幼いころから父に殴られ、母がこぼす愚痴のはけ口になっていた。理容店を継げと言われて育ったが、父はラブホテルの経営に転身。15歳の少女は反発せず、黙って仕事を手伝った。結婚してからも“いい娘”“いい嫁”だった桜木紫乃は30歳を過ぎたとき、親と距離をとり、小説を書き始める。「家族」を小説に書くことは、「私」を解放する手段でもあった──。
「親を喜ばせたいと思う子」だった幼少期
「8年前、『ホテルローヤル』という作品で直木賞をいただいたときに、『これで許される、親離れできた』と思いました。48歳にして少し解放されたんでしょうね」
30代半ばで、専業主婦から「新官能派」というキャッチフレーズをひっさげて作家デビューした桜木紫乃(56)。だが、彼女の小説はそんなに「甘く」ない。さまざまな作品に常につきまとう“家族”の愛憎、人間関係のほろ苦さなど、人が抱えうるありとあらゆる感情を、キレのある文章にのせて伝えてくる。その裏側で作家自らが自分の首を真綿で締めていくようなせつなさが垣間見えるのだ。そして何より「私は私として生きていく」という強さ。北海道という大地で生まれ育った桜木紫乃という作家は、その華奢な身体の中にどれほどのエネルギーと情熱を秘めているのだろうか。
「まさかキンちゃん(夫のこと)が、洗濯までしてくれるようになるとは思ってもいませんでした。ありがたいですね。私と結婚したことを彼に後悔してほしくない。ずっとそう思いながらやってきたんです」
桜木は大きな笑顔を見せながらそう言った。30年以上連れ添う“キンちゃん”は、桜木がひと目惚れし、追いかけ回して結婚した夫。退職してからは、桜木を全面的にサポートしてくれている。
「キンちゃんは顔が玉三郎で声がジュリー(沢田研二)」だという。取材の席で「ええっ」と驚く私たちに対し、彼女はその場で夫に電話をかけてその声を聞かせ、写真も見せてくれた。「なるほど、似ている」そう言うと「ご賛同ありがとうございます」とまたも満面の笑み。サービス精神旺盛な“作家の素顔”が垣間見える。
北海道・釧路で理容店を営む両親の長女として生まれた桜木は、「物心ついたときから父に殴られていた」と言う。腕のいい職人だが、店の金をわしづかみにしてギャンブルにはまることもあった父が「弱さゆえに子どもを殴る」ことを、彼女は早くから認識していた。だから泣いたことはない。
長じるにつれ、「どうしてこの人はこういうことをするんだろう」と殴る父の顔を見ていた。父はそれにいらだってまた手を出す。
「そんな人なのに悪い人とは思わなかった。言葉で言うとひどい親ですけど、当時の私には家しか居場所がないし、必要とされていることもわかっていた。5歳下の妹がいますが、この家は長女のおまえのものだとずっと言われていましたから、私は『親を喜ばせたいと思う子』に育っていきました」
両親の仲は決していいとは言えなかった。父は母には直接手をあげず、ものを投げていたという。
「母が父に隠れて社交ダンスを習っていたことがあるんです。でも靴が見つかってバレてしまった。そのとき父が投げつけたガラスの灰皿が、壁に当たってきれいに砕けたんですよね。こんなにきれいに粉々になるんだと見ていて思いました。人って逆上すると、これが当たったら相手がけがするとか下手すると死ぬとか、そういうことを考えられなくなるんでしょうね。母は私が小さいころから、父の愚痴を言っていました。私は解決策を必死に考えて進言するんだけど、母は聞く耳を持たない。そのうち反応しなくなった私に、『おまえは感情がない』と言うようになりました」
今でも自分の感情をきちんと外に出すのは苦手かもしれない、小説を通して自分の気持ちも確認しているような気がすると桜木はつぶやいた。彼女の綴る人物の細やかな感情の襞(ひだ)に際限がないように思えるのは、こうした複雑な感情が行き交う家庭で育っていたからかもしれない。
親に隠れて大事に読んだ文庫本
高校生になったころ、父が突然、ラブホテルの経営を始めた。このときの経験が直木賞を受賞した『ホテルローヤル』に生かされている。ホテルローヤルは、父が経営していたホテルの実名である。
