「うん間違いないっ!」「どんだけ自己中」……これってなんだかわかります? 実は、高級食パン専門店。その仕掛け人が日本で唯一のベーカリープロデューサー、岸本拓也さん。ユニークな店名を体現したような奇抜なルックスにまどわされてはいけない。地産地消の食材を中心に作られるパンも、その志も大まじめ。ガレキの残る被災地で、高齢化が進む過疎の町で、パンを通じて人々をつなぐ岸本さんの思いに迫ります!
やけに気になる奇妙な看板
最近、街を歩いていて、こんな奇妙な看板に遭遇したことはないだろうか?
筆者が東京・練馬の西武池袋線練馬駅のロータリーのそばで目撃したのは、
『うん間違いないっ!』
オレンジがかった黄色の地色に、明朝体の黒い文字がやけに目立つ。
何なんだ、これは? 確かここは小さな地元の不動産屋があった場所だ。いつの間にか店が変わった気がしていたのだが……。おそるおそる近づいてみると、どうやらパン屋であるらしい。こちらに気づいた店先の女性が、「いらっしゃいませ」と笑顔で声をかけてきた。
聞くと、食パンの種類は4種。プレーンなタイプの『Oh!間違いない』のほか、レーズン入りやチーズ入り、抹茶風味もある。
プレーンの食パンを購入すると、2斤サイズで1つ870円。食パンとしては高級だが、驚くほど高いわけでもない。
パンは黄色い紙袋に入れて手渡された。真っ赤なスーツを着たドレッドヘアの男が両手を広げるイラスト入りだ。持つと、お、重い。ずっしり。
この奇妙な看板の店は、今、全国に増殖している。その数はざっと300以上ある。
主な店名を挙げてみよう。
『考えた人すごいわ』(東京都、宮城県ほか)
『どんだけ自己中』(東京都、山梨県ほか)
『おい!なんだこれは!』(新潟県ほか)
『わたし入籍します』(大阪府、兵庫県)
『偉大なる発明』(鹿児島、熊本県ほか)
『午後の食パン これ半端ないって!』(神奈川県)
『もう言葉がでません』(鳥取県、島根県)
『すでに富士山超えてます』(静岡県)
『あの人はナルシスト』(北海道)
『告白はママから』(東京都)
『不思議なじいさん』(富山県)
もうキリがないほどだ。
パンの食感はもちもち。甘みがあって、焼かないでそのまま食べてもおいしい。「お土産にもらったらうれしいだろうな」と素直に思う。
これらの全国に点在する「パン屋さん」は、同じ人物がプロデュースしたものである。いまや「ベーカリープロデューサー」として多くのメディアに引っ張りダコの岸本拓也さん(46)だ。
ユニークすぎる店名に込められた思い
東急田園都市線・青葉台駅(神奈川県横浜市)からほど近い年季の入ったビル。その2階に、岸本さんが社長を務める会社、『ジャパンベーカリーマーケティング』はあった。「美容院と間違えて入ってくる人もいる」という社内は、廊下がガラス張りで光が差し込んでくる。さりげなく置かれたインテリアやアートにもこだわりが感じられる。
そこに現れた岸本さんも、こだわりたっぷりのいでたちだった。
テンガロンハットに派手なサングラス、長髪に髭。服は極彩色の重ね着、足元のスニーカーは蛍光色で、しかも左右別々の色である。アニメのキャラクターとして登場してきそうな実に「濃い」スタイルだ。
「こんなふうに服装が自由になり始めたのはここ5、6年ぐらいですね。その前はスーツ。プロデューサーとかコンサルタントを名乗る人は、スーツを着るものだと思っていましたから。“この格好は自分の本意なのかな”と考えたときに、もっと自分らしく表現したいと思うようになったんです。そしたら、こうなっちゃいました(笑)」
ベーカリープロデューサーの仕事は、「パン屋さんを開きたい」というオーナーから依頼を受け、店の場所や人の流れを分析することから始まる。そして店名を考え、外装や内装をデザインし、商品開発も行う。
「ご指摘のとおり、僕のプロデュースする店は変な名前が多い。でも、もし店名が気になって仕方がないとしたら、それはまんまと僕の狙いどおりなんですね(笑)」
確かに、街でこの看板に遭遇したら、誰もが釘づけになってしまうだろう。
