キャバレーのボーイ、タイル店の見習い、白タク運転手……友人の誘いに二つ返事であっさり乗って職業を転々としてきた。あれよあれよという間に芸人となり、地でいくギャグに目覚めた間寛平。6300万円の借金を抱えた騒動も、周囲の力を借りて上手に甘えながら、乗り越えてきた。芸能生活51年目、いまだチャレンジを続けるレジェンド芸人のあまえんぼう人生とは──。
記念ツアーには明石家さんまも登場
6月6日。東京千代田区有楽町のビルにある「よみうりホール」で、『間寛平芸能生活50周年(+1)ツアー〜いくつになってもあまえんぼう〜』の公演が始まった。
前半のゲストコーナーには、かまいたち、千鳥、次長課長、中川家などいくつものレギュラー番組を抱える超売れっ子芸人たちが次々と登場。楽屋で出番を控える大先輩・間寛平をいじり倒し、会場を温めるひと幕もあった。そして、いよいよ本日のメイン、吉本新喜劇の舞台の幕が開いた。うどん屋を舞台に店の従業員たちと入れ替わり立ち替わり現れる客や闖入(ちんにゅう)者がドタバタを繰り広げる喜劇。
内場勝則、辻本茂雄、池乃めだかなど吉本新喜劇の座長経験者が脇を固め、ジミー大西、村上ショージなどおなじみの顔ぶれも舞台を賑わせる。
遠くからバタンバタンと激しい音が聞こえると思ったら、はげ頭に着物姿の老人、座長である間寛平(72)が、杖を四方八方に振り回し、床や椅子を叩きながら登場。「最強ジジイ」と呼ばれる寛平の定番キャラである。とぼけた風体のド派手な登場で客席は一気に笑いに包まれた。
そして、舞台も中盤に差し掛かったころ、「きゃー!」という歓声が沸き起こった。
サプライズゲスト、着物姿の明石家さんまの登場だ。舞台中央でさんまが両手を動かすと、客席からは一糸乱れぬ手拍子がチャッチャッチャ、最後はおなじみのポーズで決めた。それからはさんまの独壇場である。ジミー大西、村上ショージ、そして寛平を相手にむちゃ振りに次ぐむちゃ振り。最初はギャグで返していた寛平も、さんまの執拗なたたみ掛けに、スベりにスベり、絶句してただ呆然。すると、場内の笑いは爆笑へと変わり、大変な盛り上がりとなった。
舞台の冒頭、寛平は浪曲の節回しで自身の半生をこう唄ってみせた。
「我の底力1割、9割皆のおかげです。ゴールまであと何kmかわかりませんが、皆さん、これからも支えてください。私はいくつになってもあまえんぼう」
東京のキャバレーで失望
間寛平(本名=間重美)は、高知県宿毛(すくも)市に生まれ、12歳のときに家族で大阪市住之江区に転居した。
高校では野球部の万年補欠。卒業後は、歌手を目指して東京へ。石原裕次郎、小林旭、宍戸錠に憧れていた。
「笑われるかもしれんけど、日活映画を見ていた僕は、東京のキャバレーに行けば小林旭や裕次郎に会えると本気で思っていたんですわ」
大阪のキャバレーには、スペシャルゲストとして小林旭や裕次郎が実際に来ていたし、マヒナスターズやロス・プリモスもおなじみだった。
「信じて疑わなかったね。キャバレーで有名な歌手と知り合いになって、『付き人にしてください』と頼めば歌手デビューできると思ったんや」
向かった先は、日暮里の『スター東京』というキャバレー。その店で中学時代の同級生が何人か集まり、ボーイとして働いていた。7人で8畳間に雑魚寝し、寛平のボーイ生活が始まった。しかし、待てど暮らせど、寛平の働くキャバレーには、裕次郎も小林旭も美空ひばりもやってはこなかった──。
時は、1970年の大阪万博直前。大阪は、博覧会の準備や工事で賑わっていた。
「大阪にいる中学時代の同級生から『ダンプの運転手が足らんのやけど、うちの会社で働いてくれへんか』と電話があった。わかった言うて、すぐ大阪に帰ったんですわ」
東京にいても歌手にはなれない。さすがに現実に気づき、あっさりと軌道修正したのだ。
「こういうときには、逆らわずに流れに任せるとうまくいくと思ってた。事件は起きるけど、うまいことなる、とね。キャバレーでの失望もあってすぐ話に乗りましたよ」
ダンプの仕事はめちゃくちゃ忙しかった。運んだのは工事現場の残土。しかし万博が開催されるとお払い箱に。先行きを案じていると、今度は別の同級生と再会する。
「そいつは、中学を出てから大工の見習いをしていた。話を聞いて大工の仕事がすごく羨ましくなったんですわ。家を建てる仕事は一生なくならんし。それで考えた末に、タイル屋に弟子入りすることにしたんですね」
タイルは1枚貼るごとに単価を支払われる。その当時でも1日1万円くらいにはなるなかなかおいしい商売だった。
「ところが、きれいに貼ったつもりのタイルが、30分もするとパタリパタリと落ちてくる(笑)。技術もないし、あれは接着剤の配合が難しいんやね。半年間頑張ったけど、一生懸命貼れども貼れども僕の貼ったタイルはパタパタと落ちてしまうだけ。しばらくして仕事に行かなくなりました」
その後、母親に泣きついて買ってもらったクラウンの中古車でたまたま競艇場に向かう人を乗せてあげたのをきっかけに、白タク稼業を始めた。
「こんなボロい商売ないで」と喜んでいたのもつかの間、寛平のクラウンは大型トラックに追突され、ケガをして入院。ムチ打ちで10日間の入院を余儀なくされた。
