「岡本太郎と太陽の関係は誰も話していないのに、きっと何かを感じていたんだと思います。それから毎日、絵を描き続けるようになりました。それまでは自分の好きなキャラクターをまねして描いたり、ほめられたいから描いているようなところがあった。でも、それ以降は、湧き上がる気持ちを表現しているように見えました。がっちゃん、自分を表現する方法を手に入れたんだ、と思って圧倒されました」

 ココさんは、典雅さんに提案した。

「がっちゃんに投資してください。絵の才能があると思います。キャンバスに絵を描かせたい」

GAKUの父・典雅さんも、思いついたことは即実行。「二人はそっくり」とココさんもスタッフも声をそろえる

 典雅さんは決心した。自身も子どものころ絵が好きだった。それに、ココさんの絵を見る力を信用していた。最初の1年で、がっちゃんのために60万円かけて画材を買った。

 キャンバスの一面に赤や青、黄色など絵の具の色をそのまま塗るところから始まるが、そこに描かれるGAKUの絵はどんどん移り変わっていく。マルばかり描くときもあった。数字が絵のように描かれることもあった。点、線やアルファベット。そのうちに動物も描くようになった。

 ある日、ココさんが典雅さんにがっちゃんの様子を話しているときだった。

「がっちゃん、絵を描いてると顔つきも変わるんだよね」

 ふと、典雅さんがこんなことを言った。

「ココさん、がっちゃんのサリバン先生になってよ」

 会話の途中でサラリと出た言葉だったが、ココさんはその言葉を忘れられない。

東急ハンズに初めて連れて行ったとき、ひざをついて座り、1つずつ吟味して10色を選んだ

 サリバン先生とは、ヘレン・ケラー(視覚・聴覚に障がいがあり話せなかった)にいろいろな体験や指文字を通して言葉を教えた家庭教師だ。

「そのときは気軽には〜いって返事したけど、サリバン先生になるなんて、私には無理。ただ、がっちゃんが絵を描き始めてからどんどんコミュニケーションが取れるようになってきて。がっちゃんは英語と日本語とガクト語を使うんだけど、ガクト語はみんなにわからないから、それをたくさんの人に伝えられる絵にしようよっていう気持ちで一緒にアトリエにいます」

 キャンバスに塗る色も、絵の題材も、いつもGAKUが自分で決めて迷いなく描く。個展をすると言い出したのもGAKUだ。

「GAKUの絵、美術館持ってく〜!」

「個展したいの? 本当に?」

 美術館によく絵を見に行っていたので、美術館は絵を飾るところだということをGAKUも知っていた。

 最初のうちは「うん、今度ね」「はいはい、わかった」と返していたが、あまりに何度も言うので典雅さんに相談すると、「そんなに言うならちょっと調べてみるか」と即決。

 世田谷美術館の区民ギャラリーで偶然空きがあり、GAKUが言い出して2か月後、18歳の誕生日に初のレセプションが開催された。

「私は私なりに絵を見る目があると思うし、彼を自閉症アーティストではなく、ひとりのアーティストとして見てきたので、個展で絵を売るなら、寄付ではなく、絵が本当に欲しい人にしか売らないということを典雅さんと決めました」

 作品を簡単には手放したくないという思いもあり、通常の新人アーティストとしては高値となる1点数十万の値をつけた。終わると作品が10点以上売れた。

 翌年には、「NY! ミュージアム!」と言い始めた。それはさすがに無理だろうとみんな思っていたが、佐藤ファミリーとココさんで下見を兼ねて旅行に行くと、ちょうどいいギャラリーが見つかり、コロナの感染が拡大する直前に実現した。

2020年、クラウドファンディングでNYでの個展が実現

 今、父親である典雅さんは、仕事で培ってきたプロデュース能力のすべてをGAKUに惜しみなく注いでいる。

「子どものころから急に全力で走り出すがっちゃんをただ追いかけることだけしかできなかった。放課後がっちゃんが楽しく過ごす場所がなければつくるし、絵を描きたいって言えばその環境を整える。がっちゃんの可能性をいかに奪わずに守るか。障がいのある子もない子も、次の世代の可能性を大人の都合で奪わない。そこは人生を懸けて戦わなければならない。たぶんね、それが俺に与えられたミッションなの」

 アトリエ近隣のコンビニやコーヒーショップの人たちは、突然店内に走ってきて手を洗い、出ていくがっちゃんに声をかけ、見守ってくれるようになった。がっちゃんも手を洗うときはクッキーを1枚買えるようになった。

「自閉症や障がいについての理解をコツコツと広めるよりも、GAKUのことを日本中、世界中の人が知ってくれたほうが早いんだよね、たぶん。今日、GAKU見たよ、カッコいい、ラッキー!って言われるようになるのがいちばんだなと思って。そうなったら、いろんな特性を持った子どもたちへの理解が広がるよね。次の目標は森美術館で個展やりたいな(笑)」

 GAKUは今でもときどきココさんに尋ねることがある。

「ココさん、何を描く?」

「なんでもいいよ」

「何を描く〜?」

「じゃあ、赤いマルはどう?」

「NO!」

 そう言って、知らん顔で黄色い四角を描く。アーティストとしての振る舞いか、生まれついての王様気質か。

 ある日、ココさんはGAKUにこう尋ねてみた。

「がっちゃんにとって、ココさんは何? 先生? お手伝いさん? それとも……」

 GAKUは迷わず答えた。

「フレンド!」

「がっちゃんとはすごくつながってる感じ。死ぬまでに何をしてあげられるだろうかって考える」(ココさん)(撮影/渡邉智裕)

 胸が熱くなる。

「がっちゃん、私のこと友達だって思ってくれてたんだ。そうか。だから一緒にいたら楽しいし、時には喧嘩もするんだよね。そう思いました。不覚にも泣きそうになっちゃった(笑)。

 私の中では、『障がいのある子に福祉の仕事をしてる』んじゃなくて、『毎日がっちゃんっていう友達と一緒にいます!』っていう感じ。寂しかった5歳のころの私が、がっちゃんといきいきと遊んでる。

 私はいくつになっても子どもっぽいところがあるんだけど、ずっと大人になりきれなかったのは、こうしてがっちゃんに出会うためだったのかなって思っています」

 階段を駆け上がる音がして、がっちゃんがひょいっと顔を出す。

「ココさん! ランチ!」

「はいは〜い!」

『byGAKU-20』画集本 クラファン・プロジェクト

◆『byGAKU-20』画集本 クラファン・プロジェクト◆
 
自閉症アーティストGAKUの20歳を記念した企画プロジェクト。これまでの600点以上の作品の中から最も人気の高かったベスト・オブ・ベストをセレクト。さらに6名の先鋭カメラマンにGAKUモデル撮影を依頼。それぞれの持ち味を生かして新しいGAKUの表情が引き出されています。SDGsアートとSDGsモデルとして活躍するGAKUの金字塔となる画集本となります。(開催期間 7/20~8/20予定)https://readyfor.jp/projects/bygaku20

取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき)大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラム連載中。著書『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)