「人にはそれぞれ生き方があるように、逝き方も違う」その人らしい“最期”を迎えてもらうため、患者や家族の話を傾聴し、生活ぶりからよりよい治療を模索する訪問医の仕事。研修医時代、「そこまでしなくていい」と周囲に呆れられるほど患者にのめり込んだ中村医師が見つけた理想の医療のカタチとは──。
「じゃ、行ってきます!」
明るくスタッフに声をかけ、小型乗用車に乗り込むのは、千葉県八千代市を中心に訪問診療を行う、向日葵クリニック院長・中村明澄(あすみ)医師(46)。
治療だけじゃない、訪問医の仕事
助手席に往診バッグとiPadを置くと、自らハンドルを握って車を発進させる。
「カーナビは使わないですね。このiPadに患者さんの住所が入ってるので、そのままグーグルマップを見ながら目的地に向かう感じです」
順調に車を走らせるが、しばらくすると、「あれ、道、間違えちゃった」、慌てて引き返す一幕も。
後部座席から記者が、運転中の質問を詫びると、「いやいや、インタビュー受けてなくても、しょっちゅう間違えちゃうんです。方向音痴なんで」、屈託なく答える。
普段は1日5~8軒を往診するが、6~7月は高齢者のワクチン接種が重なり、10軒も回っていたという。
「ワクチンは準備にも神経を使うし、時間内に段取りよく打たなくてはいけないので、スタッフ一同、気が張った状態が続いていました。ようやく落ち着いたところです」
訪問先は、慢性疾患を抱える高齢者や、末期がんの患者が多く、感染すれば重症化のリスクが高い。
そのため、中村先生自身も、「絶対、感染しない、感染させない!」と、日々感染予防に努めている。この1年半、美容院にも行かないほどの徹底ぶりだ。
「もう髪は伸ばし放題で、あまりに不評だったので、こないだ自分で切りました。だから、後ろなんかチョー適当」
その言葉に、運転する後頭部に目をやれば、失礼ながらところどころが散切(ざんぎ)りに。
中村先生は話し方もやさしくて、目がくりっとした美人だ。しかし、不ぞろいの髪型からは、「女を捨てても、患者さんを守る!」という気合が伝わってきて、頼もしく感じる。
10分ほど走ると、最初の訪問宅に到着した。
患者の山崎哲也さん(55)は、末期の肺がんで、数か月前から在宅医療を受けている。
「こんにちは。どうですか?」
介護用ベッドの横に立ってやさしく声をかけると、「ここ座らせてもらいますね」、さっと腰を下ろして、その場に溶け込む。
「最近、眠りが浅いんだよね」、
山崎さんがざっくばらんに話し始めると、「うん、うん」、うなずきながら耳を傾ける。
「体調はいいから、よく散歩にも行くんだけど、こないだ途中でへばっちゃって。身体は正直だよね」
雑談のように語られる日々のことを、決して遮らずに聞いていく。
話が一段落すると、「動いた後は、足がビリビリする?」「朝ごはん食べて、またウトウトしちゃうことある?」、話の中から治療のヒントを探り、薬の処方へとつなげる。
聴診器を当て、血圧を測り終えたころ、山崎さんが1冊の大学ノートを差し出した。
「俺、病気がわかってから日記を書き始めたんだ。夜中に目が覚めると不安になって、書くと気がまぎれるから」
「読んでいいの?」、中村先生が丁寧にページをめくる。
「あら! ベッドから落ちそうになったの? 気をつけてね」「ベビースターラーメンの懸賞に応募したんだ。当たるといいね!」、感想を口にしながら、「痛みの周期も書いてあるから、すごく参考になる。ナースと共有させてもらっていい?」、確認をとって日記をカメラに収めていく。
山崎さんは発電機などの修理を手がける技術者だ。
昨年5月にがんと診断され、治療を続けてきたが根治は難しく、今は休業し、痛みを抑える治療を行っている。
「俺ね、毎晩、仕事の夢見るんだ。戻りたいんだよね。そういう思いも含めて先生には知っておいてほしくて。すごく信頼してる。じゃなきゃ、日記なんか見せないよね」
診察を見守っていた、姉・川原由紀子さんが話す。
