松下賢次 撮影/山田智絵

 テレビが今より話題の中心だった時代、ニュースやワイドショーの時間の「顔」は、みんなの関心ごとでもありましたーー。時代の変遷や衝撃、ワクワクを伝えてくれたあの人は、今、どうしているの? スポーツ実況のスペシャリストで『ザ・ベストテン』の司会者としても活躍した、松下賢次さんにお話をうかがいました。

松下賢次(まつした・けんじ)
1953年、東京都出身。慶應義塾大学卒業後、TBSに入社。35年間アナウンス部に所属し、野球、ゴルフ、サッカー、陸上などスポーツ実況を中心に担当。『ザ・ベストテン』など音楽番組の司会も行う。定年後はフリーとなり、イベントの司会や講演を行う。

「スポーツ実況は年齢とともに難しくなる仕事」

 ゴルフのマスターズの実況を13回行うなど、スポーツ実況のスペシャリストとして活躍されてきた松下賢次さん。学生時代から落語に親しんできただけあって、その流暢かつウイットに富んだ話術で視聴者の心をつかんできた。

「僕がゴルフの実況をやっていたときは、日本人がメジャーで優勝するのは夢であって現実ではないという感じでした。でも、松山英樹選手にとって優勝は夢ではなく、目標だった。メジャーリーグの大谷翔平選手もそうです。骨格も日本人離れしていて、世界というより宇宙を目指している感じがします。テニスの大坂なおみ選手もそうですが、日本人が当たり前のように世界ナンバーワンになる時代が来たことは感慨深いですね」

 長年、スポーツの世界にいたが、音楽番組『ザ・ベストテン』の司会に抜擢され、黒柳徹子さんとコンビを組むことに。

「夕方のニュース番組のスポーツコーナーを担当しているとき、最後はダジャレで締めていたんです。『甲子園は今日どれくらい入っているでしょうか? アルプス一万弱』といった具合に、です。

『ザ・ベストテン』で当時の人気者たちと

 すると視聴率がアップして、NHKを逆転してしまうという事態に。それを見た『ザ・ベストテン』のディレクターが僕を気に入ってくれ、久米宏さんがベストテンを降板する際に、僕をピンチヒッターに指名しました。その後、レギュラー司会者となり、3年ほど番組を担当。当時はアナウンス部もスポーツ局も僕がベストテンをやることに大反対でしたが、1時間の生番組はスポーツと同じですし、やってみることに決めたんです。

 何よりも黒柳徹子さんとご一緒できたのは財産になりました。彼女の頭の回転スピードについていくのが仕事でしたね。ベストテンの中継はハプニングが多く、スリルがあったことも忘れられません

 53歳でアナウンス部から経営企画部へ異動になったが、フリーにはならず定年までTBSで勤め上げることにした。

「実はフリーのスポーツ実況の仕事はギャラが安いんです(笑)。まだ子どもも養っていかなければいけなかったし、定年まで残ってから、フリーになりました。ただ、僕は人の名前がすぐに出てこなくなったら、スポーツ実況はするものではないなと考えています。ですから今、マスターズの実況ができますかと言われたら断りますよ(笑)」

 現在は講演会やイベントの司会の仕事が中心だという松下さん。

「コロナ禍で講演会もリモートになりました。反応が伝わってこないので、ウケているのかわからないので寂しいです。早くみなさんの顔を実際に見ながらお話しできる日が来るのを楽しみにしています」

取材・文/紀和静