テレビが今より元気だったころ、みんなの話題の中心だったのが音楽番組です。生放送中は何が起こるか、見ているほうもワクワク、ドキドキだったもの。そんな当時の舞台裏エピソードと、面白かった理由を、当時の関係者たちの声から探りました!
『ザ・ベストテン』41.9%、『夜のヒットスタジオデラックス・スペシャル』36.0%、『ザ・トップテン』28.8%──。(ビデオリサーチ調べ)
目を疑うような最高視聴率の数々。かつて音楽番組は、「見ない日がない」というほど数多く放送され、お茶の間の視線を釘づけにしていた。
あの時代、音楽番組はなぜこれほどまでに人気があったのか? テレビに勢いがあった時代だとしても、それだけで41・9%という驚愕の数字をたたき出すことはできないはず。
音楽だけじゃない番組構成
「『ザ・ベストテン』は音楽番組でありながら、情報番組でもありました。時代性やニュース性を織り交ぜながら、どうしてその曲が流行っているのか─そういったことを加味しながら、スタッフも番組を作っていた」
そう話すのは、黒柳徹子さんとともに、1986年10月から約2年半にわたり司会を務めた元TBSアナウンサー・松下賢次さん。
『ザ・ベストテン』は、レコード売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオ放送のリクエストチャート、番組に寄せられたはがきのリクエストの合計ポイントによって、毎週独自のトップ10(=ベスト10)を選定していた。視聴者が求めるリアルなランキングを届ける情報性……いわば、“視聴者ファースト”を徹底したことが、人気の要因だと振り返る。
「記念すべき第1回放送の際、当時絶大な人気を誇っていた山口百恵さんが、集計の結果、トップ10外になりました。『山口百恵を登場させない新番組の歌番組があるか』と局内でも大きな議論を呼んだと聞きます。しかし、プロデューサーはインチキはしないと譲らなかった。黒柳さんは、そういった番組の方針を気に入って司会を引き受けてくださった」(松下さん)
忖度なしのランキングだからこそ、選ばれたアーティストを追うため、地方のライブ会場まで押しかけた。“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りにした中継は、『ザ・ベストテン』の名物のひとつになった。
アーティストからは煙たがられそうなものだが、「いちばん肌が合った音楽番組は、『ザ・ベストテン』だったかな」と笑うのは、フォークグループ『アリス』のドラマー・矢沢透さんだ。
「21時から番組が始まると思うんだけど、僕らのライブって21時前には大体終わっている。だから、出番まで会場にいるお客さんと一緒に待っていて、その間に掛け合いなんかしたりして仲よくなる(笑)。その雰囲気がすごい好きでしたね。何よりスタジオで演奏するのと違って、ライブ感覚でやれることが楽しかった」
DVDやYouTubeがない時代に、テレビを通じてリアルタイムでライブ映像を届けていた希少性は、改めて考えるとものすごいこと。
テレビの力はすごかった!
「僕らのようなニューミュージックの人間って、音楽番組に出ることがカッコ悪いことだと考えていた。当時の音楽番組は、演歌や歌謡曲ばかり。ですから、いつも居心地の悪さを感じていた(笑)。スタジオ収録の歌番組は、“お邪魔します”という感じだったけど、『ザ・ベストテン』は一緒に作っている感覚がありましたね。
マイナーな曲を演奏させてくれるという意味では、『MUSIC FAIR』も好きだった。アーティストに配慮してくれる音楽番組って、結果的によいものになりやすい。視聴者にも魅力が届きやすくなりますよね」(矢沢さん)
番組によっては、出演への二の足を踏んでいたアリスだったが、音楽番組の影響力については「すさまじかった」と素直に認める。
「僕らが初めて出演した音楽番組は、『夜のヒットスタジオ』だったのですが、放送翌日、女子高校生たちがぞろぞろと後をつけてくるし、行きつけの喫茶店のマスターやクリーニング店の人などからやたらと褒められた(笑)。その出演を機に、演奏した『冬の稲妻』もヒットした。当時のテレビの力は、すごかったですよね」(矢沢さん)
また、松下さん同様、“情報”をキーワードに挙げるのは、実際に現場を取材していた経験もある、芸能ジャーナリストの渡邉裕二さん。
「『夜のヒットスタジオ』は、新曲の初披露&フルコーラスの場として定着していた。『ザ・ベストテン』しかり、華やかなりし時代の音楽番組は、制作現場も情報番組として取り組んでいたように思う」
そのうえで、番組それぞれのストロングポイントが明確だった点も、この時代ならではとつけ加える。
