パラリンピックの「名付け親」の意外な正体とは?

 コロナ下での開催に反対世論が噴出していた上に、開幕直前には複数の関係者が過去の言動を問題視され、辞任・解任が相次ぐなど、騒然とした中での強行開催となった東京オリンピック。

 しかし、蓋を開けてみれば、開会式のテレビ視聴率が驚異の56.4%(世帯平均視聴率/関東地区。個人視聴率も驚愕の40.0%)。その後もサッカーや柔道、卓球など世帯視聴率25%超・個人視聴率15%超の中継を連発。世帯視聴率15%・個人視聴率8~9%が高視聴率の目安とされている現在の日本のテレビ界にとっては“大成功”に終わった大会と言わざるをえません。

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 また選手たちも、金メダル(27個)・総メダル(58個)の日本代表獲得数が、いずれも史上最高を達成。無観客とはいえ、国内開催であった地の利を活かし、大成功を導き出した大会でもありました。

 ですが、まだ「東京2020」は終わっていません。8月24日には、いよいよ東京パラリンピックが開幕。オリンピックと比べると、残念ながら注目度では劣るパラリンピックですが、過去の日本選手たちの活躍度はオリンピック代表に劣ることは決してなく、大いにメダルラッシュが期待できる大会でもあるのです。

パラリンピックの起源は?

 現在のオリンピック競技大会が始まったのは、1896年。フランスの教育者であるピエール・ド・クーベルタンの提唱により、ギリシャの首都・アテネで第1回大会が開催されています(ちなみに、今回の東京オリンピックは第32回大会)。

 その後、1924年にはフランスのシャモニー・モンブランで第1回冬季オリンピックもスタート。来年2月開幕予定の中国・北京大会が第24回となります。こうしたオリンピックの歴史は、しばしばクイズ番組の問題にもなったりしますよね。

 対して、パラリンピックはいつから始まったのでしょうか? こちらをご存知の方は意外に少ないのでは。

 その歴史を紐解く上で最重要人物は、ルートヴィヒ・グットマンという方です。彼は1899年、ドイツ北東部のトストという小さな町(現在はポーランドのグリヴィツェ郡トセク)で生まれたユダヤ系ドイツ人。

 ライプツィヒ大学卒業後、脊髄損傷治療を専門とする医師となりましたが、ドイツ国内でナチスによるユダヤ人迫害が徐々に顕著になっていたことを恐れ、1939年、40歳のとき、イギリスへ亡命。そして1944年には、ロンドン郊外に設立されたストーク・マンデビル病院の脊髄損傷センター所長に就任します。

 その後、ストーク・マンデビル病院には、第2次世界大戦で手足をはじめ、さまざまな機能を失った重傷兵士たちが次々と入院してきます。彼らの多くは、自分を受け入れてくれた国の人間であり、自分を追い出したナチス・ドイツと戦った、いわば命の恩人たちです。単なる医師として以上の感情が込み上げてもおかしくはないでしょう。

 彼ら重傷兵士たちを前に、グットマン医師は、こう言い放ったそうです。

「失われたものを追いかけるのではなく、残された機能を伸ばしていこう」

 そうして彼は、リハビリテーションに重きを置く方針を打ち出します。その一環として、特に力を入れたのが……スポーツでした。機能回復に有効な手段であり、何よりも楽しみながらできることが最適だと考えたのです。

 そして1948年、その成果を測るべく、院内の車いす使用患者たちを集め、アーチェリー大会を開催。その後も定期的に開かれるようになりました。このことが、ヨーロッパ各国でも報道され、1952年には、オランダの病院がこの大会への参加を打診してきます。1ヵ国でも外国の参加があれば、立派な国際大会。こうして「第1回国際ストーク・マンデビル競技大会」が開催の運びとなったのです。

 その後も近隣諸国から続々と参加を得て、競技種目数など規模も拡大。そこでグットマン医師は、オリンピックの開催地と同じ場所で「国際ストーク・マンデビル競技大会」を開けないかという構想を練ります。それに応える形で、イタリアのローマが1960年の夏季オリンピック閉幕後に、この大会の開催を決断。現在のパラリンピックのスタイルが確立されたというワケです。

パラリンピックの名付け親は?

 では、パラリンピックという名称を考え出したのは誰なのでしょう?

 大会の提唱者であるグットマン医師が1960年のローマ大会で名付けたのは「第1回国際ストーク・マンデビル車いすスポーツ大会」です。パラリンピックという名称はまだ使われていません。

 ここで浮上するのが、ローマの次、1964年の夏季オリンピック開催地だった日本・東京です。紆余曲折あったものの、東京でも開催が決定。しかし、そのニュースを伝えるにも、「国際ストーク・マンデビル大会」では、何の大会なのかアピールしづらいと日本の新聞社は考えました。

 そこで「Paraplegia(対麻痺という医学用語。脊髄損傷による下半身不随の意)」という言葉に着目し、それと「Olympic=オリンピック」を合わせた「Paralympic」という造語を生み出し、それを大会の愛称として打ち出したのです(※異説あり)。

1985年「パラリンピック」の名が採用

 語呂の良さもあり好評ではあったものの、その後、必ずしもオリンピック開催地で行われるという原則が守られなかったこともあり、正式な名称としては認められていませんでした。

 その流れが変わったのが、1985年。ソウル夏季オリンピックを3年後に控えたこの年、IOC=国際オリンピック委員会が、「国際ストーク・マンデビル大会」の大会運営に直接関わることとなり、それを機に名称が正式に変更されることに。そこで、既に愛称として定着していたパラリンピックが採用。

 ただし、語源であった「Paraplegia」の選手だけでなく、様々な障がいを抱える選手も多く参加していることから、「Parallel(もう1つの意)」を語源とする「Paralympic」とすることに決定。同時に、オリンピック開催地に立候補する際には、パラリンピックも開催することが義務づけられたのです。

 パラリンピックという名称誕生の陰に、日本人の影あり……。何だか少しだけ、誇らしい気分になりませんか?


小林 偉(こばやし つよし)Tsuyoshi Kobayashi 
メディア研究家、放送作家、日本大学芸術学部講師。東京・両国生まれ。日本大学藝術学部放送学科卒業後、広告代理店、出版社を経て、放送作家に転身(日本脚本家連盟所属)。クイズ番組を振り出しに、スポーツ、紀行、トーク、音楽、ドキュメンタリーなど、様々なジャンルのテレビ/ラジオ/配信番組などの構成に携わる。また、ドラマ研究家としても活動し、2014年にはその熱が高じて初のドラマ原案・脚本構成も手掛ける。