「以前は、往復2時間以上かけて、がんセンターまで通っていましたが、今は何かあれば中村先生がすぐ来てくださるので安心です。痛みもとってもらって、本人の表情も穏やかになりました。体調もいいみたいで、昨日は家中の網戸を洗ってくれたんです」
その言葉に、「家中の!? すごいなあ」、中村先生は感心しつつ、「痛みでビリビリしたら、お薬飲んでね。あと、気になることがあったらいつでも電話ください」と言い置いて、ようやく腰を上げた。
滞在時間は45分にも及んだ。これだけ手厚い診察を大きな病院で期待するのは難しいだろう。
「あきらめたくない」家族の思い
訪問医療のよさは、「患者さんの情報量が多いこと」だと中村先生は話す。
「病院の外来だと、目の前の患者さんが話す内容が頼りだけど、訪問すると旅行の写真や賞状が飾ってあって、それを糸口に生活ぶりを聞けます。患者さん自身もお家にいる安心感で、よくしゃべってくれるので、病状を把握しやすいんです」
そのためにも、「五感を総動員する」と中村先生。
玄関のインターホンを押した瞬間から、スイッチをオンにする。
「ご家族が『はーい』って明るい声で出るのか、急いで直接ドアから出てくるのか。すべて大事な情報なので、見逃さないようにしています。これ、あんまり書いちゃうと、そこまで見られてる?って、ご家族が意識しちゃうかな」
そんな話をしながら、次の訪問先でインターホンを鳴らすと、「はーい」、明るい声が返ってきた。
ドアから顔を出したのは、母親・滋子さん(91)を介護している又吉千尋さん。
「滋子さん、来ましたよ!」、中村先生が大きな声で呼びかけると、滋子さんが右手を少しだけ動かす。その手を握りながら、「お加減どうですか?」、再び声をかける。
滋子さんは2019年に重度のくも膜下出血を発症。
手術で一命はとりとめたものの、「意識は戻らない可能性が高い」と診断された。
しかし、家族は「できる限りのことをしてあげたい」と、在宅医療に切り替え、この2年、介護とリハビリに取り組んできた。
千尋さんが話す。
「中村先生に来ていただくことにしたのは、退院のときにソーシャルワーカーから、『すごくフットワークのいい先生がいる』と推薦されたからです。実際、先生はどんな相談にも乗ってくださって。特にありがたかったのは、減薬をお願いしたとき、柔軟に対応していただいたことです」
退院当初、滋子さんはほとんど反応がなく、寝たきりの状態だった。打開策を考えていた千尋さんは、投薬中の抗けいれん薬を減らすことで意識障害が改善する場合があるという情報を得て、中村先生に減薬を提案した。
千尋さんが続ける。
「家族の気持ちに寄り添って、『やってみましょう』と、数か月かけてお薬を減らしてくださいました。そのたびに母の意識がはっきりしてきて、退院から5か月後には、口から食べられるようになり、半年後には『ありがとうございました』『みなさんのおかげです』と、話せるまでに回復したんです。これには驚きました。本当にうれしかったですね」
脳の機能障害からか、今はほとんど発語がない状態だというが、リハビリは意欲的に続けている。
「理学療法士や私たちが補助をしながら、立位練習、ペダル漕ぎや、ハンドル回しをして頑張ってます。母こそ、パラリンピックの選手になれそうなくらいです(笑)」
診察を終えた中村先生は、「この年齢で驚きの回復力です。娘さんたちの思いが通じたんですね」、穏やかに話す。
「あきらめたくない」家族の思いと、それに応えたい先生の思いが、奇跡の回復につながったのだろう。
訪問宅では時間を気にせず、患者と向き合う一方、駐車場に戻ると、車内で忙(せわ)しくiPadを操作する。
「事務局からの連絡や、訪問看護中のナースからの問い合わせに、医療用チャットを使って指示を出しているところです。1日中、このやりとりが続きます」
向日葵クリニックは、訪問看護ステーションも併設していて、医師と看護師の連携がスピーディーなことも特徴だ。
訪問看護を行う、向日葵ナースステーション所長・安藤仁子(さとこ)さん(50)が話す。