「つい最近、どうしてホテルを経営し始めたのかを知りました。当時、理容店に来ていたお客さんが父に『やってみない?』と言ったそうです。銀行は風俗業にはお金を貸さないので、そのホテルを建てた建設会社やリース会社の人たちがオーナーになってくれる人を探していた。そのころ、父はずっと勝っていた理容店の競技会で勝てなくなっていて、理容店への意欲がなくなっていたみたいで、ラブホ経営に乗り換えた。私自身、理容店になれと言われていたし、そのつもりでいたのに、いきなりラブホテルですからね、ちょっと驚きました」
それでも桜木は、それまで理容店を手伝っていたように今度はラブホテルを手伝った。親は子どもの勉強に興味はなかったが、娘が仕事を手伝うと褒めてくれることもあった。
「親に褒められたい気持ちは強かったですね。こう言うと、まるで親の言いなりだったみたいですが、いつも『家業だから』と受け止めていたような気がします」
反発しても意味がないと15歳の少女はわかっていたのだろう。生きていくために自分ができることをするしかない。その一方で、彼女は深く静かに自身の中にエネルギーをためていた。
「かつて理容店の2階を学生さんに貸していたんです。越していった人の部屋を掃除していたら、文庫本がぎっしり詰まったダンボールが捨てられていた。その中の1冊を手にとったら、同郷の原田康子さんの『挽歌』という小説で、ものすごく感動しました。本など読んでいると手伝いがおろそかになるから親に怒られる。だから物置に隠して1冊ずつ、親に隠れて大事に読みました。何か書けたらいいなあ、自分の名前で本を出せたらいいなと漠然と思ったのを覚えています」
隠れて読む本は、すべて桜木の栄養になったのだろう。親に反抗せず、針の穴から希望の光を見るように自分の楽しみを見つけた彼女は、そうやって生きる強さを培っていったのではないか。高校時代は現代詩を書いていた。
「妙な欲が出て大学に行きたいと言ったことがあるんです。そうしたら、じいちゃん、ばあちゃん、両親に囲まれて、『女が大学に行ってどうする』と言われて。もっと勉強したかったけど、お金がないんだからしょうがない。やりたいことがあったら自分で働いて学ぼうと自分に言い聞かせました」
高校を卒業したらラブホテルの仕事をするつもりだったため、学校からの就職斡旋は受けていなかった。ところが年の暮れになって、父親から「借金が返せない。給料も払えないから、外で働いてほしい」と言われた。
「しかたがないので、そこから自分で仕事を探しました。ホテルの営業に決まったんですが、1年ともちませんでしたね。仕事で市役所へ行ったとき階段から落ちてけがをして。本来は労災なんでしょうけど、会社から辞めるか辞めないかと迫られて自己都合で辞めたんです。知識や知恵がないって悲しいですよね。怒ることもできない」
あらゆるできごとを自分の心身で受け止め、受け入れていく彼女の強さはこういう生活の中で育っていった。
「私はゴミ箱みたいなものだった」
その後はハローワークで仕事を探す日々。高校時代に和文タイプの資格をとっていたため、タイピストで探してみると、裁判所での募集があった。見事に合格して技能職で採用された。そして帯広の裁判所に勤めていた「運命の人」であるキンちゃんこと、敏博さんに出会ったのだ。
「釧路と帯広のテニスの対抗試合が、中間地点の浦幌で開かれて、彼にひと目惚れしたんです。100パーセント好みだった。追いかけ回して猛アタックしましたね」
一方、敏博さんは初対面のとき、彼女がタオルを持ってきていなかったので貸した記憶があるという。
「彼女とはそれからもいろんなイベントで会いましたね。キャンプに行ってもいつの間にか隣にいたり(笑)。その後、私は書記官の資格に受かって東京で2年、研修を受けることになったんです。彼女は毎日のように手紙をくれました。日常的に起こったことを、毎回、長く書いてくる。よく書くことがあるなと思いましたが、おもしろかったから読んでいました。私は筆無精で100回に1回くらいしか返事を書けなかったけど」