「奇をてらっているわけではありません。ネーミングのポイントは、覚えやすくて、ちょっとダサいこと。“ダサさも突き抜けるとカッコよくなる”という持論があるんです。こうした店名をつけるのは、とにかくお客さんに知ってもらい、覚えてもらうため。提案した店名をオーナーさんに拒絶されたことは、これまでに1度もありません」
その戦略の効果は実証ずみだ。例えば、東京都清瀬市にある『考えた人すごいわ』はオープンから3年がたつが、いまだに行列が絶えない。864円の食パンを1日500本ほど売り上げている。
「かつてない口どけの高級パンというのが商品の特徴。そこから、食べた人が思わずつぶやいてしまうであろう言葉を考え、店名にしたんです」
目を引くのは店名だけではない。店舗の側面には大きく「秘伝」の文字。ショッパーと呼ばれる持ち帰り用の紙袋には、ギリシャ彫刻のソクラテスのようなデッサン風のイラストが描かれている。
「お客様に非日常のワクワクを感じてもらうために、そんな演出を施したんです」
こんなエピソードがある。小学校の授業で、先生が子どもたちに「みなさんの好きなパンは何ですか?」と聞いたところ、
「メロンパン!」
「アンパン!」
そんな声が上がる中で、
「考えた人すごいわ」と言った子どもがいたという。
快進撃を続ける岸本さんだが、ここに至るまでには、数多くの思いがけない出会いがあった。
被災地・大槌でパンを通じて復興支援
2012年のこと。岸本さんはある試みの最中だった。パン屋さんを始めたい人へ腕試しの場を提供する「レンタルパン屋さん」の事業に取り組んでいたのだ。
「いろんな人がパン作りをやってみたいと声をかけてくれました。この事業が神奈川新聞に記事として掲載されたんです」
偶然、記事を読んだひとりが、岩手県大槌町でボランティア活動を進めていた公益社団法人の田中潤さん(62)だった。田中さんが当時を振り返って、こう話す。
「事業活動の一環として、町民のみなさんに“何が必要ですか”と希望を聞いたところ、圧倒的に“焼きたてのパンが欲しい”という声が多かったんですね。そんなとき、たまたま新聞記事で岸本さんの存在を知って連絡したんです」
パン屋さんを作って、地元の人を雇用していけば、復興にもつながるのではないかと考えたのだ。
ただ、岸本さんによれば、
「最初、田中さんは勘違いされていた」そうだ。
「パン作りの機械を大槌町にレンタルできるのでは、と思っていたそうです。僕は“それはできないんですよ”と伝えました。でも、僕も“実はベーカリーを作りたいというアイデアがあって”と言ったら、興味を持ってくださった。それで早速、連絡のあった翌週に妻と2人で大槌町に行ってみたんです」
東日本大震災から1年を経てなお、そこはまさに「惨状」といえる状態だった。見渡す限りのガレキと土……。
「今でも当時のことを思い出すと砂ぼこりのにおいがよみがえってきます。人が並んでいたのはコンビニとパチンコ屋だけ。かつてあった街の風景が完全に失われていました」
大槌町は津波の被害が大きく、1200人超もの犠牲者を出している。建物もすべて流され、役場もなくなってしまっていた。
岸本さんは、大槌町で町民にヒアリングをしてみた。
「高齢者も多く、20代は少ないことがわかった。以前の仕事を尋ねると、水産会社で働いていた人などもいました。“スーパーで惣菜を作っていました”とか“揚げものをこしらえることはできる”という声もあって、僕らがマニュアルを用意すれば、パンは作れると確信したんです」
パンの購入という日常のニーズを満たすだけではなく、「楽しさやエンターテイメントも作り出して、元気をつけていきたい」と言う田中さんに共感した。
「僕が大槌町のみなさんに喜びを提供すれば、田中さんは(パンの売買だけにとどまらない)付加価値を提供することができるんじゃないか。そう思って、僕のほうから“ぜひやらせてください”と申し出たんです」
では、どんなパンを作るべきか。岸本さんは岩手県を回って、そのヒントを探した。
「岩手のソウルフードはコッペパンでした。子どもからお年寄りまで相手にするなら、甘いものから辛いものまでそろえなければいけない。そこに、コッペパンをぶつけるのはおもしろいと思ったんです。コロッケを挟んでもいいし、はんぺんなどの水産加工品を挟んでもいい。特産物でもいいでしょう」