「気になったことをチャットでドクターに報告すると、すぐに指示が入ります。急ぎの場合は電話で直接話します。薬の調整も、その場でできるので、患者さんも安心するし、私たちナースも不安がない状態で帰ってこられます」
安藤さんは、中村先生の初診に同行することも多い。
「患者さん宅で、1時間も診察したあと、『先生はいらっしゃらないんですか?』って聞かれることがあります。中村先生は女性だし、看護師と間違われやすいんですね。でも、それ以上に、すごく親身で、偉そうなところがないから、医者に見えないんです。在宅医療には、ケアや家族指導も必要です。本当なら看護師が行うことも、中村先生はご家族が不安に思っているようなら、率先して立ち会います。私自身、25年近く在宅医療に関わって多くの医師を見てきましたが、中村先生は本当の意味で患者さんのために働く、数少ない医師だと思います」
コロナ禍で、多くの病院が面会制限をする中、在宅医療を希望する患者は増えている。向日葵クリニックも、患者数が2割ほど増加し、120人を超えているという。
中村先生が話す。
「日中は1~2人の医師で対応しますが、常勤は私だけなので、365日、24時間、いつも呼び出しに備えています。トイレにも電話を持って入るほどです」
なぜそんなに頑張れるのか? 素朴な疑問をぶつけると、「もう生活そのものだから」、さらりと答え、短い沈黙のあとに言葉を足す。
「患者さんに必要とされ、仲間に恵まれて働ける今が、すごく充実しているからかな。昔の苦しかった自分に教えてあげたいくらいです。『大丈夫だよ。あなたにもいい未来が待ってるよ』って」
いじめで知った“心の痛み”
1975年、沖縄県那覇市で生まれた。父親は土地開発の会社を経営し、母親は専業主婦。裕福な家庭でひとり娘として育った。
「母は、私を産む前に流産と死産を経験していて。やっと授かった子どもなので、父は超過保護で、母はかなり教育熱心でしたね」
早くも3歳で医師を志し、小学生時代は塾やお稽古ごとをいくつも掛け持ち。成績は常にトップクラスで、小学5年生のときには、東京女子医科大学に行くと決めていた。
「たまたま書店で手にした本に、沖縄出身の女の子がアメリカで肝臓移植手術を受けて生還した記事が載っていて。当時の日本では脳死が認められていないから、技術はあっても手術ができないという東京女子医大の医師のコメントを読んで、心を打たれたんです。よし! 将来はこの大学に入って、肝臓移植ができる医師になろうと」
もともと、こうと決めたら突き進むタイプ。
いい教育を受けさせたい両親の希望とも重なり、中学からは母親と上京。名門私立の女子中高一貫校に入学した。
ところが、期待に胸を膨らませていたものの、待っていたのはいじめだった。
「音読の時間に、沖縄の方言を笑われたことはあったけど、なぜターゲットにされたのかは今もわかりません。何かがみんなの気に障っちゃう子だったんでしょうね」
今でこそ笑って振り返るが、「トイレの水を飲め」と首根っこを押さえつけられたこともあった。
「さすがに抵抗して、トイレの水は飲まなかったけど、そういう嫌がらせをされるほうがマシだと思えるほど、本当にきつかったのは無視されることでした。じきに、自分は人に好かれることが難しい人間だと思うようになっていましたね」
教師はまったく気づかなかった。母親にも心配をかけたくないから言わなかった。
「しょうがない。しょうがない」、自分に言い聞かせながら、淡々と学校に通った。
投げやりにならず、勉強もコツコツと続けた。
「医者になる目標は持ち続けていたから。別に医学部に合格していじめっ子たちを見返そうって思いもなかったですね。当時、バブルがはじけて父の事業が苦しくなっていたので、負担をかけないよう、できれば国立に行きたいと考えていたくらいです」
結局、初志貫徹とばかりに東京女子医科大学に入学。
長いトンネルから抜け出した。
過去に受けたいじめの傷は、すっかり風化しているという。
