女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、昭和の社交場・文壇バーで巡り合った作家たちとの思い出について振り返る。
文壇バーでの出会い
昭和の時代というのは、文壇バーが都内に遍在していた。私も野坂昭如さん、吉行淳之介さんなど、親しい作家とよく出入りしたものだけど、印象に残っているのは作家の川上宗薫さん。
宗薫先生と初めてお会いしたのは、雑誌の対談だったと思う。途中、私が「佐藤愛子先生の作品が大好きです」とお話ししたら、大いに喜んでくださり、「あなたは趣味がいい」とお褒めにあずかった。以後、私のことを気にかけて、先生お気に入りの文壇バーへ誘ってくださるようになった。
あるとき、扉を開けるとその店の常連だった池波正太郎先生がいらした。ちょうどそのころ、私は『鬼平犯科帳』で“おまさ”を演じていた。
『鬼平犯科帳』と聞くと、多くの人がフジテレビ系列で放送されていた二代目・中村吉右衛門さんが主演を務めたシリーズ(1989年~2016年)を思い浮かべると思う。私が、出演していたのは八代目松本幸四郎丈(後の初代松本白鸚)が主演を務めた『鬼平犯科帳』。実は池波先生は幸四郎丈をイメージして鬼平を書いたとか。
池波先生がおっしゃるには、おまさは木綿のような女性だ─と。私が木綿のような女性かどうかはわからないが、「あなたはぴったりだ」と言っていただけたことを思い出す。
いつも池波先生は気さくに話しかけてくださる、とてもざっくばらんな方だった。
当時の『鬼平犯科帳』は、脚本を新藤兼人さんや野上龍雄さんが手がけたり、ときには監督を『偽れる盛装』などで知られる“女性映画の巨匠”吉村公三郎先生が何本か手がけたりなさるなど、テレビドラマとは思えないような名だたる方々が参加されていた。
監督がカットと言うまで、役者である私たちは演技をやめることができない。緊張感がピンと張りつめる。こうこうと光る照明。夏場ともなればかつらから汗がダラダラとしたたり落ちる。暑かったのなんのって。クーラーなし。でも、演技を勝手に止めることはできない。暑さの汗と冷や汗とで大変だった。
あのころ華やかだった“夜の世界”
後年、吉村先生と、ある俳句のパーティーでご一緒する機会があった。「鬼平犯科帳ではお世話になりました」とご挨拶をすると、「私はテレビをやったことがありません」と毅然とおっしゃり、びっくりした。
あのころ、テレビは新興の娯楽。まだ認められていないところがあるからこそ、巨匠である吉村先生は、ご自身の中で映画しかやらない、テレビはやっていないというポリシーがあったのかもしれない。そのテレビが、今や前時代のものとなってきているのだから、時代は移り変わるものだと、つくづく思う。
宗薫先生に連れていっていただいた、あの銀座のバーはまだあるのだろうか。
あの時代は、出版記念パーティーなどが催されると、必ずと言っていいほど文壇バーのママたちが華やかに参加していた。でも、どのママも作家たちの本を熟読していて、話を合わせられるだけの知性と好奇心を持っていた。
担当編集Yさんによると、最近は夜の世界のママさんはおろか、ホステスさんを目指す子が少ないという。若い子たちは、スマホのアプリを介してお小遣いを稼ぐことができるから、わざわざ厳しい銀座のクラブなんかは選ばないそうだ。
それこそ、松本清張先生の『黒革の手帖』みたいな、バーを拠点として野心を展開する男女はもういなくなったということかしら。そうそう。清張先生といえば、雑誌の企画で奈良の東大寺を2人で散策したことがあった。
「最近どんな本を読みましたか」と聞かれ、清張先生の『けものみち』を上げたら、「あれはあなたのようなお嬢さんは読んではいけません」と叱られたっけ。
コロナが落ち着いたとき、再び社交場として酒場が盛り上がってくれることを、ひとりの“元飲んべえ”として願っている。
〈構成/我妻弘崇〉