ルー大柴(67)古着店巡りにハマっているそうで、この日の衣装も古着店などで購入したもので自らそろえたそう

 かつて注目を集めた有名人に「ブレイク中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、当時は言えなかった本音とは? 第30回はクドいキャラクターと独特な“ルー語”でブレイクしたルー大柴(67)。40代で仕事が激減したものの、50代で再び脚光を浴びることができたワケとは―。

どんな形でも世に出られるなら……

20代は役者をやっていたけど売れなくて。結婚して子どももいたから、結婚式の司会のプロになるのもいいかな……とぼんやり考えていたね

 '90年代、「トゥギャザーしようぜ!」など、英語と日本語を交えた“ルー語”とハイテンションな芸風で大ブレイクを果たしたルー大柴

「俳優の三橋達也さんの付き人を2年ほどしていました。その後、事務所に所属したものの俳優としては泣かず飛ばず。そんなとき、勝新太郎さんが『勝アカデミー』という俳優養成所を開くと聞き、1期生として入学。小堺一機くんはそのときの同期生です」

 ブレイクのきっかけは、俳優を辞めて別の仕事を探していたときに、関根勤に誘われて出演したラジオだった。

「卒業後は細々とモデルの仕事もしていたんだけど、ある日、関根さんが私のパンフレットを見て爆笑したみたい。どうやらカジュアルなファッションにウエストポーチをつけた僕の姿が面白かったみたいで。

 ラジオで話したら反響があったらしく、それで電話があって出演オファーされたの。でも“俳優は辞めたし、家庭もあるから”と断ったんだけど、どうしても……とお願いされて出演したところ、話題になったんだ

 その後、関根が主宰する劇団『カンコンキンシアター』の旗揚げに参加することに。すると、インパクトの強いキャラクターで注目を集め、一気にブレイクを果たす。

20代のときもチョイ役でテレビに出たことはあったけど全然ダメで。だから自分には才能がないと思っていたから、関根さんと同じ浅井企画から誘われたときは、どんな形でも世に出られるなら……と破れかぶれだったね

 そもそも、ルー語はどのようにして生まれたのか。

父親が中国語と英語とロシア語を話せる人で、子どものころから英語と日本語を交えて話していたんだよね。1年弱、ヨーロッパを放浪していた時期もあったから、帰国後は自然と「ウェイト!」とか会話に英語が交ざる感じで。当時はそういうタレントがいなかったので、新鮮だったんだろうね

“ルー語”は僕の1つの顔にすぎない……迷いの40代

 浅井企画がお笑い事務所だったこともあり、所属後は芸人として引っ張りだこに。

「芸人という意識はなかったけど、関根さんにも“お笑いの仕事のほうが向いているんじゃない”と言われたし、実際に各局でレギュラー番組を持たせてもらえるようになりましたね。亡くなった母親なんて、“女房と子どもを泣かすな。ちゃんと働け!”と叱っていたのに、売れたとたん“いつか売れると思っていた”と、手のひらを返していましたからね(笑)」

 しかし、休む間もないほど忙しくなったことで、悩むようになる。

ルー語を話したり、みなさんがイメージするクドいキャラクターは僕の1つの顔にしかすぎない。でも世間から求められるのは毎回同じもので……。それで精神的にダウンしたときもありましたね

俳優を目指していた20代。ブログでこの写真を公開すると「二宮和也に似ている!」と話題に

 バラエティー番組の仕事に疲れたこともあり、並行して俳優の仕事も開始。しかしタレントとしてのオファーは激減し、40代に入ったころにはレギュラー番組がゼロになる。

タレントの仕事が嫌になったわけではないので、オファーがあれば出演はしていましたが、目に見えて仕事が減っていたので、自分でも“売れなくなったな”と実感していました。でも以前のようにテンションを上げて、どんな仕事でもこなす……というのも年齢的にしんどいなと思っていたので、40代はいろいろ迷っていましたね

 そんな彼の転機になったのが、現在もマネージャーを務める男性・M氏との出会い。

「'07年に年齢がひと回り以上離れた現在のマネージャーに代わった際、“今のルーさんは中途半端。役者なのか芸人なのかわからない”とはっきり言われました。僕からしたらうれしくないサプライズですよ(笑)。そのときに売れて天狗になっていたノーズ(鼻)もガッツリ折られました。

 “もっと売れたいなら今までのルー大柴は捨てるべきだし、意識改革が必要。そのお手伝いならできます”と言われたので、彼に任せてみようと。成功する保証はないけど、彼についていくことにしました。それで、彼に提案されたブログが2度目の転機になりました

再ブレイクの起因は“マインドチェンジ”

 '07年は、タレントのブログがまだ珍しかった時代。ルー語が満載の投稿は“クドすぎるブログ”として若い世代にウケ、再ブレイクを果たす。

彼の判断もあり、'08年には長年お世話になった浅井企画から独立しました。50代になって新しいチャレンジは勇気がいることだったけど、とことん信じようと。その後も“いろいろな武器を身につけるべき”と、アドバイスされて始めたのが、今も続けている茶道です

 その狙いも見事にヒット。これまで、大柴のイメージに近い役しかこなかった俳優業も、幅広い役のオファーが届くようになる。

お茶をたてているときは気持ちも穏やかになるのでメンタル的にもプラスに働いていますね。何より、落ち着いた印象を持たれるようになったことで、いただく仕事も変わってきましたね。今では遠州流茶道で師範になりました

茶道を通じて学んだことをまとめた著書『心を整えルー』を発売するなど、茶道家としての顔も持つ

 '17年から長崎国際テレビで開始した冠番組『よル〜じげ トゥギャザーしようぜ!!』ではM氏も出演するなど、マネージャーの域を超えた存在に。

祖父が長崎出身ということもありオファーをいただいたのですが、まさかこんなに長く続くとは思っていなかったですね。この番組は台本がないので話すトーク内容も2人で決めているんです。おかげさまで認知症予防になっていますよ(笑)

 奇跡の再ブレイクを果たした大柴。かつての自分のように人生に迷っている人たちにこんなアドバイスを。

僕の場合は信頼できるマネージャーに出会え、マインドチェンジ(意識改革)をして、いろいろな種をまいたことで芽を出すことができた

 年齢やキャリアを重ねると、人の意見に聞くイヤー(耳)を持たなくなる人も多くなるけど、間違った道に進んでいたときに、苦言を呈してくれるファミリーやフレンドの声を受け入れることは大事だと思うし、それができない人は進歩しないよね。50代過ぎて再ブレイクできたのは稀だし、本当にラッキーだったと思うよ」

 今後の目標を聞くと、“生涯現役”と笑顔で答えた。

オファーがある限りは何歳になっても続けたいね。そのためにも、いただいた仕事はライフ(一生)懸命やるしかないね。長崎の冠番組も動画配信サービスのTVerで配信中なので、ぜひ全国の人に見ていただけたら。今まで歩んできた人生のグラデーションを感じさせるお仕事をやれればいいね