しかし、「影響は残ってるんじゃないかな」、25年来の友人で、向日葵クリニック事務長の堤円香さん(45)が話す。
「明澄が医師国家試験を受験する時期、私の実家で2か月暮らしたことがあったんです。そのとき、うちの母が『明澄ちゃんは本当の親に育てられてないの?』って聞くほど、彼女すごく気を遣ってきて。いじめから身を守るために、相手の気持ちを読む癖がついていたのかな。つらい経験だったと聞いていますが、医師になった今、患者さんの心の痛みをすっと酌み取れるのは、彼女自身が痛みを経験してきたからだと思います」
研修医時代に流した涙
初めて在宅医療に触れたのは、大学2年生のとき。地域医療を学ぶため、新潟県の山村に暮らす高齢の夫婦を訪ねたことが始まりだった。
「そこはご近所もないような孤立した家で、ご主人は脳梗塞でベッドから動けず、奥さんも耳が遠くて電話に気づけない。安否確認できないことが問題点でした」
打開策は容易に見つからず、どうにも心配になった中村先生は「私がここに住み込みます!」と宣言し、同行していた保健師に止められたほど。
それほど当時から、患者を思う気持ちが強かった。
しかし、それは「医師に向かない自分」を浮き彫りにしたと振り返る。
学生時代の臨床実習で担当した70代の女性患者が、抗がん剤治療後に発熱。立て続けに検査に回されたときは、「なぜ、高熱が出てつらいのに検査をしなくちゃいけないの」と、憤りを感じた。
20代末期がんの男性患者が危篤になり、延命処置のために家族や婚約者が病室から出され、亡くなってから呼びもどされたときは、「大切な人に手を握ってもらいたかったのでは」と、思わずにいられなかった。
「抗がん剤治療中の患者さんが高熱を出したら、検査をするのは当然だし、延命治療が優先された当時、家族が病室から出されるのも間違ったことではありません。だけど、医者ではない私の感情が、それを受けつけないというか。これでいいのかっていう思いが込み上げてしまって」
2000年、研修医として国立病院機構東京医療センターに就職。晴れて医師として患者を受け持つことになってからは、治らない病気の多さを改めて知り、自分の無力さを痛感した。
「患者さんを助けたくて医者になったのに、実際は助けられないことも多い。打つ手がなくなれば、入院患者は病院にいられなくなる。そこから先、患者さんに何もできないジレンマがありました」
医師には割り切りも必要なのだろう。しかし、中村先生は割り切れなかった。
「患者さんの役に立てないことが悔しくて、情けなくて、研修医用の寄宿舎の裏庭で泣いたこともあります」
ままならない現実にもがきながら、自分に何ができるかを考えた。やがてたどり着いたのが、在宅医療だった。
「医療は病院だけのものでなく、家庭でも点滴や採血など医療行為はできます。ティッシュの空き箱でガーゼ入れを作ったり、針金のハンガーを折り曲げて点滴棒にしたり、暮らしの中に医療が溶け込んでいる光景も大学時代の実習で見てきました。病気を治すことができなくても、患者さんがその人らしく生きるために、医療が関わり続けることはできる。その受け皿になれないかと考えたんです」
研修医を終えるころには、心が決まった。
その後、筑波大学附属病院を皮切りに、勤務医として臨床経験を積むこと10年。
向日葵クリニックの前身となる向日葵ホームクリニック(千葉市)で、訪問医として第一歩を踏み出したのは、36歳のときだ。
患者にのめり込む訪問医
訪問医になって意外だったのは、自分の欠点が長所に変わったことだ。
「病院では効率が求められるので、患者さんのペースでゆっくり食事介助を手伝っていたら、ナースに『早く指示を出して』と急かされたことも。でも、訪問診療では、それが逆に喜んでもらえて」
高齢者施設の訪問診療に行ったときは、「以前の医者は数をこなすように診察していた。こんなに丁寧に診てもらったことはない」と、施設長が感激の声を上げた。
患者の容体が急変し、初めて救急搬送したときは、心配で病院まで追いかけたこともある。
