千村裕子さん。祖母と同じ教師の道を歩み、1男1女と孫に恵まれた

 終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第3回)

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祖母宅にひとりで疎開

「祖母宅は緑豊かな田舎の高台にあり、広い庭に椿や桜の木が植えてありました。食べ物がなく、周囲の家は庭を畑に変えていて、花の咲く木を植えている家なんてほかになかったそうです。祖母は面疔(めんちょう)で顔が引きつっていましたが、私はちっともこわくなかった。私のことを“ひよこ、ひよこ”と呼び、思いっきり愛してくれましたから」

 東京都小金井市の千村裕子(ちむら・ひろこ)さん(79)は、母方の祖母・伊藤セツさん(1977年没、享年85)の思い出をそう振り返る。

 新潟県新潟市で両親やきょうだいと暮らしていた千村さんは終戦の’45年、国民学校(小学校)の1年生になったばかり。同県新津市(現在の新潟市秋葉区)の祖母宅に遊びに行くのが楽しみだった。小学校の教師をしていたセツさんは開戦翌年に夫・良吉さん(享年51)を脳出血で亡くし息子4人を戦地にとられて、ひとり暮らしをしていた。

「そんな8月初めのある日、近隣の長岡市が大空襲を受け、数日後に怖い噂(うわさ)が流れてきたんです」

 広島に変な爆弾が落ちて全滅した。次は新潟市に落ちるかもしれない──。

 一家は白根市(現在の新潟市南区)に疎開し、千村さんひとりだけが祖母宅に疎開することになった。セツさんから「寂しいのでうちに来て」と請われたからだった。

終戦の日は葬儀の日だった

 数日後、終戦の日を迎えた。庭で近所の人たちが玉音放送を聞いていたが、幼い千村さんには意味などわからなかった。そして、セツさんには別の意味で特別な日だった。

「三男・恒也(つねや)さん(享年24)と四男・俊郎さん(享年22)の葬儀の日だったんです。立て続けに戦死の知らせを受けた祖母は“つねこう、どこいった。としぼう、どこいった”と部屋の中をあっちへ行ったり、こっちに来たりしていたそうです。やがて納骨のときがきて私も一緒にお墓に行きました」

 墓に届けられた骨壺(こつつぼ)を開けて驚いた。

中から出てきたのは黒い石ころが1つ。遺骨ではありませんでした。祖母はその石ころをお墓に入れるのが耐えられなくて、石ころを手に取って抱きしめたり、頬ずりしたり、舐(な)めたりして離さないんです。和尚さんが“もう終わり”とか“もうおしまい”と言ってもきかない。それが終戦の日の出来事でした」

千村さんの子どもの頃

 千村さんの記憶に残っているのは、かっこいい軍服姿の恒也さんと俊郎さんが縁側で寝転んで足を蹴り合ってふざけているシーン。とても楽しそうに見えた。

「素敵な叔父さんでした。私のために消しゴムを買ってきてくれたこともあり、とってもいい匂いがしたのを覚えています。祖母はまだ少年のようなわが子を戦争で奪われ、どんな気持ちだったでしょう。息子4人のうち3人を戦争で亡くしたんです。恒也さんはビルマ(現ミャンマー)で戦死しました。俊郎さんは終戦の約2か月前、九州の基地で水枕の水を飲んで盲腸になって、“おかあさん、お腹が痛いよう”と言いながら亡くなったそうです

 恒也さんは出征前、国鉄(現JR)に勤めており、「おっかさんを東京に連れて行く」のが夢だった。俊郎さんはスポーツ万能で、バスケットボール選手としてオリンピックを目指していたという。

「終戦後、祖母は自宅前を通る軍人の格好をした人を片っ端から自宅に招き、お茶をふるまって“息子のことを知らないか”と聞きました。それと、祖母の建てた墓が変わっているんです。お墓ってだいたい同じ方角を向いて建っていますよね。祖母の建てた墓だけ他家の墓と向きが違って、子どもが見られるように自宅を向いているんです

 セツさんは最後まで新潟を離れなかった。島倉千代子の『東京だョおっ母さん』を何回も歌っていたという。歌詩では、平和な世の中になり、子どもに手を引かれて東京見物する幸せな母親の姿がうたわれている。

※2018年取材(初出:週刊女性2018年9月11日号)

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する