終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第7回)
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「母は子どもに対してものすごく愛情が深かった。誰よりも感謝しています」
仕事が忙しく、母・ゑひさんの死に目に立ち会えなかったのが「不徳の致すところ」と語るのは藤間宏夫さん(78)。
「昨年(2016年)から、戦争体験の話をしてほしいと登壇を頼まれるようになりました」
貴重な語り部として、多いときは400人以上を前にして体験談を語る。
東京・日本橋の出身。宏夫さんは8人きょうだいの7番目で、6歳のとき東京大空襲を経験した。まだひとりで疎開できる年齢に達していなかった。
「焼夷弾が自宅を直撃しました。避難する時間なんてなかった。私は1階の押し入れに落っこちるようにして逃げたんです」
あと少しズレていたら生きていなかっただろう。宏夫さんはそう思う。生き延びるために一家は逃げた。
「母は弟を背負い、私の手を離さずにひたすら逃げました。かろうじて避難したのは防空壕のような地下です。しかし、地上に降る焼夷弾の熱や煙で死を覚悟するほど過酷な環境でした」
ようやく地上に出られたとき、周囲には何もなかった。次に待っていた試練は食糧不足だった。
焼け野原となった東京から静岡・牧之原へ疎開した。避難してきたというだけで白い目で見られた。
「もともと物資が足りていないのに、避難してきた人に渡す食料なんてなかったんですよ」
割り箸の紙袋みたいなやつが1枚
空襲とは違う、餓死寸前のつらさ。肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも追い込まれた。しかし、母はそれ以上に、息子が兵士として前線に赴くことが気がかりだった。
「長男は赤紙で徴兵され、次男、三男は自らの意思で兵隊を志願しました」
周りが行ったら俺が行かないわけにはいかない。そんな風潮があった。人前では涙を見せない母が涙を流したのは、次男が1度だけ帰宅したときだった。
「次男の帰宅は、外地へ行くということを伝えるためでした。しかし、本人は何も言わない。無言で部屋にいるだけです。詳細なことを言ったら軍紀違反ですから。本当は涙もろい母がこっそり泣いている背中を見ました」
その一時帰宅を最後に次男がふたたび、家族の元に帰ってくることはなかった。
「兵隊の母親なんてかっこよくなんかないですよ」
宏夫さんは今だからこそ親の気持ちがわかるという。
「送り出すときは涙をこらえてるんですよ。戦争なんて悲惨なことだとわかっていますから」
終戦後、長男と三男は戦地から無事、帰ってきた。
「母は次男の消息が不明でも“絶対に帰ってくる”とずっと言っていました。戦後間もなく父が亡くなった後も“次男は帰ってくる”と言い続けていました」
そして戦後10年ほど経過して、ようやく届いたのがたった1枚の紙きれだった。
「次男の死亡通知が届いたんです。フィリピンで戦死したという。それも、割り箸の紙袋みたいなやつ1枚ですよ」
母は簡単に信じなかった。目の前で死んだわけではない。もしかしたら、どこかで生きているかもしれないと思うのが親の心境だろう。
「次男は亡くなったと伝えても、“いや、そんなことはない。絶対帰ってくる”と言い張りました」
母は残った子どもたちを立派に育て上げた。明治・大正・昭和と激動の時代をたくましく生き抜き、そして、ひとりひとりがきちんと自立する姿を見届けてから79年の生涯を閉じた。
※2017年取材(初出:週刊女性2017年8月15日号)