「搬送の手配をしたら、私の役目は終わりなのに。当時の院長に、『そこまでしなくていい』と呆れられました(笑)」
とはいえ院長は、患者のために身を粉にして働く姿に、適性を見抜いたのだろう。
2年後、高齢のため引退する自分の後継者として中村先生を指名した。
「患者にのめり込むタイプの私は、在宅医療に向かないと周りにも心配されたのですが、それでも引き受けたのは、自分の目指す医療がここにあると確信できたからです」
患者思いの訪問医として評判は広がり、次々と新しい患者が紹介された。
中村先生は慢心することなく、往診の合間に勉強を続け、在宅医療専門医、家庭医療専門医、緩和医療認定医の資格を取得。この道のエキスパートとして腕を磨いた。
2017年には、現在の八千代市に場所を移し、「向日葵クリニック」を新規開業。
訪問看護の「向日葵ナースステーション」だけでなく、がん緩和ケアの専門施設「メディカルホームKUKURU」も開設した。
「KUKURUは、沖縄の方言で“心”の意味です。がん終末期の患者さんを自宅で看取りたくても、在宅医療では医師や看護師がずっといるわけではないので、それが不安になったり、ご家族の介護負担が大きくなり、お家にいることが難しくなる場合があります。でも、病院に入院すると、面会が制限されてしまう。KUKURUは、看護師や介護士の介助を受けながら、患者さん、ご家族が安心して、自宅のように過ごせる場所なんです」
開設時には大きな借金もしたが、迷いはなかった。
「医療、看護部門と違って、赤字覚悟の経営です。患者さんとご家族にとって、どうしても必要な場所だと感じていたので、思い切りました」
コロナ禍の今も、PCR検査で陰性が確認できれば、家族は付き添える。
人生の最終段階を迎えた患者にとって、家族がそばにいる安らぎは大きい。
“逝き方”も人それぞれ
在宅医療を始めて10年あまり。これまでに950人もの患者を看取ってきた。
「患者さんにとって大切なのは最期まで、その人らしく過ごせることだと思います。そのためにもご家族には、『頑張りすぎないで』と伝えています。後悔のない、完璧な最期を求めすぎると、無理をしてひずみが出てしまう。『ぼちぼちよかった』くらいがちょうどいいと思うので」
それは、7年前に母親を看取った自身の経験からも言えることだという。
「母は重度の肝硬変で、沖縄から連れてきてからは、施設でお世話になりました。私には仕事があったし、高齢の父に看病は難しい。母は認知症の症状もあり、もともと神経質でおしっこが一滴でもオムツにつくと嫌がるほどだったので、家では対応できないと考えてのことです」
容体が急変し、いよいよ覚悟を決めたときは、病院に搬送して延命処置をするか、父親の意見を聞いた。
「本当は、身体が死に向かっているのに、点滴などで延命処置をすると、むくんだり、のどがゴロゴロして、苦しむことが多いんです。でも、母はまだ75歳でしたから、父が数日でも長く一緒にいたいと望むなら、その気持ちを尊重しようと」
結局、延命は選ばず、中村先生は仕事に行くギリギリまで母親の傍らで手を握り続けた。やがて断腸の思いで立ち上がったとき、信じられないことが起きた。
「もう意識もなく、譫妄(せんもう)で混乱していた母が、その瞬間だけ、われに返ったように、『あみちゃん、元気でね』って、はっきり言ったんです。ああ、思い出すと今でも涙が出ちゃう。それが母の最期の言葉でした」
どこの家庭にも親子のいさかいはつきものだが、中村先生も過干渉の母親に反感を持った時期があった。しかし、母親のこの言葉で、すべてのわだかまりが消えたという。
「どれだけ大きな存在だったか身に沁みました。感謝しかなかったですね」
今年4月に初めての著書、『「在宅死」という選択 納得できる最期のために』(大和書房)を出版。在宅死を選んだ患者と家族のエピソードがふんだんに盛り込まれている。
長年、母親と確執があった70代の娘は、介護が必要となった98歳の母親の世話を精いっぱいし、「お昼寝しながら逝っちゃったの」と泣き笑いの表情を見せたという。