その当時、岸本さんは“パン職人は10年以上、修業しなければ実力が認められない”という業界の不文律に疑問を持っていた。
「僕は、お客様に喜んでいただくことに関していえば、10年修業した人じゃなくてもできると思っていました。製パンの知識と確固たる技能やマニュアルが存在すれば、ベテラン職人でなくてもベーカリーは作れるということを薄々感じていたんです」
その考えをもとに準備を重ね、'13年2月、コッペパンを中心にした『モーモーハウス大槌』というパン屋さんが誕生した。
大勢の町民が店に集まってくれた。ふわふわのやわらかなコッペパンだから、3歳くらいの小さな子から、歯が悪いおじいちゃん、おばあちゃんまで食べられる。
「みんなが“おいしい、おいしい”と食べてくれた。お孫さんと一緒に来たおばあちゃんが喜んでくれて、僕は田中さんたちの前で泣いちゃったんです。パンは人と人の触れ合いをつなぐんだな、と思いましたね」
これこそがパンの魅力じゃないか──。岸本さんはそう感じた。
人や地域とのつながりを大切に、課題にもサービス精神をもって向き合い、楽しませる。そうした岸本さんらしさは、すでに少年時代に萌芽があった。
コンプレックス少年からホテルマンへ
岸本さんは1975年、神奈川県に生まれた。
現在の姿からは想像もつかないが、小学生の彼は引っ込み思案でコンプレックスの塊だったという。
というのも1歳のころに交通事故に遭い、言語障害になってしまったからだ。周囲から「どもりん」と呼ばれたり、からかわれたりすることも多かったが、リハビリに通ったおかげで中2から症状は改善された。
もうひとつ、拓也少年のコンプレックスを解消してくれたのが父親の存在だった。
父親は消防局に勤める公務員。夏休みになると、姉と拓也少年をいろいろなところへ連れていってくれた。それも、行き先は日本全国。熊本、高知、長崎、大阪など、東京近郊からは、なかなか行けない場所ばかりだった。
「あのときの経験が今の自分に影響していますね。僕は常々、発想の源は“音・旅・服・食”。だからもっと遊ばないとダメだ、と社員に言ってます。“自分が楽しまないとお客さんを楽しませられない”とね」
中学からは私立の中高一貫校、桐光学園に進学。そのころ、たまたま姉の家庭教師だった大学生の影響で音楽の楽しさを知る。高校生になると、音楽にのめり込み、バンドを結成して片瀬江ノ島にあるライブハウスでライブをするようになっていた。
「スポーツは苦手だったけど、ギターが弾けるとモテることに気づいた(笑)。いつしか目立つことが好きになっていましたね」
生徒会長に立候補して就任するほどに活発だった。将来は航空会社の男性キャビンアテンダントになろう、と関西外国語大学に進学する。
大阪に行った岸本さんは、関西のファッションに出会い、そのおもしろさに夢中になった。大学にはほとんど行かず、パブやレコード店でのアルバイトに明け暮れて、バイト代が入ったら服と彼女につぎ込む日々。このときのファッションが、今のスタイルの原点となっている。
卒業後は、航空会社へと思っていたが就職活動は全滅。客商売が好きだったのと、海外にも行けるだろうと考え、外資系ホテルに就職した。
ホテルマンになったものの、杓子定規のルールにはなじめない。それでも親しくなったお客さんからの誘いでニューヨークに行ったり、ボーナスをつぎ込んで、フランスを旅したりしていた。
あるとき、岸本さんの企画力に目を留めた料理長の推薦で企画部門に配属された。そこでレストランやベーカリーなどの飲食部門のマーケティングを任されるようになると、徐々に独立の意志を固めていった。
その後、29歳で退職。高級ホテルにある店でも数百円で買えて、老若男女に愛されるというおもしろさに惹かれ、「パン屋さんをやろう」と心に決めていた。それからスーパーで派遣社員をしながら資金を貯め、横浜・大倉山にパン屋さんを開店させた。その名も『TOTSZEN BAKERS KITCHEN』(トツゼンベーカーズキッチン)。30歳のときだった。
「岸本さんの店はお客を選んでいる」