「中でも『夜ヒット』は、カメラワークが斬新で、アーティスト同士による異色のコラボも珍しくなく、この番組でしか見ることができない空間をつくり上げていた。そうした独自の着想は、現在、FNS歌謡祭の豪華コラボなどに引き継がれていますが、かつては毎週見ることができたのだから贅沢でした」(渡邉さん)
例えば、『ザ・ベストテン』と同じく独自のランキング集計で人気を博した『ザ・トップテン』は、有観客の渋谷公会堂から公開生放送をすることで差別化を図った。同じく公開番組だった『レッツゴーヤング』は、出演者をアイドルに特化することで視聴者を虜にした。さらに、
「『ヤンヤン歌うスタジオ』は、まだメジャー番組に出演することができないアイドルが出演する登竜門的な要素が含まれていた。
後に、各音楽番組に引っ張りだこになる中森明菜は、“花の82年組アイドル”の中では、ほとんど注目されていなかったが、『ヤンヤン』だけは、デビュー前から彼女に出演の機会を与えた。
ただ、音楽番組といっても、事務所の大小、人気の高低、ジャンルの差異によって出演者の顔ぶれは変わる。その振れ幅に応じる形で、人気コンテンツだった音楽番組は枝分かれし、「見ない日はない」というくらい増えていった」(渡邉さん)
テレビでしか見られないものを、あの手この手で作り上げた時代──だからこそ、見ているわれわれもワクワクしていた。
しかし、次第に音楽だけで番組を成立させることが難しくなる。前出の松下さんも、「視聴率も段々と下がり、ベストテンなのに5~6曲という回もあった」とうなずく。
その間隙を突くように台頭したのが、音楽バラエティー番組だった。'90年代になると、『夜も一生けんめい。』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』『うたばん』など、トークに比重を置くような音楽番組が隆盛を極める。
音楽と芸人さんの融合
「僕たちはトークのプロではないから、正直苦手なところはありました。ですが、『HEY!HEY!HEY!』では、ダウンタウンさんが巧みに話を聞き出してくれるので、身を委ねれば何とかなる(笑)。『HEY!HEY!HEY!』は、スタッフさんもとても気を遣ってくれた個人的にも大好きな番組でした」
そう語るのは、DA PUMPの元メンバー・YUKINARIさん。また、『COUNT DOWN TV』も思い入れの深い番組だといい、「沖縄にいるときから、『COUNT DOWN TVをご覧のみなさん、どうもDA PUMPです』って言うのに憧れていた」と笑う。
「デビュー当時は、自分が何の番組に出たのか覚えていないくらい目まぐるしかった。ほかのアーティストさんと仲よくなる暇なんてない。それに、ほとんどの音楽番組が収録でしたから、僕らがスタジオ入りすると、その前に出番を終えたアーティストさんたちは控室に戻っている。僕らが戻ってくると、すでに別の現場に行っていていない……みなさんが想像するような華やかな交流はなかった(笑)」(YUKINARIさん)
また、“共演NG”に代表される事務所同士の対立についても、「あったとしても僕らが知るところではなかった」と明かす。
「ジャニーズさんとの接触はNG─などと言われていましたが、僕らは気にしていなかったんですよ。店で食事をしていた際、たまたまTOKIOの松岡昌宏さんと遭遇し、そのまま合流したりしてましたから(笑)。紅白に出場した際も、舞台裏でSMAPさんと一緒にダンスを踊ったり、普通に接していただいた」(YUKINARIさん)
当の本人たちは、どこ吹く風。仲が悪いと感じたことはなかったというから、邪推はほどほどにしなければいけない。
前出の渡邉さんは、「情報からプロモーションのための音楽番組に変わっていったことが大きいのでは」と分析する。
「事務所やレコード会社のパワーバランスや宣伝をどうするか……番組スポンサーも含め、そういったことが重視され、'70~'80年代の音楽番組に存在していた視聴者に情報を届けるという視点が薄れていった。結局、プロモーション的な要素が大きくなったことから似たり寄ったりの構成になってしまう。特別感が薄くなれば、当然、視聴者離れも起きる」(渡邉さん)
名司会者との掛け合いもなくなり、ネットの台頭で音楽の入手方法も増えた。音楽番組が宣伝装置になってしまった感は否めない。
「毎回、刺激的だった」とは、松下さんの言葉だ。
「『ザ・ベストテン』は、生放送だったからハプニングはつきもの。黒柳さんはケタケタ笑って楽しんでいるけど、タイムキープをする僕からすれば毎回ヒヤヒヤです(笑)。
何が起こるかわからない。テレビならではのスリリングな展開も、視聴者を釘づけにした要因でしょう。加えて、視聴者参加型だった。一体感がありましたよね」(松下さん)
テレビが娯楽の王様でなくなるにつれ、次第に音楽番組は勢いを失った──といえば、それまでだろう。しかし、そんな単純な理由ではなさそうだ。
最後に矢沢さんは、こう締めくくる。
