「たまたまスタジオに残っていただけで、“フツオ”に選ばれました」
レギュラー番組の総視聴率から、“視聴率100%男”と呼ばれた萩本欽一の冠番組『欽ドン!』(フジテレビ系)。第2シーズンとして始まった『良い子悪い子普通の子』で、素人ながらフツオ役に抜擢(ばってき)され、芸能界デビューをした長江健次。
「中学のころから地元・大阪の番組にチョコチョコ出ていたんです。それで『欽ドン!』の新メンバーで15~16歳ぐらいの男の子を探しているから……と、出ていた番組のスタッフさん経由で声をかけてもらったんです」
大阪でのオーディションではものまねを披露したが……。
「遅刻してしまって、到着したのは東京から来たスタッフさんが帰る直前。向こうも急いでいたからか“この場で何ができる?”と聞かれて、とっさに“桜田淳子さんのものまねができます!”と披露したら合格。後日聞いたら、“ものまねは全然似ていなかったけど、恥ずかしがらずにすぐに特技を披露したのがよかった”と言われました(笑)。でも、次に進んだ東京のオーディションではすぐに落とされちゃいましたね」
せっかく東京に来たから……と、テレビ局のスタジオを見学していたところ、幸運が訪れる。
「当初、フツオは山口良一さん。ヨシオを西山浩司さん、ワルオの代わりに“悪い子”役を中原理恵さんが演じる予定だったそうです。でも中原さんは『良い妻・悪い妻・普通の妻』の3役を1人でやることも決まっていたので、掛け持ちするのは負担だろうと。それで大将(萩本欽一)が、たまたまスタジオに残っていた僕をフツオに選んでくれたんです」
“フツオ”は地元ではヤンチャだった
合格後、まもなく収録。番組が放送されるとその初々しいキャラクターがウケ、瞬く間に人気者に。
「1回目の放送後に初めて届いたファンレター7通にはすべて返事を書いたのですが、倍々ゲームで増えていって。翌年のバレンタインも見たことのない量のチョコレートが届きました。通っていた学校でも、先輩や後輩が休み時間に僕を見に来るようになって……と、一気に環境が変わりましたね。同級生からは“お前がキャーキャー言われるなんて、気持ち悪い”と言われていましたけど(笑)」
素朴な男の子という印象だったが、意外にも地元ではヤンチャだったという。
「番組に出る直前、無免許で原付に乗っている友達の後ろに乗っていたら、先生にバレてしまい謹慎をくらったんです。当時、週刊誌にバレていたらヤバかったかも(笑)」
そんな性格もあり、第1回目の放送ではあることをして萩本から注意を受けたという。
「フツオ役の僕はいわゆる“フリ”の役割だったのですが、大阪で吉本新喜劇を見て育った僕にはボケずにコントを進めるのが物足りなくて。それで収録本番、大将がかぶっていたハゲヅラを取ってツッコんだんです。会場では大ウケだったのに収録後、呼び出されて…。“今日はウケたけど、今後はどうするの?”と大将流の説教をされました」
その後は萩本の指導どおりコントを行っていたものの、説教の意味はしばらく理解できなかったそう。
「当時は“笑いをとったんだからいいじゃん“という気持ちのほうが強かったですね。でも番組を卒業して、別のバラエティーでMCを経験したことで、あのときの大将の言葉が理解できたんです。
“最初の人がボケてしまったら、次の人はもっとウケなきゃいけなくなる。コントの流れを壊すんじゃない”と言いたかったんだなって」
西山とはバチバチすることも
番組の人気もあり、山口、西山と3人で『イモ欽トリオ』を結成。デビュー曲『ハイスクールララバイ』は、160万枚を超える大ヒットになった。
「年齢もバラバラな3人だし、何で僕らがこんなに人気があるんだろうと、みんなどこか冷めた目で見ていましたね。レコードデビューしてからはますます忙しくなって、仕事が終わるとホテルにまっすぐ帰る生活で、遊ぶ時間はまったく無くなりました」
プライベートで会うことはなかったというが、メンバーの仲が悪くならなかったのは、最年長の山口の存在が大きかったようだ。
「僕と西山くんは比較的年が近いこともあり、少しバチバチすることもありました。でも9歳上の山口さんがいることで中和されるというか。あと1年半という短い活動期間だったのも、お互いのマイナスな部分が見えずによかったのかも」
語尾を強調する「なぁ~っ!」の決めゼリフも代名詞になったが、番組卒業後は封印していた。
「“なぁ~っ!”って言ってよと、頼まれすぎてイヤになったのもありますね。大学受験をするという理由で番組を卒業したのに、その後黙って大阪でレギュラー番組を始めてしまったことで、マスコミからもバッシングされたし、何より番組や大将にどこか後ろめたさみたいなものがあって……。だからかなり長い期間、イモ欽トリオや『欽ドン』ネタは封印していました」
『24時間テレビ』で欽ちゃんと再会
番組卒業後は萩本との不仲説なども出たが、今でも気にかけてくれるという。
「最後にお会いしたのは3年前の『24時間テレビ』の武道館。楽屋に挨拶に行くと、“なんで来たの?”といったふうに口悪く対応するんですが、裏切るように番組を卒業した僕のことを今でも気にかけてくれて、いろいろ声をかけてくれるんです。大将のようなおじいちゃんになるのが夢だし、元気なうちにまた一緒にお仕事したいですね」
最後に「人生において、かけがえのない番組だった」と感謝する。
「1年半しか出ていなかったと思えないほど、僕の人生において、あまりにも番組の印象が強くて。『欽ドン』がなければ今の僕はいないし、本当に大切な番組です。そう思えるようになったのは、実は最近なんですけどね」