終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第5回)
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分娩から身を引いた兵庫県伊丹市の元助産師、稲垣よしゑさん(96)。これまでに1万人以上の子どもをとりあげ、70年以上にわたり、新しい命と向き合い続けてきた。
原点は幼少期に兄と両親を相次いで亡くしたことにある。
「兄と父が亡くなったあと、看病がたたったのでしょう。母は1年ほど寝たきりでしたが、回復することなく亡くなりました。私は末っ子で、いつも母に甘えていたからショックでしたし、何もできないことが悔しかった……」
よしゑさんは10歳だった。
助産師の叔母によくいわれたことは、「あんたは両親がいないんだから早くひとり立ちして、生きていく術を身につけなきゃダメ」ということ。
その言に従い、資格を取り戦時中から、よしゑさんは助産師・看護師として働いた。
助けを求める声が耳にこびりついて
そこで戦争に踏みつけられた多くの命を目の当たりにした。特に瀕死の子どもを助けようとしていた母親の顔、声が今も忘れられず「夢に見ることがあります」とポツリ。あれは1945年6月7日の朝でした、と記憶をひも解く。
「あの日は、朝から空襲警報が鳴っており、大阪市内の各地が爆撃されていました」
電車も止まり、徒歩で阪急百貨店内にあった職場の健康相談所に急いでいた。
「淀川を渡るときでした。機銃掃射に襲われました」
幸い、水辺に着弾。九死に一生を得た。
そして、やっとの思いでたどり着いた阪急の地下。
「私が着いたときにはすでに負傷者が大勢運ばれていました。そこに6歳くらいの男の子がいました。彼は爆弾の直撃を受けたようで腹部が切り裂かれ、内臓が飛び出していました。お母さんが私の白衣をつかみ、『どうにか助けてください!』。
でも、何もできないんです。母親を振り切るように私は次の患者のところに行きました。気がついたときは、もうあの親子はいません。名前も生死も不明です」
わが子の命のために、母親たちは必死で助けを求めた。中には、背負った子どもが息絶えていることすら気づいていない母親の姿も……。
「包帯も薬も足りず、助かりそうな人だけを助けることしかできず、無我夢中でした。あの地下室の地獄のような光景は忘れることができません」
とりあげた赤ちゃんに声をかける言葉
爆撃で夫の父を亡くし、自宅も焼け出され、悲しみの中で終戦を迎えた。
’43年4月に結婚し、その2か月後に召集令状が届き、戦地に行っていた夫が、’46年に復員してきた。’47年、よしゑさんは長男を出産。
「この子が成人するまでは絶対に生きる」
と心に誓った。その翌年に「稲垣助産院」を開業した。
「(京都)舞鶴港に引き揚げてきたという人のお産に立ち会ったこともあります。行き場がなくて防空壕の中で暮らしていた妊婦や、河原で産んだ女性もいました。みんな生きていくのに必死。戦後の混乱期に出産費用が払えない人もいましたけど、必死で子どもを産んだんです」
どんな状況下でも産み育てる母親のたくましさに、よしゑさんは寄り添ってきた。
「終戦直後、お母さんたちは自分が食べなくても、どうにか子どもに食べさせようと命懸けでした」
戦争でたくさんの死を目の当たりにしてきたよしゑさんは赤ちゃんをとりあげると、
「長生きしてよ」
決まって、そう声をかけるという。「子どもだけじゃありません、お母さんにもです。長生きしてくださいって」
親子が恐怖から逃げ惑うことなく、飢えることもなく、笑いながら暮らせる時代。
「今はとっても平和。空襲だってありませんしね」
子どもと孫に囲まれ、幸せな日々を送る。40代で亡くなった母の分まで、よしゑさんは戦後を生き抜いている。
※2017年取材(初出:週刊女性2017年8月15日号)