「歌が老若男女に向けられていた時代でしたよね。でも、今はピンポイントな層に向けて歌が作られる。そうなるとマスメディアであるテレビとの相性はよくない。テレビの問題というよりも、時代的な問題。懐かしくも楽しかった歌番組というのは、もう作ることができないんじゃないかな。でも、メディアが多様化しているからこそ、新しい形の音楽番組が生まれてもおかしくないよね」
矢沢透(やざわ・とおる) 1949年神奈川県生まれ。’72年、アリス(谷村新司・堀内孝雄)にドラマーとして参加。『冬の稲妻』、『チャンピオン』等、数々のヒット曲を連発し、’78年には日本人アーティストとして初の日本武道館3日間公演を成功させる。活動を休止するも、’00年代以降再始動し、今なおファンを虜にする。
YUKINARI(ゆきなり) 1978年沖縄県生まれ。DA PUMPのメンバーとして、’97年『Feelin’ Good -It’s PARADISE-』でCDデビュー。日本レコード大賞(金賞)、日本有線大賞(有線音楽賞)など数々の受賞歴を誇る。’08年、DA PUMP脱退を発表。’10年、同じDA PUMPのメンバーだったKENや沖縄アクターズスクール出身のAIとともにヒップホップパフォーマンスユニット「琉-UNIT」を結成。
松下賢次(まつした・けんじ) 1953年東京都出身。慶應義塾大学卒業後、TBSに入社。35年間アナウンス部に所属し、野球、ゴルフ、サッカー、陸上などスポーツ実況を中心に担当。『ザ・ベストテン』など音楽番組の司会も行う。定年後はフリーとなり、イベントの司会や講演を行う。
渡邉裕二(わたなべ・ゆうじ) 芸能ジャーナリスト。松山千春『旅立ち~足寄より』CD、映画、舞台などを企画、プロデュース。主な著書に『酒井法子 孤独なうさぎ』など。
'50年代
『NHK紅白歌合戦』
NHK 1951年~現在
総合司会・田辺正晴
『ロッテ 歌のアルバム』
TBS 1958年~1979年/1985年~1987年
司会・玉置宏
'60年代
『ザ・ヒットパレード』
フジテレビ 1959年~1970年
司会・ミッキー・カーチス
『MUSIC FAIR』
フジテレビ 1964年~現在
司会・越路吹雪
『歌のグランド・ショー』
NHK 1964年~1968年/1974年~1977年
司会・倍賞千恵子、アントニオ古賀、金井克子
『夜のヒットスタジオ』
フジテレビ 1968年~1990年
司会・前田武彦、芳村真理
『NTV紅白歌のベストテン』
日本テレビ 1969年~1981年
白組キャプテン・堺正章
紅組キャプテン・水前寺清子
'60年代
『ステージ101』
NHK 1970年~1974年
司会・関口宏
『にっぽんの歌』
テレビ朝日 1971年~1977年
司会・加東大介、松任谷国子
『レッツゴーヤング』
NHK 1974年~1986年
司会・鈴木ヒロミツ
『ビッグショー』
NHK 1974年~1979年
(後継番組として、1993年~2003年まで『ふたりのビッグショー』として復活)
『ヤンヤン歌うスタジオ』
テレビ東京 1977年~1987年
司会・あのねのね
『演歌の花道』
テレビ東京 1978年~2000年
『ザ・ベストテン』
TBS、1978年~1989年
司会・黒柳徹子、久米宏
'80年代
『ザ・トップテン』
日本テレビ 1981年~1986年
司会・堺正章、榊原郁恵
『NHK歌謡ホール』
NHK 1981年~1986年
司会・生方恵一
『ミュージックステーション』
テレビ朝日 1986年~現在
司会・タモリ
『歌のトップテン』
日本テレビ 1986年~1990年
司会・徳光和夫、石野真子
『乾杯!トークそんぐ』
毎日放送 1989年~2000年
司会・野村啓司
'90年代
『タモリの音楽は世界だ』
テレビ東京 1990年~1994年/1995年~1996年
司会・タモリ
『夜も一生けんめい。』
日本テレビ 1990年~2002年
司会・逸見政孝
『COUNT DOWN TV』
TBS 1993年~現在
進行・CGキャラクター
『ポップジャム』
NHK 1993年~2007年
司会・本木雅弘
『HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP』
フジテレビ 1994年~2012年
司会・ダウンタウン
『速報! 歌の大辞テン』
日本テレビ 1996年~2005年
司会・徳光和夫、飯島直子
『LOVE LOVEあいしてる』
フジテレビ 1996年〜2001年
司会・KinKi Kids
『うたばん』
TBS 1996年~2010年
司会・石橋貴明、中居正広
'00年代以降
『MUSIC JAPAN』
NHK 2007年~2016年
ナビゲーター・関根麻里
『関ジャム 完全燃SHOW』
テレビ朝日/2015年~現在
司会・関ジャニ∞
(取材・文/我妻アヅ子)