終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第2回)
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1944年の冬から本格化し、甚大な被害をもたらした東京大空襲では約10万人が犠牲になったとされる。しかし、死体を見た記憶がないという。公園に避難するときも、公園から自宅に戻るときも……。
東京都墨田区の星野雅子さん(89)は、下町の合金型枠工場を営む職人家庭に生まれた。5人きょうだいの末っ子。
“あらっ、上野駅”
母親は小2のときに病死し、以来、13歳年上の次姉が母親代わりを務めた。父親は雅子さんを可愛がり、よく落語を聞きに寄席に連れて行ってくれたが─。
15歳の年の3月に東京の下町を焼き尽くした大空襲で、そんな思い出は打ち砕かれてしまった。父と次姉、そして隣の家族の計6人で防空壕に避難した矢先のこと。
「警防団が来て“きょうの空襲は規模が違う。ここは危ないから逃げてください”と言うんです。それで駅の操車場まで移動してしゃがんでいたら、今度は駅員が来て“貨車に火が入ると危ないからどいてください”と。
しかたなしに錦糸公園まで逃げる途中、婦人会のおばさんが水をジャージャーかけて身体に火が燃え移らないようにしてくれて。公園でひと晩明かす中、爆撃機B29がすごい低空を飛んでいきました」
コックピットの米軍兵が下を向いているのが見えたという。
「機銃掃射はされませんでしたが、あたりで燃えさかる煙にやられて目があかなくなってしまった。隣のおばさんが目を舐めてくれて、ようやくあけられるようになりました。
朝になると一面、焼け野原で視界をさえぎるものはなく、遠くの上野駅の駅舎が見渡せました。“あらっ、上野駅”と驚いて」
空襲で家族は助かったが、友人の命は奪った。
本所実践女学校3年のクラスメートとは「また明日ね」と別れたきり、半数近くと再会できなかった。仲のいい友人は空襲で両親を失い、親戚宅に身を寄せることに。
ある日、その友人が錦糸公園に仮埋葬されている両親をお参りするというので「私も行く」とついていった。
「きっと、毎日のようにお参りしていたんでしょう。涙ひとつ見せず、静かに手を合わせていました。彼女は親戚宅での暮らしぶりを話し、“髪の毛をとかすのもトイレでしているのよ”と言うんです。
私は鈍感で“どうして?”と聞き返しましたが、よくよく考えてみると肩身が狭かったに違いない。あとで“ごめんね”と謝りました」
女学生らしい歌を歌いなさい
戦後、よく思い出すのは女学校の勤労動員先の製薬工場のことだ。
軟膏をチューブに詰めては封をする作業を繰り返した。歌を歌いながら作業しても工場長は怒らなかった。
ところが、いつものように勇ましい軍国歌謡を歌っていると、工場長が「そんな歌を歌っちゃいけない。女学生らしい歌を歌いなさい」と口を出してきたという。
「ちっともロマンチックじゃない。でも、日本全体がそういう風潮でした。いま思えば、滝廉太郎の『花』でも歌えばよかった。歌詞に学校のすぐそばを流れる隅田川が出てくるわけですし」
切ない思い出ばかりよみがえるが、やはり焼かれた遺体の残像は浮かんでこない。
2018年6月、87歳で亡くなった夫・星野弘さん(元東京大空襲訴訟原告団長)は生前、雅子さんにこう説いたという。
「死体を見ずにすむはずがない。きっと、迂回するなどお父さんがよほど気を遣って見せないようにしたのだろう」
雅子さんはショックで記憶をなくした可能性も考えた。しかし、今は「お父さんが見せないようにしてくれたんだ」と思うようにしている。
※2019年取材(初出:週刊女性2019年9月3日号)
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する