岸本さんが開店させた店舗は、自身がホテルに勤めていたときに受けた感動を届けようと、思いっきりスタイリッシュな店にした。
「主力商品はフランスパンなど、噛むとあごが疲れるようなかたい食感をしたハード系のパン。そこへホテルマンのようなスーツを着た店員が“今日の夕食のメニューはお決まりですか?”と聞く。お客様が“シチュー”と答えたら、“それならフランスの粉を使ったバゲットもいいけど、国産のほうがいいかもしれませんね”などと、シチューに合うパンをおすすめするような店でした」
「水にこだわったパン屋さん」として、世界じゅうの水の中から小麦粉ごとに相性のいい水を選んで仕込みに使い、雑誌で紹介されたりもした。
「当初は非常にマニアックなベーカリーをやっていたんです。パン好きの方が遠方から来てくださり、いろんなマスコミにも取り上げられていました。でも、その一方で『木を見て森を見ない』状態に陥っていました。一部のお客さんとの絆は深まっているけれど、ふと全体の売り上げを見ると、下がっていたのです」
当時は高級ベーカリー・ブーム。東京に新しいパン屋さんが次々とオープンし、マニアックなお客はそちらへと流れ始めた。
売り上げは右肩下がりに落ちていった。社員にボーナスも出せない。それどころか、毎月の給料も苦しい。
新しいレストランに営業をかけるのだが、営業先として選ぶのはミシュランの星がついているような有名店ばかり。
「やっぱり、プライドだけは変に高くなってしまっていたんですね。そんなどん詰まりのときに、ふとしたきっかけがあったんです」
大倉山にある保育園の園長は岸本さんの店の常連客だった。ある日、園長から「うちの保育園にパンを届けてくれない?」と声をかけられた。
「こういうパン、作れない?」
そう言って園長が取り出したのは、メロンパンやロールパンだった。
「実はうちの店でも少しはやっていたんだけど、それほど力を入れる商品でもなかったし、これを大量に作るとなると、こだわりのパンがなかなか作れなくなる。それで1回考えさせてもらいました」
葛藤はあったのだが結局、岸本さんはリクエストにこたえてメロンパンやバターロールを作って届けた。
「できあがったパンを僕が自分で配達したんです。すると保育園児たちがむちゃくちゃ喜んでくれた。経営がなかなかうまくいかない大変さと、子どもたちが心(しん)から喜ぶ姿に感極まってしまって……、自然に涙があふれてきましたね」
保育園での体験を経て、岸本さんは素直にいろいろな人に相談してみることにした。以前から親しくしていた、パン屋さんに原材料を仕入れる問屋の営業マン・石崎亮さん(42)を居酒屋に誘って、こう聞いてみた。
「うちの店のよくないところを、何でも遠慮せずに言ってくれ」
すると石崎さんは、ためらわずに告げた。
「岸本さんの店は、お客さんを選んでます」
「選んでる?」
「そうです。実際、売り上げが下がっているじゃないですか。だから、僕は幅を広げたパン屋さんをやったほうがいいと思います」
初めて人にそう言われた。それをきっかけに、「本当に自分のしたいことは何なのか」という思いが込み上げてきたと岸本さんは言う。
「それまで僕は、一部のパン好きにウケる店作りをしていました。でもやっとそこで、地域の中で必要とされるパン屋を作るべきだ、という発想が生まれたんです。音楽でいうとaikoさんの歌みたいな、誰もが気負わずに行けて親しみやすいパン屋さん。みんなに楽しんでもらえたほうが、僕の喜びも大きいことに気づきました。また同時に、パンを通じて街を元気にするという目標もできたんです」
経営不振から資金もない中で、知人から借りた50万円で店をリニューアル。劇的に変えたのは、スーツと対面販売をやめたことだ。さらに、お客さんが自分で好きなパンをトングで取って選ぶスタイルに変えた。
「店には常時焼きたて、揚げたて、作りたてのパンが並ぶようにして、外にオープンデッキをこしらえ、そこでお客様がパンとコーヒーを楽しめるスペースも作りました」
さらに、邪道だと思っていた「明太フランス」や惣菜パン、菓子パンも扱うようになった。
