「あのころはコンプライアンスとかなかったから、めちゃくちゃでしたね。もしかしたら死ぬんじゃないかと思うような、過激なこともいっぱいやりました。僕的には裸になり放題だったし、それが許される時代でしたね(笑)」
井手らっきょがそう話すだけで、どの番組のことかわかった読者は多いかも。1989年1月2日に初回が放送され、その後1996年までお正月、春、秋の特番として19回放送された『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』(日本テレビ系)だ。2007年の正月には11年ぶりに第20回も開催。めちゃくちゃぶりのエピソードは枚挙にいとまがない。
「例えば『○×クイズ』でどちらかに爆弾が仕掛けてあるとき、スタッフさんから“○は爆弾が仕掛けてあります”という事前の説明があるんです。でも、みんな知らない“テイ”で爆弾のほうへ行く(笑)。爆発するほうには爆薬が仕掛けてあるから、明らかにわかるのに、行く。ほかにも、バスが2台あってどちらかが爆発するというときは、片方のバスがボッロボロ。誰がどう見ても爆発するほうだとわかるのに、やっぱりおいしいから、芸人はそっちに行ってしまいますね」
この“あえての雑さ”がバラエティーとしての面白さを演出していたと言えるし、「いじめや暴力ではなく“やられておいしい”と思いますからね。“やめろ”という本気のクレームは、当時は聞いたことなかったですね」
それが理解された時代でもあったということ。視聴したことがない人でも、ここまで読んだだけで“正解を当てに行くクイズ番組ではなかった”というのはお気づきだろう。
「“ボケたい”という思いがみんなありました。印象に残っているのが、ダンカンです。ものすごい傾斜がついた滑り台を落ちていくというのがあって、そんな状況でもクイズの回答がおかしくて。“ヘビは爬虫類ですが、両生類の動物を1つ答えなさい”という問題で、しばらく悩んだ末に“カルーセル麻紀”って答えたんですよ! 怖さが極限の状況で、よくそんなボケが思いつくな、と」
芸人が震えた「粘着マット」
まさに達人の域だが、それでも人間、苦手なものはある。
「“プロレスラーの身体の一部に書かれている文字を読む”というクイズは、場外が粘着マットになっていて、最終的には落ちることになっていました。プロレスラーと戦った後に粘着に落ちないといけないので、嫌でしたね(笑)。いろんな芸人が順番にリングに上がるんですが、自分の番が近づいてくるとドキドキしていました」
粘着系はほかのクイズでも使われることがあり、後始末が大変だったそう。
「あの粘着は、ゴキブリホイホイの原液を使っていたんですよ。演出の人からは“絶対に顔からは落ちないでください、顔中について息ができなくなりますから”と言われていました。僕はスキンヘッドなので大丈夫でしたが、髪の毛につくと取れなくなっちゃって、髪を切るしかないんですよ」
どおりで今のテレビ番組では見ないわけだ。
「身体についた粘着を落とすのに3時間くらいかかりました。なので、粘着クイズに出ると次のクイズには出られませんでしたね」
カメラに映らないところでも戦っていた。
「背中などの手が届かないところは芸人同士で洗い合って。それでも取れないのは、身体にタオルをベタッと張りつけて、一気に剥がすんです。うっ血したような状態になって“痛い、痛い!”なんて言いながら、ね」
ここまでハードな収録現場だから、その場で出演予定だったタレントやそのマネージャーからNGが出ることも少なくなかった。
「演出の人が困ってたけしさんに相談したら、“あぁ、いいよ! ダチョウと軍団がいるからよぉ”と言って。ダチョウ倶楽部とたけし軍団は全クイズの出演予定に○がついていました。誰かがダメになったときに、ダチョウか軍団を入れろという保険ですよね(笑)。おいしいですけど、そのぶん、大変でした」
ビートたけしの絶大な信頼を得ていたゆえのNGなし。彼らはそれに応えるための努力家でもあった。
「合間によく“さっきはここが惜しかったですよね”なんて反省会みたいな会話もしていました。ダチョウと軍団が、野球でいうクリーンナップという感じ」
後の売れっ子芸人たちも“クリーンナップによる笑いへの姿勢”を間近で学び、羽ばたいていったという。
