終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第6回)
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「子どものころ、親の言いつけを守らなかったり、悪さをすると、押し入れに閉じ込められました。僕は要領が悪かったので、出してくれるまで“ごめんなさい”と泣きながら謝り続けた。ところが妹の文恵は要領がよく、いつの間にか脱け出しているんです」
千葉県柏市の南一成さん(79)は戦時中の満州(現在の中国東北部)牡丹江省での暮らしをそう振り返る。父・正人さん(1991年没、享年85)は南満州鉄道の保線関係の責任者で、一成さんは’38年に現地で生まれた。5歳下の妹の子守りをよく任された。
「妹は僕に懐いていて可愛かった。でも、おんぶすると重たくてね。友達とメンコやかくれんぼするには邪魔だけれど、母から“グズるから連れて行ってあげて”と頼まれると断れなかった」
父親が晩酌するとき、妹はかならずそのひざの上にちょこんと座り酒の肴をつまむ様子を目で追った。すると父親は肴を妹の口に運び盃を舐めさせることも。
「僕はお酒なんて1度も味わったことがなかったのに」
幸せな日々だった。
フミエ、泣かないよ。泣かない
やがて戦局は悪化し、父親を残して母と妹と3人で疎開列車に乗り込んだ。間もなく終戦を迎える’45年8月初旬のこと。一成さんは7歳だった。
「家族旅行で以前乗った1等車ではなく、硬いイスの3等車だったので驚きました。通路に座り込んでいる人もいました。“戦争が落ち着くまで一時疎開するだけ”という話でしたが、住み慣れた家に戻ることはありませんでした」
列車は空襲を受けた。一成さんは母と妹と、学校などの建物や背の高いトウモロコシ畑に逃げ込んで身を潜め、毛布をかぶった。あまりの恐怖に幼い子どもたちはぎゃあぎゃあ泣き叫んだ。
「文恵ちゃん、泣いちゃだめ。泣くのはやめなさい」
と母がなだめた。
まだ2歳の妹は、
「フミエ、泣かないよ。泣かない」
と小さな手を口にあてて声を漏らすまいとした。
何度も空襲に遭いながら列車は8月16日に新京(現在の長春)に到着し、日本の敗戦を知った。車両に天井と囲いのない『無蓋列車』に乗り換え、炭鉱町の撫順にたどりついた。新居は鉄筋コンクリート3階建ての空き家のアパート。日本人女性と子どもばかりの生活が始まった。
「4畳半程度の狭い部屋で3人布団を並べるのがやっとでした。配給は、固い雑穀の『コーリャン』のお粥を1日1回、小さな鍋の底に少しだけ。母はほとんど食べず、僕らに分け与えて、自分は水ばかり飲んでいました」
それでも妹は栄養失調で次第にやせ細り、寝たきりになった。亡くなる直前、立ち上がってフラフラによろけながらトイレに行こうとする妹に、
「寝たままでおしっこしてもいいよ」
と母は泣きながら言った。
「妹は9月8日に亡くなりました。本当にかわいそうなことをしました。母は遺体を抱き寄せて“文恵が死んじゃった”といつまでも泣き伏せっていた。生後100日でつくったきれいな赤い着物を着せて棺に入れました。母は火葬して骨だけになった妹の姿に腰を抜かし、“文恵~っ!”とわんわん泣きわめきました。僕と父の部下のおじさんですべての骨を拾ったんです」
母が大切にしまっていたもの
翌’46年8月、父親と合流して日本に帰国。父親の故郷・大分県で暮らした。一成さんは熊本の大学に進学後、日立製作所で研究職として働き、職場で知り合った3歳年下の夫人との間に2男1女をもうけた。母・千代子さんは’83年、胃がんで77年の生涯を終えた。
遺品整理をしていたときのことだった。
「タンスのいちばん奥の母の衣服の下から、乾燥した妹の最後のおむつが出てきたんです。母は戦後、妹の話をしようとはしなかった。でも、忘れられなかったんでしょう。大切にしまってありました」
そう言葉を噛みしめた。
※2017年取材(初出:週刊女性2017年8月15日号)
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する