桜木が24歳、彼が30歳のときに結婚した。長女と長男の結婚は、桜木の親に大反対されたが、彼女はこれだけは梃子(てこ)でも動かなかった。
「親の反対を押しきったのは初めてでした。それまでずっと“いい子”だったから。結婚だけは自分の意志を通しましたが、心の中ではずっと親に悪いと思っていた」
結婚と同時に仕事を辞めて専業主婦の道へ。27歳で長男、32歳で長女を出産し、夫の転勤に伴って道内を転々とした。暴力を振るわない人と結婚する。それが彼女の唯一の望みだった。夫は妻子に1度も手をあげたことがない。
結婚してからも「いい娘」「いい嫁」であり続けた桜木の心境に大きな変化があったのは、30歳を過ぎたころだった。
「私が結婚してからも母は相変わらず、父の愚痴を垂れ流してきたんですが、私も出産後は付き合いきれなくなっていた。そうしたら母はストレスで体調を崩してしまったんです。私は子どもを抱っこしながら、父に説教しました。『もう孫もいるんだから、そろそろ落ち着いてくれないと』って。父は、私にではなく母に向かって、『おまえはいったい娘に何を言ってるんだ』と詰め寄った。すると母が急にもじもじしだして、『自分が産んだ娘だから何を言ってもいいと思っていた』って。その瞬間、私の中で何かがポキッと折れた。私はゴミ箱みたいなものだったのか。いろいろなことがあっても、私は親を絶対だと思って信じていた。でも自分が親になってみて、母のこのひと言を聞いたとき、私なら言わない言葉だと感じたんです。悶々とした思いが一気にあふれていきました」
改めて自分のことを見つめ直してもみた。両親との関係、婚家の親との関係。結婚後、長男長女だから、「片方の親にしかできないことは両方にしない」と決めていた。子どもを連れて双方の実家に交互に通っていたこと、男の子を産まなければというプレッシャーがあって、第一子が男の子でほっとしたこと。義母に「いい嫁なんだ」と近所の人に紹介され、このあたりの風習を覚えておいてほしいと言われた日。いい子すぎて、みんなに期待をさせたことにも気づいた。
「実家と距離を置こうと決めたとき、それは必然的に婚家とも距離を置くことになると覚悟しました。最初はお正月に双方の実家に行かないと夫に言ったんです。理由は言わなかった。夫はおもしろくなかったと思いますよ。無言のうちに、私は嫁をとるか親をとるかの判断を彼に迫ったのかもしれません」
寝不足でも毎朝作った“卵焼き”
親たちと距離を置きながら、彼女は小説を書き始めていた。1冊にまとめて自費出版した現代詩集を同人誌『北海文学』に送ったところ、主宰の鳥居省三氏の目にとまり「小説を書きなさい」と言ってもらったのだ。彼は、桜木が密かに読んで感動した『挽歌』を世に出した人物でもあった。
「それからは小説を書いては同人誌に載せていたんですが、文学じゃない、小説じゃないと批判されていましたね。鳥居先生に相談したら、商業誌に応募してみればと言われて」
2002年、37歳のとき『雪虫』で第82回オール讀物新人賞を受賞した。そのころの桜木について、夫の敏博さんはこう言う。
「詩や短歌を書いていたのは知っています。地元の文芸誌に載ったときは、小説も書いているんだなとは思っていました。私が仕事に行っているときに書いていたんでしょうね。ふたりの間ではまったくそういう話をしたこともありませんでした。私は彼女が書いたものは一切読みませんでしたし、読むと何か言いたくなっていたかもしれませんね」
桜木は、「読んでいないのはいちばんいい応援方法かもしれません」と言う。これまで、夫に「書くな」と言われたことは1度もない。
子どもファーストだった妻のことを、夫はよく覚えている。いつもお弁当をちゃんと作り、子どもに「大好き」とストレートに言っていた。だが桜木は、「自分のことで精いっぱいで母親らしいことをしなかった」とつぶやく。