80代末期がんの男性は、家族全員が看取りの態勢に入っていたとき、薬で小康状態を取り戻し、「おにぎりが食べたい」と。妻が好物の鮭でおにぎりを結ぶと、3口食べて、「ああ、おいしい」。これが最期の言葉になった。
ひとり暮らしだった末期がんの50代男性は、「猫の世話がある」と入院せず、1日3回ヘルパーに食事とオムツの世話をしてもらい、愛猫に看取られてひとりで旅立った。
「人にはそれぞれ生き方があるように、“逝き方”も違います。どんな形でも、その人らしい最期だったらいいと思うんです。しっかり生き切った、本人がそう思えると、ご家族も納得できます。私の仕事は、医療を通して、そのお手伝いをすることだと思っています」
病気のことを忘れる時間
中村先生は、医師のほかにもうひとつの顔を持つ。
「ずぶの素人ですが、仲間と一緒にミュージカルの舞台に立ってます」
子ども時代に見た、名作『アニー』に魅了され、大学時代のサークル活動で舞台に立ったのが始まりだった。
研修医時代は、病院内のホールで仲間とともにミュージカルを上演した。
「病院は治療する場所というイメージですが、大学時代に実習で行ったスウェーデンの病院は、カフェやアートがあって、患者さんが楽しめる環境でした。それに刺激を受けて、先生方を説得して実現したんです。研修医として何もできなかったので、せめて患者さんに楽しんでもらいたいと思って」
ホールには400人もの患者が集まり、大盛況だった。
「上演後、患者さんたちが『病気のことを忘れて楽しめた』とアンケートに書いてくれて。1回限りの予定が、定期的にやらせてもらえるようになったほどです」
勤務医時代には、聖路加国際病院名誉院長で当時102歳だった日野原重明さんが手がけた音楽劇、『葉っぱの四季・フレディ』にも出演。
日野原先生のすすめで、2009年にNPО法人キャトル・リーフを設立し、以来、「いのち」をテーマに、病院や特別支援学校、高齢者福祉施設を回り、ボランティアでミュージカルを上演している。
「オリジナルで、みつばちとカエルの恋の話を作ったんです。みつばちたちは嵐で死んでしまうんだけど、人生を生き切った、自分たちのことを思い出してねと言い残す。カエルはその思いを胸に頑張って生きていくという話です。 命はいつか終わるもの。悔いなく生き切ることの大切さを、子どもたちにも伝えたいと思っています」
ともに舞台に立つ、前出・堤円香さんが話す。
「彼女はすごく役に入り込むタイプですが、冷静に舞台全体を見る力もあります。彼女が男役、私が娘役で踊るシーンでは、私の手をグイッと引っ張ってきれいに回らせてくれて。自分をよく見せるより、相手を光らせることを考える。こんな役者、初めてだと思いました」
コロナ禍の今、活動は休止しているが、「収束したら、すぐにでも再開したい!」と中村先生は意欲を見せる。
プライベートでは、2010年に結婚。子どもはいない。
「子どもは自然にまかせた結果です。だけど、授からなくてよかったかも。こう見えて、そんなにメンタルが強くないので、子どもがいたら、仕事ばかりしてごめんねって罪悪感で押しつぶされていたかもしれないので」
運転しながらそう話すと、赤信号で止まったとたん、持参したカレー弁当を急いで口に運ぶ。往診の合間に、車内で遅い昼食をとるのが日課だ。
将来の夢を問うと、返ってきたのは、やはり患者のためのことだった。
「高齢者や終末期の患者さんが、わくわくできる場所をつくりたいですね。歩くのが難しくてもラクに移動でき、川が流れる公園やホールがあって、食事やショッピングもできるような施設を。莫大な資金が必要なので、行政と協力しあえる仕組みをつくれればいいな。まだまだ妄想してるだけですが(笑)」
患者を思う気持ちが人一倍強い中村先生のことだ。きっと動きだすに違いない。
「さあ、着いた!」、車を駐車場に止めると、患者が待つ家に向かう。
その背中は、ちっとも大きくないのに、すごくたくましく見えた。
(取材・文/中山み登り)