9月2日から、歌舞伎座で始まった『九月大歌舞伎』。公演の幕開きを飾る『お江戸みやげ』に九代目中村福助の姿があった。
「舞台の主役は福助さんの弟の八代目中村芝翫さんですが、開幕してすぐに舞台の中央にいたのが福助さんだったんです。物語の大筋に関わらない老女の役でしたが、登場するやいなや客席中から拍手喝采でした」(鑑賞していた女性)
再び会場が沸いたのは、それから数分後、彼が退場する場面だった。
「舞台からはける際、福助さんがご自身の足で歩かれたんです。わずかの出演でしたが感動しました。彼はこれまで苦労されていましたから……」(同・鑑賞していた女性)
距離にすれば10数メートルほどのものだったかもしれないが、この“歩み”には、彼が背負う伝統の重みがあった。
50代で脳内出血の悲劇
福助は本来、端役を演じる役者ではない。彼は名のある女形を多く輩出してきた名門“成駒屋”の長男だ。
「端正な顔立ちと透き通った声が持ち味。芸の評価も高く、'13年9月に、女形の大名跡である七代目中村歌右衛門を襲名することが発表されました。同時に息子の児太郎さんが十代目中村福助を襲名するダブル襲名が予定されていたんです」(松竹関係者)
さらなる活躍が期待されていたのだが、突然の悲劇が彼を襲う。ダブル襲名が発表された2か月後、'13年11月に脳内出血を起こして長期療養を余儀なくされたのだ。
考えられる症状について、国際医療福祉大学三田病院の脳神経外科医・石川久医師に話を聞いた。
「脳内の血管が高血圧などの理由で破れ、脳の組織の中に直接出血することを指します。出血の量や場所によっては命に関わることも。発症は60代から70代に多く、福助さんのように50代での発症はそうとう若いですね。若い人ほど脳が萎縮していませんから、出血によって脳が強く圧迫されたと考えられます」
手術は成功したが、彼の右半身には麻痺が残ってしまうことに─。
「手足の運動機能はそれぞれ反対の脳がコントロールしているので、福助さんの場合は左脳にダメージを受けたのでしょう。左脳は言語や計算などを司っているため、日常生活に影響が出る人も多いです」(石川医師)
息子との「W襲名」という夢
すでに発表していたダブル襲名は無期限延期に。福助はリハビリで運動機能の回復を目指し、そのかいあって'18年9月には舞台復帰を果たす。
「復帰時の演目は『金閣寺』。座ったままの役でセリフも少しでしたが、4年10か月ぶりに舞台へカムバックしたことは話題になりました。関係者の中には“復帰は難しい”と語る人もいましたからね」(前出・松竹関係者)
本誌が復帰直後に話を聞いたときは「頑張ります! 応援してください」とコメントをくれた。
しかし、その後は表立った動きが少なくなってしまう。歌舞伎評論家の喜熨斗勝氏は、福助が抱いていたであろう複雑な心情を思いはかる。
「彼は口数の少ないつつましい性格ではありますが、芸に関しては妥協を見せません。自分に厳しい面を持つ方ですから、闘病中の身では歌右衛門という大名跡を継ぐことはもちろん、人前で芸を披露するのもためらってしまうのかもしれませんね」
精神的に追い込まれた時期があったのかもしれないが、近年は完全復活の兆候を見せていた。
「昨年12月の国立劇場『鶴亀』に出演。今年3月には『中村福助 児太郎 今ここにいること』という舞踊と長唄の配信を行うなど、積極的に活動していました。振り返れば、今月の舞台に立つための布石だったように思えますね」(スポーツ紙記者)
元松竹の宣伝マンで芸能レポーターの石川敏男氏は、福助はコロナ禍で大打撃を受けた歌舞伎界を見て奮起したのではないかと考える。
「ハンディキャップがある福助さんにとって、コロナ禍に活動を活発化させるのはとても危険なこと。それでも舞台に立つということに、彼の歌舞伎への強い思いを感じます。そして、歌舞伎座で歩みまで見せたのは、現在止まってしまっている“ダブル襲名”という夢をまだ諦めていないという意思表示なのかもしれませんね」
意欲を見せる場所に『九月大歌舞伎』を選んだことも、大きな意味があるようだ。
「この公演は“六世中村歌右衛門二十年祭”と“七世中村芝翫十年祭”に位置づけられる“追善公演”といって故人となった俳優の回忌の年に、その冥福を祈って行われるものです。
現代歌舞伎界を代表する名優といわれた十七代目中村勘三郎さんが“歌舞伎の真髄は襲名と追善と見つけたり”と語ったほど、襲名と同じくらい大切な行事です。
福助さんは、先代と息子の児太郎くんのためにも、この九月大歌舞伎で完全復活をアピールしたかったのでしょう」(喜熨斗氏)
福助本人に直撃すると……
ますます現実味を帯びだした福助の“ダブル襲名”の気運。九月大歌舞伎の幕開きで見せた力強い歩みは襲名への布石なのだろうか─。
9月上旬、自宅から妻とともに姿を現した福助を直撃した。
─歌舞伎座での再復帰おめでとうございます。
「ありがとうございます」
─今回の出演を、ダブル襲名の布石と見ている人も多いと思うのですが?
「…………」
突然の質問にも快く対応してくれたが、襲名の話になると何も言わずにタクシーに乗り込んでしまった。
隣にいた妻も「話せることと話せないことがありますので……」と明言を避けた。
「松竹としても“ダブル襲名公演”を実現させたい気持ちは強い。同じようにダブル襲名が延期になっている海老蔵さんの動向も気になります。コロナが明けた後に團十郎と歌右衛門という大名跡が復活すれば、歌舞伎界は大いに盛り上がるでしょうね」(前出・石川氏)
8年ぶりに歌舞伎座で見せた福助の“歩み”は、歌舞伎界にとっても大きな一歩になるに違いない。