「子どもたちに望んだのは元気でいてくれればそれでいい、好きなことを見つけてくれればもっといい。それだけですね。ただ、好きなことをしろと言いすぎるのも呪縛になると思っていました。私ができるのは、寝不足で朦朧(もうろう)としながら毎朝、卵焼きを作ること。砂糖と塩とマヨネーズを入れた卵焼きが、うちでは揺るぎない母の味なんです(笑)。今は子どもたちも家を離れていますが、ときおり来ると卵焼きを持って帰ります」
子どもの前でケンカはしないと夫婦で決めていた。だが、敏博さんによれば、どんなにたわいないことであっても、桜木は言葉できちんと説明しないと納得しないところがあるという。
「具体的な事例が思い浮かばないんですが、些細なことでも意見が違うと、なぜそう思うのか、どうしてそういう言葉を使ったのか何度も聞かれる。翌日は朝から会議なのに、未明まで向き合って話し続けたこともありましたね」
他人である夫婦が家族になるため、とことん向き合うことを要求したのだろうか。
「私が書きたいのは官能ではない」
小説を書き始めて3、4年で新人賞をとったものの、そこからが桜木の試練の始まりだった。デビュー本がなかなか出せなかったのだ。
「官能派と言われていたけど、私が書きたいのは官能ではないと気づいてもいました。当時、母に『いつ本が出るの? みんなに言っちゃったの。恥ずかしいから早く出して』と言われたことがあるんです。実家にはあまり寄りつかなくなっていたけど、まったく会わないわけでもなかったので。私、書くことへの原罪みたいなものを抱えていたんだと思う。新人賞をもらってホッとしたら、そんな状況になっちゃってつらかったですね。そのころはけっこう毎日お酒を飲んでいて、このままいったら危険かもしれないと自分でも思っていました」
その後、彼女の担当編集者のひとりとなったのが、KADOKAWAの鈴木敦子さん(43)だ。当時、彼女も転職して間もない時期。前任者から桜木の担当を任されることになった。
「お会いしたとき、桜木さんは単行本を2冊出版されていました。作家さんとしては、『これから』の可能性を秘めた人。官能シーンの人気は高かったですが、いちばん書きたいのはそこではないのだろうな、というのは、お話をうかがっていて感じました。『求められる期待にこたえたい』というまじめさと、『表現したいこと』の間で揺れ動いていたのだと思います」
ただ、桜木の「やる気」には気迫があったという。
「次はどういうお話にする? 締め切りはいつにする? と、先におっしゃるんです。特に締め切りは、話題にするのに編集者がとても神経を使うのに、自分から。前向きで、成長したいという思いが強い。そして誰よりも努力する。ものすごいパワーです」
直木賞の授賞式で親離れ
2011年に刊行された『ワン・モア』(角川書店 現KADOKAWA)は、桜木のそんな気迫がこもった連作短編集だ。官能とかエンタメとかのくくりを超えた、人間の持つさまざまな感情が複雑に絡み合う短編集となった。
2012年、桜木は『ラブレス』で第146回直木三十五賞候補、第14回大藪春彦賞候補、第33回吉川英治文学新人賞候補となり、翌年『ホテルローヤル』で直木賞を受賞した。
受賞前の妻の様子を敏博さんはよく覚えているという。
「直木賞の受賞時、私は単身赴任で釧路にいました。本人は『ダメだと思うけど』と言いながら東京へ出かけ、子どもたちは自宅で留守番をしていた。受賞したと聞いてびっくりしました。週末、私が帰宅したら玄関先が花で埋め尽くされていた。1週間ほどたってようやく戻ってきた桜木は疲れ果てていましたね」
直木賞の授賞式には、夫の両親と自身の両親が東京會舘に集まった。4人が同じ席についているのを見て、桜木には深い感慨があったという。
「このときようやく、私は親離れできたと思ったし、親が私をあきらめてくれたとも思いました。“家族”についても好きに書き続けてきたから、もう何を言われてもしかたないし、何を言われてもかまわない」
直木賞を受賞して押しも押されもせぬ作家となってからも、彼女の人間性はまったく変わっていないとさまざまな立場の人たちが口をそろえる。それだけでなく、周りの女性たちの背中をさりげなく押したり励ましたりする言動が増えていった。
エッセイストで書店員の新井見枝香さん(41)は、『ラブレス』が刊行されたころ勤めていた書店に桜木が来訪したのが縁で知り合った。
