「被告には反省の情がありません。心からの反省、回顧も拒否し、被害者遺族に苦痛と絶望を与え続けたことは、強い非難に値します」
検察の求刑は、過失運転致死傷罪の上限である最も重い禁錮7年だった──。
'19年4月、東京・池袋で旧通産省工業技術院の元院長・飯塚幸三被告(当時87)が運転する車が暴走。松永真菜さん(当時31)と長女・莉子ちゃん(当時3)の2人の命が奪われ、そのほか7人が重軽傷を負う大事故となった。
遺族から「悲痛の声」
7月15日、東京地裁で飯塚被告に自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)を問う第9回目の公判が行われ、この日が結審となった。
検察側の論告求刑の前に、被害者遺族たちによる意見陳述が行われた。
まず、証言台に立ったのは真菜さんの父親・上原義教さん。
「妻(故人)と18歳で出会って結婚。子ども5人に恵まれた。裕福ではなかったけれど、笑いの絶えない家族でした。三女の真菜は私そっくりでした。幼いころは人見知りで母親の影に隠れるような子だったけれども、妹や弟の面倒を見てくれる優しい子でした。きょうだいの中でリーダーシップをとるような子でもあった」
真菜さんの6歳上の姉(長女)の思いは、弁護人が代読した。
「真菜は勉強ができて、物静かで、冷静で、真面目で、友だちが多い子でした。誰にでも平等だったから、信頼されていたのでしょう。
母親の闘病も支えてくれました。私の結婚式のときは、手造りのブーケも造ってくれました」
続いて、真菜さんの妹(四女)の思いを弁護人が代読。
「幼いころから、真菜の後ろを着いて行っていました。真菜を頼りにして、ずっと甘えていたと思います。
私の生まれた子どもは、莉子ちゃんに似ています。ママになった私を真菜に見せたかった」
真菜さんの弟(長男)は、証言台に立ってこう語った。
「真菜ねえは昔から可愛がってくれて、ありがたく感じていた。4人の姉の中で、一番頼りにしていました。真菜ねえは服装のセンスがよかったので、出かけるときも、私の服装のチェックをしてもらっていました」
真菜さんの夫、拓也さんの母親は、
「真菜さんのお母さんは偶然、学校の同級生でした。電話したとき“うちの拓也でいいの?”と聞いたら、“拓也さんは真菜と結婚するために生まれてきたのよ”と言ってくれました」
義母にとって、孫の莉子ちゃんは息子にそっくりな大切な孫だった。
「主人の62歳の誕生日に、七五三の写真をみんなで撮った。それが遺影になってしまうなんて……」
と声を詰まらせた。
真菜さんの義父も、
「莉子の成長をずっと見守っていくことができず、残念です。あるとき、私があぐら座りをしていたら、莉子が私の膝の上にちょこんと乗ってきた。それが微笑ましくて……」
そして、真菜さんの夫で、莉子ちゃんの父親である松永拓也さんが証言台へ。
「被告に心を踏みにじられた。裁判所には重い実刑判決を望みます」
亡くなった2人の命がいかに尊く、かけがえのないものかを思い知らされた公判だった──。
傍聴席から発せられた言葉
開廷から1時間45分が過ぎ、いったん10分の休憩。それから、検察の論告求刑が始まった。そこからおよそ40分が経過したときだった。傍聴席の中から、
「飯塚さん、寝てんじゃないよ!」
中年男性の図太い声があがった。法廷の中は一瞬、シーンと静まりかえる。この公判中に、傍聴席から声があがったのは「人殺し……」に続いて、2回目である。
裁判長がすかさず、
「静かにしてください」
と制した。
確かに、飯塚被告は寝ているかのように、うつむいていた……。
最初はやや顔を伏せて、上目使いで遺族の意見陳述を聴いていたが、時間が経つにつれて次第に視線が落ちていった。その前にも2、3度、寝ていると疑われても仕方のないような場面があった。
「最後に何か言いたいことは?」
飯塚被告は裁判長に促されると、
「被害者遺族の気持ちを思うと、心苦しい限りです。しかし、アクセルとブレーキを踏み間違えたことは、まったくございません。いまも、そう思っております。
結果論ですが、もう少し早く運転をやめておけばと反省しております」
被害者遺族の感情を逆なでする発言で、この公判は締めくくられた。判決は、9月2日に下る。