「“亡くなった”と発表された前の日、酒井さんをよく乗せていたというタクシー運転手さんが訪ねてきたんです。“急に連絡が来なくなったんだけれど、どうしたのか知りませんか?”って。入院したことも知らなくて」(自宅近隣の住民)
青山和子、フォーリーブス、郷ひろみ、南沙織……数多のスターを発掘した“伝説の音楽プロデューサー”酒井政利さんが7月16日、85歳でこの世を去った。
「5月に見かけたときは、まだお元気そうでしたけどね。いつもお忙しそうで夜中にタクシーで帰っていらっしゃってね……。ご家族? いやぁ、おひとりだったと思いますよ」(前出・住民)
酒井さんを四半世紀にわたって支えてきた同事務所音楽プロデューサーによれば、当初は「検査入院の予定だった」という。
「酒井はアレルギーの持病があって。とはいっても食欲がなくなったり肌がかゆくなったりする程度なんですが、毎年体調を崩すので、5月の終わりごろにその予防として病院へ入ったんです。ところが16日の朝、病院から“様子がおかしくなった”と連絡があって病院へ駆けつけました。いったんは落ち着いたんですが、夕方また容体が悪くなって……。心不全でした」
メディアミックスの先駆け
酒井さんは昭和歌謡黄金時代だった1960~1970年代を駆け抜けた生粋の業界人。大学卒業後、松竹に入社したものの1年もたたないうちに音楽業界に転じると、メキメキと頭角を現した。酒井さんの最初のビッグヒットは1964年、青山和子の『愛と死をみつめて』。160万部の大ベストセラー小説と同じタイトルをつけ“オマージュ”したこの曲は、その年の日本レコード大賞を受賞した。
「小説とはなんの関わりもなくて、酒井さんが読んで感動したから勝手に曲にしただけなのに、ちゃっかり“乗っかって”ね(苦笑)。マスコミを上手に使って、ド新人の南沙織を沖縄から連れてきて『17才』でスターに仕立て上げたかと思えば、ベテラン歌手を次々復活させて」(レコード会社時代の元同僚)
ジュディ・オングの『エーゲ海のテーマ~魅せられて』は、その集大成的な大ヒット曲になった。ダブル・ミリオンを達成し、酒井さんは2度目のレコ大をとる。
「この曲も、名作映画『エーゲ海に捧ぐ』の“便乗商売”でしたけれど、今では誰もが使う販促手法“メディアミックス”の先駆けだったともいえます。“売れる”ものへの嗅覚と“売る”アイデアは誰も彼に敵わなかった」(前出・元同僚)
そんな酒井さんが世に送り出した“最高傑作”が山口百恵だ。デビューから1980年に電撃引退するまでの8年間、文字どおり二人三脚でヒットを連発。当時の酒井さんをよく知る音楽関係者が振り返る。
「宇崎竜童、阿木燿子夫妻をブッキングして『横須賀ストーリー』『イミテイション・ゴールド』『プレイバックPart2』を歌わせたかと思えば、谷村新司を口説いて『いい日旅立ち』を書かせて。レコードのジャケット写真は大御所写真家の篠山紀信に依頼したりね。酒井さんはいろんなところに顔が利いて、一流どころのスタッフを集められた。百恵さんが伝説的なスターになれたのは、酒井さんの力があったからなんです」
だが、華々しい実績の一方で、音楽業界内外での酒井さんの評判は決して芳しいものばかりではなかった。
「正直、酒井さんは音楽や曲作りに関しては素人同然だったんです。だから“手がけた”と言っている曲のほぼすべて……百恵さんの曲だって“誰かにやらせていただけ”ともっぱらです。それなのに手柄を全部、自分のモノにしちゃう。デヴィ夫人を“芸能界のパラサイト”なんてこき下ろして大ゲンカしてみたり、歌手志望の若い男性から“セクハラ訴訟”を起こされたり、音楽と関係ないことでもトラブルを起こすから、周囲の人間もだんだん離れていってね」(前出・元同僚)
どこまでが本当でウソかわからない
先の音楽関係者も手厳しい。
「酒井さんの話は、どこまでが本当でどこからうそかがわからない。“天地真理や松田聖子、キャンディーズやTUBEも私が育てた”とも言っていたけれど、実際はいっさい関わっていませんからね。だから、部下や制作現場からは総スカンを食っていたんですよ。テレビや雑誌でペラペラとしゃべっていたアーティストたちとの昔話も、正直、どこまでが本当なのか……。ただ、誰に対しても優しく紳士的で、いつでも“ネタ”を提供してくれるから、マスコミ関係者からの評判はよかったのは皮肉な話ですが(苦笑)」
それに怒ったのが、誰あろう百恵だった。
「引退後、自分とのオフレコ話をマスコミに漏らすばかりか、ありもしない話まで、さも真実かのようにしゃべってしまう酒井さんに、百恵さん側は何度も“やめてほしい”とクギを刺した。でも、酒井さんはそんなのどこ吹く風で。レコード会社退社後は、それが酒井さんの“飯の種”になっていましたからねぇ……」(音楽専門誌編集者)
かつて写真誌に百恵の“ヌード写真”が流出した際も、“流出の犯人では?”と酒井さんに疑惑の目が向けられたことまであった。
「我慢を重ねた百恵さんも、とうとう絶縁したんです」(同・音楽専門誌編集者)
ジュディ・オングら多くの関係者が追悼メッセージを送る中、たしかに百恵は“芸能界の父”ともいえる大恩人の訃報にも沈黙したまま……。
りえの“自殺未遂”を言いふらした
宮沢りえもまた、酒井さんとは疎遠になってしまったひとりだ。ある雑誌のインタビューで酒井さんは《(りえの)デビュー曲を考えたとき、頭に浮かんだのは「小室サウンド」》と小室哲哉に楽曲制作を依頼したのは自分であるかのように語っていたが、
「ありえないです(苦笑)。りえさんが歌手デビューした当時、酒井さんは現場から完全に離れていましたから。ただ“りえママ”ことお母さんの光子さんと仲がよかったのは事実」(前出・元同僚)
だがそれも、
「1994年にりえさんが京都のホテルで起こした“自殺未遂”を言いふらしたことがバレて、関係が切れちゃった。いま思うとかわいそうな人でした。芸能界という、つくられた世界にずっといて“自己演出”がやめられなくなってしまったのかなぁ。
“セクハラ訴訟”のこともあって“酒井さんは同性愛者だ”なんて噂もありましたけど、それすら演出だったのかも。“26歳のときに高校の同級生と結婚して、子どもに孫までいる”なんて話を酒井さんがポロッと口にしたことがあったし」(同・元同僚)
冒頭の音楽プロデューサーに「孫がいる」という本人の言葉をぶつけてみた。
「それは冗談ですよ……とは思いますが」
最後まで虚構と現実のはざまを生きた人だった。