「ストリップの踊り子さんをモデルにした『裸の華』を出版されたあと、興味があると言ったら、シアター上野というストリップ劇場に連れていってくれたんです。それまで2人で出かけたこともなかったんですが……。私が魅了されることを見通していたんでしょうか。踊り子さんを紹介してくれたり、ただただ楽しい時間でした」
桜木はストリップが好きなことでも知られている。20年ほど前、伝説の元ストリッパーで当時、札幌道頓堀劇場の社長をしていた清水ひとみさんが新聞で連載していたエッセイを読んだのがきっかけだったという。
「その記事に、『元ストリッパーで、今は小屋主をしていて舞台に立つこともあります。今でもときどき、泣きます』と書いてあって、この人に会いたいと思ったんです。会う前に劇場に行って観てみたら、びっくりするような世界があった。気っ風(ぷ)よく脱ぐ人は肝の据わり方が違うんですよ。観ているうちに、脱いで喜ぶ女も小説書いて喜ぶ女もいない、だけどそうせざるをえない何かがあるんじゃないかと思えてきて。どちらも表現活動には違いないから」
そんな桜木に導かれた新井さんもまた、ストリップの虜になった。1年半前からプロの踊り子として舞台に立っている。
「余興でステージに立ったら、桜木さんがものすごく喜んでくれたのがきっかけで、本職のひとつになったんです。自分が楽しんでいることを人も喜んでくれる。それが驚きで……。桜木さんに出会って人生が面白くなってきました」
桜木がふと漏らした言葉が、新井さんには人生の大きな指針になったり考えるきっかけになったりしているという。
「何か話をしていたときに、桜木さんが『生きづらくない人なんているのかな』とぽろっと言ったんです。私がステージに立ったときも、『裸になるのイヤじゃない?』なんて言う人が多かったんですが、桜木さんは違った。『ステージから見える景色はどうだい?』と聞いてくれた。すごいことを言うでしょう? 私は桜木さんを師匠と呼んでいます」
桜木との出会いで、新井さんの人生は広がり、だいぶ楽に生きられるようになったという。
もうひとり、桜木を「姉御」と慕うのは、映画監督の三島有紀子さん(52)だ。
「もともと私は桜木さんの小説のファンでした。'15年に『硝子の葦』という作品をドラマにしたのが直接の出会いです。桜木さんはそのドラマをオンエアで観て、放送直後に電話をくださった。『あなたはとても怖い人だ』って。驚きましたが、すごい褒め言葉だと思いました。『あなたは私と非常に似たようなところを漂っている人』とも言われてうれしかったですね。その電話で数時間、真剣にお話ししたのを覚えています」
それからまもなく、最初に会ったとき、桜木はガラス細工のもやしをくれたという。
「どうしてもやしなんですかと尋ねたら、本当はガラスの葦(あし)にしたかったんだけどなかったので、もやしが近いかなと思ってと(笑)。ガラス細工の職人さんのところにわざわざ行って買ってきてくれたんですって」
その後もふたりの交流は続いている。実際に会ったりメールをしたり、ときには電話で話したり。三島さんにとってそれはかけがえのない時間だ。
「われわれみたいな人間にとって、小説や映画はどうしようもないときの命綱である。だから私たちはその命綱を誰かのために命がけで編まなければならないと語られた言葉が忘れられません」
三島さんは桜木を「命がけで人間探求をしている人、人間に対して慈しみと敬意があり、人生を楽しめる人」と評した。真剣に人生を語ったかと思うと、年賀状の写真には『ベルサイユのばら』のオスカルの衣装を着て「なりきる」桜木もいる。そこが彼女の懐の深いところなのだろう。
「桜木さんは生まれ育った北海道の大地みたいな人。厳しくもあるが、悠然と包み込んでくれるような人間としての大きさを感じます。人生の姉御を、どこまでも探求していきます」
近い将来、必ず桜木の作品を映画化すると三島さんは決めている。
「娘の顔も忘れた母は天使のよう」
