フランス南東部のリゾート地・カンヌ─この地で2年振りに映画の祭典『カンヌ国際映画祭』が開催された。
世界中から選りすぐりの話題作が集まる中、映画関係者やファンが最も注目するのは、最高賞“パルム・ドール”をどの作品がとるか、だ。
「“映画界最高の栄誉”ともいわれている賞です。日本映画では過去、黒澤明監督の『影武者』、今村昌平監督の『楢山節考』をはじめ5作品が受賞しただけ。最近では2018年に、是枝裕和監督の『万引き家族』がとっています」(映画誌編集者)
受賞作は興行面でも大成功が約束されている。
「前回“パルム・ドール”を受賞した韓国映画『パラサイト 半地下の家族』は、その年の米アカデミー賞を総ナメ。興行収入266億円を叩き出す大ヒットになりましたから」(同・映画誌編集者)
今回、その候補作として日本から唯一選ばれたのが映画『ドライブ・マイ・カー』だ。“妻を亡くした演出家兼舞台俳優”の主人公が、専属ドライバーの女性とともに妻の足跡を辿る─という物語。原作はあの村上春樹氏だ。
「上映時間2時間59分という長編映画ですが、現地での評価は上々です。映画祭会場での上映終了後、客席からは“スタンディング・オベーション”が起きました。出席していた濱口竜介監督への拍手は、3分間も鳴りやまなかった」(同・映画誌編集者)
18日の映画祭最終日、授賞式が行われ各賞が発表になった。
「残念ながら『ドライブ~』は“パルム・ドール”には手が届きませんでしたが、脚本賞を授賞。
最愛の人を失った主人公を演じた
惜しみない拍手が送られたのは監督だけではない。最愛の妻を失った悲しみを抱えながら生きる主人公を見事に演じ切った西島秀俊に対しても、だ。
西島は今クールだけでも、NHK朝ドラ『おかえりモネ』で気象予報士役、テレビ東京系の連ドラ『シェフは名探偵』では主演を務めるなど“超”がつく売れっ子。
「『ドライブ~』の後には、内野聖陽との“ゲイカップル”共演で大ヒットしたドラマ『きのう何食べた?』の劇場版の公開も控えていますからね。ただ、カンヌは西島さんにとっても初めての舞台。本人は“何が何でも現地へ行きたい”と考えていたんですが、出演中のドラマのスケジュール調整がどうしてもつかなかったそうで。それにコロナの問題もあって、泣く泣く現地入りを諦めたんです」(スポーツ紙記者)
カンヌへの壮行会イベントで西島は、『ドライブ~』への思いをこう語っている。
「そこに“真実が映っている”ということを感じる瞬間がたくさんある映画。(中略)きっと、今の日本で暮らす人々の心の中を描いている」
そこには、西島自身の“心の中”も描かれていたのかもしれない。西島をよく知る人物が打ち明ける。
「実は西島さん、この映画の製作がスタートする直前、お母様を亡くしているんです」
母がこの世を去ったのは2019年11月。79歳だった。
「重い膵臓の病気だったそうで。都内の病院をいくつも回って、なんとか手術をして。一度は自宅に帰って生活できるくらいになったんですが、1年もたたないうちに再入院に……」(同・知人)
父は“病院に通いやすいように”と東京郊外の一軒家から、都心に住む西島の家の近くに引っ越したという。
「西島さんも一緒に、つきっきりで看病していたんですが、結局……。葬儀には友人や知り合いも呼びませんでした。ごくごく近しい身内だけで」(同・知人)
東京都心にある墓園─その一角に植えられた梅の木の下に、西島の母は眠っている。
「“樹木葬”でね。“お墓のお掃除だとかで、家族に負担をかけたくない”というお母様の、たっての希望だったそうです」(同・知人)
私事を仕事に持ち込まない
西島は“プライベートを明かさない”俳優として知られている。2014年には16歳下の一般女性と結婚。2児の父でもあるが、雑誌のインタビューやテレビ番組などで家族4人での生活について自らつまびらかにしたことはない。妻子だけでなく、両親やきょうだい─自分の家族に言及することも避けてきた。
「“私事を仕事に持ち込まない”そして“家族に迷惑をかけない”というのが西島さんのポリシー。だから、お母様が亡くなったことも内緒でした。四十九日法要がすんだかすまないくらいで『ドライブ~』の衣装合わせや台本の読み合わせが始まったんですが、そのことは共演者やスタッフに伏せたまま、普段どおり仕事に臨んでいました。でも撮影中、どうしてもお母様のことが頭に浮かんだんじゃないかな。最愛の家族を亡くした役ですから……」(同・知人)
西島が大学時代まで両親と過ごした街を訪ねた。
「秀俊君は“ニックン”と呼ばれていましたよ。中学校までは野球をやっていて勉強もできた。2つ年上のお姉さんも美人で運動も勉強もできてね。姉弟で地区の学年リーダー。お姉さんはたしか……ビール会社の子会社の社長さんになったなんて聞きましたよ」(近所の住民)
母は、そんな娘と息子を鼻にかけるようなことは決してなかったという。
「いつも穏やかで嫌みのない、でも芯のしっかりした人でしたよ。お母さん、図書館や小学校で“読み聞かせボランティア”をやっていたんですけど、本をただ朗読するんじゃないの。1冊丸々暗記して、それをお芝居のセリフのように子どもたちの前で披露するんです。ニックンが俳優になったのも、お母さんのそういうところが影響したのかもしれない」(同・住民)
最大の理解者だった母
その母は、どんなときも西島の最大の理解者だった。
私立の中高一貫の進学校から横浜国立大学に進学した西島だったが音楽に夢中に。ロックバンドを結成すると“本気で音楽で食っていきたい”と母に宣言し、1浪してまで入った大学をあっさり中退してしまった。そのときも、
「お母様、さすがに悩んでいましたけど、最後には彼の決心を応援してね。“秀俊には、自分の人生なんだから、やるならやりなさい。そのかわり家族には迷惑をかけないでって言ってやったわ”って。結局、音楽ではなくてお芝居の道だったけれど、西島さんはその言葉を胸に、一生懸命頑張って有名になった。お母様もきっと誇らしかったと思いますよ」(前出・知人)
母が亡くなった後、住んでいた実家は引き払った。
「忙しいだろうに、ニックンが奥さんとお子さんを連れて何度も片づけに来ていました。通りがかった人が、家の前の道をほうきで掃いているニックンを見てびっくりしてました(笑)。最後の日、近所を1軒1軒回って“長い間、お世話になりました”って挨拶までね」(前出・住民)
2時間59分に込められた大切な愛する人への思い─。それはきっと、多くの人々の心に届くに違いない。