「ナインティナインの岡村(隆史)とか出川(哲朗)とかも出ていましたね。出川がイジられキャラで注目されるようになったのは、そこからかな」
やりすぎの「人間性クイズ」
肉体的に過酷なクイズと両輪をなしていたのが『人間性クイズ』。出川や岡村がブレイクしたキッカケでもあり、同番組のもう1つのメインとも言える。
「人間性クイズは完全にドッキリだったので……。たしか最初に引っかかったのは僕。第2回のときで、その日は別の番組の収録があって、僕は夕食のシーンから参加。広間に案内されて座ったら、隣に元オナッターズの南麻衣子ちゃんというかわいい女の子がいて、やたら話しかけてきて、僕の大ファンだと言うんです」
そこからすでに何もかも始まっていたらしい。
「知らないのは僕だけで、ほかの全員が仕掛け人。南麻衣子ちゃんが少し席を立った隙に、周りの芸人が“らっきょさん、あの子、イケるんじゃないですか?”なんて声をかけてくる。その気になって、“今晩もしかしたらいいコトがあるかも”と思って」
たけしまでノリノリで仕掛けに参加して、
「会話に入って来て、“あの子が僕のこと好きみたいなんです”と話すと、“いや、ありえねぇよ! もし、うまくいったら小遣いやるよ”なんて言うからアドレナリンが出て、見事に引っ掛かりましたね(笑)。夜、その子の部屋に行ったらカメラが仕掛けられていて、みんなが大広間でその様子を見ていたんです」
これで凝りそうなものだけど、らっきょは別の回でも引っかかっている。
「『字読みクイズ』といって、ストリッパーのお姉さんの身体に文字が書いてあって、それを読んでクイズに答えるという設定なんですが、実はドッキリ。“人の裸を見ると井手は負けず嫌いだから絶対に脱ぐ”という、たけしさんの策略でした。案の定、僕が裸になってお姉さんと踊っていたら、後ろの暗幕がバタンと下りて、家族や親せき10人くらいが正座して見ているんですよ。わざわざ九州から熱海に全員呼んでいたんです。あれはビックリしました」
親族を巻き込んだ壮大かつクレイジーな内容に当時は大ウケ。ちなみにこの番組は、クイズの正解数ではなく独断と偏見による“お笑い的なポイント”で優勝者を決めており、この回は当然ながら彼が優勝。けれども「おめでとう」だけでは終わらせてくれない『お笑いウルトラクイズ』のエンディング。
もしも番組が復活したら……
「スカイダイビングをやらされたときのこと。その日は強風で条件がよくなかったんですけど、30分、40分と待っても風が弱まらず……。風に流されました。インストラクターの先生から“着地は1mくらいのところからピョンとジャンプするような感じです”と聞いていたんですけど、全然違いました。ものすごい勢いで地面に向かっていって、最後はスライディングみたいになって、超怖かったですよ!」
命がけの中、らっきょが考えたことは……ここでも、どうやって人を楽しませるかだから敬服もの。
「ズボンのファスナーを下ろして露出して降りて行ったんですね。地上まであと10mくらいのところになると、みんなが“出てる! 出てるよ!”と言いながらゲラゲラ笑って盛り上がりました。でも、ひとりだけポール牧さんが、“いやぁ、君は芸人のかがみだ!”と、号泣していたんです。それがまたおかしくって……。めちゃくちゃでしたね」
優勝賞品はもらえないけれど、ウケることが最大の栄誉なのだ。まるで大作映画のような大掛かりなロケと、生命の危機すら覚える体験の後の安堵感はひとしお。
「“キツかったけど、盛り上がってよかったね!”とお互いをたたえ合って。それでも、次回のことを考えるとだんだん憂鬱になりました」
悲喜こもごも……。それだけ全身全霊を注いで取り組んでいた番組をまたやってみたいかと問うと、
「みんなで全国各地に1泊2日で行って、クレーンも使ったりいろいろやっているわけですから、制作費は相当かかっていたと思います。まさに、“伝説の番組”ですよね。もしも復活するとなっても、ちょっと考えますね。昔はケガとか怖くなかったですけど。実際、ケガをしてもかすり傷程度。若いから大丈夫という根拠のない自信がありました。でも、今はもう無理(笑)」
本当にウルトラだったのは、すべてを笑いにささげた彼らだっての!