変革は自分の店だけにとどまらない。何かもうひとつ、違うビジネスができないだろうかと考えて作ったのが、パン屋を開きたい人の開業支援をする「ベーカリープロデュース」だ。その試みとして始めたのが、パン屋さんを始めたい人に腕試しの場を提供する「レンタルパン屋さん」だった。追い詰められ、どん底を味わって始めたチャレンジが、のちに岩手県大槌町との縁をつなぐことになっていく。
日本唯一のベーカリープロデューサーに
大槌町に作ったパン屋さんはメディアでも盛んに取り上げられ、岸本さんは一躍、時の人となった。
そして、反響の大きさに手ごたえを感じ、以前から考えていたあることに確信を抱くようになる。それは、「手作りにこだわらなくていいじゃないか」ということだった。
「パン業界では、手作りに価値があるとされています。でも今は冷凍技術も発達しているし、いい機械もある。それなのに、長時間労働を続けて疲れ果ててしまい、宣伝や接客、販売のほうにまで手が回らないパン屋さんがすごく多い。実は効率化・合理化を進めていくと、パン屋さんのオーナーは、必ずしも製パン経験者でなくてもいいんです」
この自説に岸本さんは自信があったが、なかなか大きな声では言えない業界の空気があった。そこで'13年、「ジャパンベーカリーマーケティング」という自身の会社を立ち上げた。未経験者でもパン屋のオーナーになれるベーカリープロデュースの仕事を本格的に始めたのだ。
プロデュース業を始めた当初、岸本さんはスーツに身を包み、お客様の要望をすべてかなえるようにしていた。お客様の考えた名前をつけて、お客様の考えたパンを売るという店づくり。しかし、そこにはわだかまりもあった。
「単にお客様の御用聞きをしてオーダーメードをするのならば、それはただの代行商社になってしまう。それより物件から何から自分で見つけて、店名、店舗のデザインもグラフィックも全部トータルで見ていかなければ、プロデューサーとはいえないのではないかと思ったんです」
そこで、自分のファッションセンスを思いっきり伝えようと割り切り、現在のような服装に身を包み、真のプロデュースを目指すようになったのだ。
岸本さんが大切にしたポイント。それはまず、老若男女に愛されるパンを作ること。みんなが欲しがる「やわらかいパン」がターゲット。パンの種類でいえば、食パンだ。
「食パンは“ご当地”で作れるという確信が僕にはありました。“ギフトになる、わが街の食パンを作ろう”と宣言し、子どもからお年寄りまで食べられるやわらかいパンを目指して研究開発。その2年後、おいしいパンができあがりました」
このパンの開発に携わってきた同社の今井美希さん(30)は、できあがったパンを岸本さんが試食したときのことを今でも忘れないと話す。
「うまいよ、今井。めちゃくちゃうまい。これ考えた人すごいわ。考えた人、誰? 俺だろ? すごいな、俺」
「そうです。社長です」
そんな会話をしたことを今でも思い出す。
「びっくりしましたよ。まさかそれが店名になるなんて思いもよりませんから。社長はいつも、そうやって想像がつかないことをやる。毎回、どうやってあんなネーミングが出てくるのか不思議。とにかく社長は人にサプライズをするのが好きなんですね」(今井さん)
「障害者の就労支援」にもパンで貢献
岸本さんがプロデュースしたパン屋さんのひとつ、冒頭に登場した『うん間違いないっ!』は現在、東京都練馬区などに4店舗を展開している。
オーナーは、障害者の就労支援を行う事業所「ワークスタジオWel」代表・加藤奈穂さんだ。
「軽度障害者の就労支援の一環としてパン工房がやれるんじゃないかと思って、テレビに出ていた岸本さんに連絡を取ったのがきっかけです。おいしいと評判になり、すごい行列ができました。現在でも1店舗平均、平日200〜250本、週末は300本以上の食パンが売れていますね」
店舗とは別に工房があり、そこで、30人ほどの障害者のみなさんがパン作りやラスク、サンドイッチ作りに従事している。
オープンして3年、経営していくうえで大変なことを尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「販売するのは当日焼いた分だけ。どのくらい売れるかの生産調整が難しいですね。サンドイッチにする分もあるし。売れ残ったらラスクにしたり、フードロスにならないよう工夫しています。また、練馬区の子ども食堂にもパンを寄付しているんです」