現在、桜木の実の両親はふたりきりで暮らしている。さまざまなことがあったが、母は認知症となり、父はその世話をしているという。昨年、そんな家族の実態を小説化した『家族じまい』で中央公論文芸賞を受賞した。
認知症になった妻と横暴な夫、そして桜木自身と妹を投影したふたりの娘など夫婦に縁の深い女性たちの目から見た「家族のありよう」が描かれている。実話ともいえる作品なのだが、そこは作家の身体を通し、フィクションとして昇華されている。とはいえ、親子、姉妹の葛藤や苦悩は生々しいほどリアルだ。
「これを書いて、やっとひと区切りついた感じです。母は今や天使ですよ。父にひどく当たられたことも、父の愚痴を私に吹き込み続けたことも、何も覚えていない。穏やかに父と暮らせることを喜んでいます。娘の顔も忘れてしまうのは本来ならば寂しいことかもしれないけど、それは母の心身が選んだことだから」
あとは夫婦ふたりの両親4人をどうやって見送るか。現実から目を背けずに対峙していくと桜木は言う。
桜木自身も、子どもたちが巣立ち、夫婦ふたりきりの生活になった。夫の敏博さんはこう言う。
「私が退職した直後は、ふたりきりのペースがなかなかつかめませんでしたが、やっと落ち着いてきました。今はふたりでワンちゃんを散歩させるのが日課。時間があるときは居酒屋に行って、おいしいごはんにおいしいお酒を楽しむこともあります。なんだかんだ言って好きでいてくれることもよくわかっているので、これからも一緒にやっていこうねと言いたいですね」
敏博さんは結婚して最初のボーナスを渡したとき、桜木が「ありがとう」と押し戴(いただ)いたことをはっきり覚えている。気遣いのできる妻だと心に刻まれているのだ。
「私と一緒になったことを後悔してほしくない。夫に対してはずっとそう思ってきました」
桜木は何度もそう繰り返した。「私にとっての家族は、夫と子どもたちだけ」とも口にした。
彼女の最新刊は『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』。キャバレー勤めの章介が、店に出演するマジシャンと歌手とストリッパーとひょんなことから同居することになる。不器用だが人間性に満ちた4人の“疑似家族”的な関係が、軽妙にして心にしみる作品だ。桜木は登場人物が決まると頭の中で彼らが動きだすのをじっと待つのだという。
「書いている間は、登場人物がずっとしゃべったり動いたりしていて、私はその斜め後ろくらいからじっと見ている。そんな感じです。物語が後半になってくると、どこでこの人たちと別れるのか準備を始める。『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』は、書こうと思えばどこまでも書ける作品。でも終わらせなければならない。登場人物と別れたくなかったですね。彼らはきっと今もどこかで元気に生きていると思います」
そう言ってから、「なんだか私、怪しい人みたいじゃないですか?」と笑った。作品の中の登場人物は、桜木にとって親しい関係だが、ある程度の距離感も必要なのだろう。
敏博さんは、妻が作中人物とコミュニケーションをとっているのを目の当たりにすることがあるという。
「桜木と散歩に行くと、突然、『あっ』と叫んだりするんですよ(笑)。そういうとき、おそらく登場人物が動きだしているんだと思います。彼女が何かを思いつくというよりは、登場人物たちが勝手に動いているのを受け取っているように見えますね」
恋愛小説、家族小説というような枠ではなく、「あらゆる人間の業」を、あるときは淡々と、あるときは寄り添うように見つめる目が強い読後感を残す作家として注目され続けている。
これから先も、おそらく彼女は「小説を読む醍醐味」を味わわせてくれる渾身の小説を世に送り出していくだろう。
「なぜ生きているのか。一生、その答えを探しながら書いていくんだろうなと思います。書いているからこそ出せた答えがたくさんあった。逆に書いていなかったら、私はどうやって生きていたんだろうと苦しくなるくらいです」
桜木にとって、書くことは生きることと同じなのだ。
(取材・文/亀山早苗)