岸本さんの考え出したユニークな「パン屋さん」は、障害者の就労という社会貢献の形も生み出しているのだ。
すべての市町村に「パン屋さん」を
「僕の作る高級食パンは、主食であると同時に、“私たちの町にこのようなパン屋さんがありますよ”と、外からお客さんを呼び込み、手土産にもなるような“ギフト”でもある。だから、おいしいものを基準に、その店のオリジナルを作ろうとしています。小麦粉やハチミツなど地域の食材を徹底的に調べて、商品ごとに使い分けたりもします」
その対象は高級食パンだけではない。北海道札幌市にオープンさせたカレーパン専門店『カレーパンだ。』をはじめ、牛乳パン、塩パンなどさまざまな種類をそろえた『あの人はナルシスト』など、新たな店作りを展開させている。
「例えば人口3万人くらいの町に、まずわが社でパン屋さんを作って軌道に乗せ、それから地元の高齢者に店を譲渡するビジネスも考えています。まだまだ元気で身体も動くという高齢者も多いですからね。高齢化が進んで、若い子が減って働き手がいない問題は切実。だから、問題解決に向けたきっかけを僕は作っていきたいと思っています」
現在、新潟県柏崎市でも直営店舗のオープンを計画している。
「地方を活性化していこう、地方の街をどれだけ盛り上げられるかというのが僕の課題。パン屋さんを通じて元気になってもらい、さらにパン以外のおもしろさも伝えていければと思っています。
今年の7月に元・日本代表のサッカー選手やプロレス選手、アーティストのみなさんに集まってもらって釧路でイベントを開いたのですが、今後もそのような活動をしていきたい。ステレオタイプな地方の商業施設やショッピングモールとは別の形を見せていきたいんです」
パンがつなぎ育んできた家族のぬくもり
プライベートでは結婚して9年目。
岸本さんの伴侶で、同社専務でもある稲垣智子さんは、パンコーディネーターや商品アドバイザーとしても活動している。
稲垣さんが言う。
「仕事のパートナーとしての岸本は、温かみのある人格者ですね。社員を楽しませる社長。私はシャキシャキなんで正反対(笑)。おたがい忙しいからあまり家にいられないけど、月に1回は家族で温泉に行ったりしています。望むのは、とにかく健康に気をつけてほしい。それだけです」
芸大出身で建築が専門だというこの妻に、岸本さんは助けられている。
「妻は厨房の図面などを見るのが得意。商品開発の監修もしています。夫婦で“こういうパンがいい”という共通認識を持っているのが強みですね。パンの専門学校でお互い講師をしていたときに知り合ったんですが、僕はこんなふうなんで、彼女に会社を守ってもらっています(笑)」
パンなくしては語れない家族とのつながり。岸本さんには、忘れられない母との思い出がある。
「母親が毎週、金曜日に買ってきてくれるケーキ屋さんのパンが超おいしくてね。イギリスパンだったんですが、ゆで卵とコーヒー牛乳と一緒に食卓に出されるんです。いまだにあのパンを超えるパンはないな、と思っています。そんなふうに、常に暮らしを彩るのがパンだったんです」
母親が亡くなったときにも、パンが傍らにあった。
「火葬場にパンを持っていったらすごく喜ばれたんです。当時、うちの母親が好きだった黒ごまアンパンとか。もちろん葬儀場だから料理は出てきたんだけど、みんなパンがおいしいと言ってくれて、棺桶にもパンを入れました。
僕はものを演出するのが好きなんで、こんなことを考えちゃう。人生のエンディング・ステージで、作りたてのパンを提供する。お葬式というのはすごくやってみたくて、“パンが美味しいお葬式”というんですかね。そんなこともやっていきたい。いつものメンバーで、いつもの焼きたての美味しいパンを食べる──。いいお葬式だと思いませんか?」
ひたむきな情熱とアイデアを形にする行動力。それらがある限り、岸本さんの快進撃は止まりそうにない。
取材・文/小泉カツミ
こいずみ・かつみ ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数