入院中の楽しみといえば、テレビとラジオだけ。横山やすしと西川きよし、桂三枝、笑福亭仁鶴など、「吉本」という会社の芸人がいろいろ出てきて、本当に腹の底から笑わせてくれた。
(好きなことを言えて仕事になるのはええなぁ)
そんなところに、同級生が見舞いにやってきた。
「俺、こんなんやってみたいんやけど」
寛平がテレビを指差してつぶやくと、
「ほな、俺紹介したろか?」と言う。聞くと彼がバイトしているディスコに吉本の芸人がよく来るらしいのだ。
退院後、さっそく友人を訪ね、ディスコの支配人に劇場を紹介してもらった。
その劇場とは鳳啓助・京唄子、海原千里・万里(上沼恵美子のコンビ)、桂ざこばなどが出演していた千日劇場だった。そこに所属する『すっとんトリオ』というお笑いグループに弟子入りさせてもらったのだ。ところが早々にメンバーの1人が言った。
「コメディアンは、ストリップ劇場から叩き上げなあかん。そこで勉強してきな」
寛平は、通天閣のジャンジャン通りにあった「温泉劇場」というストリップ劇場に放り込まれたのだった。
飛んできたものは投げ返す
ストリップ劇場は、セクシーな踊り子さんを見にくる場所である。誰もコント、それも男の芸など見向きもしない。一方でその逆境からのし上がることができれば、実力が認められたといえる。
ヤジを飛ばしながらパン屑や吸い殻などの物を投げつける観客たちを相手に寛平は芸を続けた。
そしてしまいには頭にきて、投げつけてきた物を客席に投げ返してやった。高校時代の野球部の腕がものを言ったのか、そのコントロールのよさが評判となり、寛平はいつしか「ジャンジャン通りの若」という愛称で呼ばれる人気者になっていた。
「そこで1年やりました。高校を卒業していろいろな職業についてはみたものの、これほど長く続いたのは初めて。この仕事が自分の性に合っていると思いましたね」
一方で、酔いどれ客を相手にするだけでは満足がいかないようにもなっていた。子どもやおばちゃんを楽しませる仕事をしてみたい──。
寛平は、以前見舞いに来てくれた同級生にそんな悩みを打ち明けてみた。すると彼は、
「今バイトしている喫茶店に吉本興業のえらい人がよく来るんや。ママと知り合いらしいからママに言うとくわ」
友人がバイトする喫茶店で、吉本興業の部長、そして新喜劇の台本を書いている作家先生を紹介され、あれよあれよという間に面談に至り、晴れて吉本に合格。1970年10月10日、寛平は吉本の研修生となったのだ。
師匠を激怒させた付き人時代
研修生は、舞台にも上がるが最初のうちはもっぱら雑用係である。
幕を上げたり下げたり、先輩の衣装をたたんだり着せたり、靴を磨いたり、化粧前(役者が化粧をする鏡台)の道具を洗ったり、先輩の役者さんの食事を運んだりと目が回るほどの忙しさだった。
「よう動く、あんな動くやつはいてない」
程なくして寛平の働きぶりに推薦の声が上がり、吉本新喜劇を代表するスター花紀京さんの付き人に抜擢される。
あるとき、お使いを頼まれた寛平は、ついでになぜかアメ玉の首飾りを買い、首からぶら下げていた。
「付き人は舞台が暗転したら懐中電灯を持って師匠を袖に連れていくのが大事な役目。暗転直前、ぶら下げた首飾りからアメ玉を師匠に渡して、『よろしくお願いします』と頭を下げたんやね。そしたら、師匠は『……こ、こんな腐ったもん食えるか!』と怒っちゃった。で、実際に暗転になって懐中電灯持って迎えにいって、『こっちですよ、こっち』と懐中電灯を師匠の顔に当てながら言ったら、『眩しいやろ、下や下を照らせ!』って。その様子が客席にバレバレで大爆笑となって、師匠は真っ赤になって怒ってはった」
結局、失敗の連続により半年でクビ。再び幕引きに逆戻り。舞台にはちょい役で出させてもらう日々が続く。
そこに現れたのが、新人の木村進さん。大阪では有名な役者「博多淡海」の息子だった。幼いころから父親の芸に触れ、稽古を重ねてきただけに芸も達者で、吉本での扱いも違っていた。
1歳年下の木村さんとはウマが合った。お互い酒好きでよく杯を酌み交わし、彼は寛平の芸を褒めてくれた。
「寛平兄さんは面白い。兄さんのボケの味をわからん芸人は失格やと思います。僕を一緒にやらせてください」
木村さんが会社にもそう進言してくれたらしく、寛平さんと木村さんのコンビで売り出すことになった。
入団から4年目、24歳にして寛平は木村さんとともに吉本新喜劇の座長へと正式昇格したのであった。
座長ともなれば、台本の書き換えから演出にまで口を出す。しかし、経験の浅い寛平は、台本を直すことも芝居を直すこともできない。そこで、素直に座員である先輩たちにお願いした。
「わからんものは直せへん。よろしゅうたのんます。自分のできることは目いっぱいやらせてもらいますんで」
見栄を張ることもなく、素直に甘えてきた年下の座長に、先輩たちは「わかった。任しといてえな」とセリフや芝居を直し、盛り上げてくれたのだ。
「おっさーん、アホかアホかアホか、オッサーン!」
客席にいる面白い顔をしたおっさんを指してこんなギャグを飛ばすと、子どもたちがキャッキャッと腹を抱えて笑ってくれるようになった。
このとき、寛平は計算をすることもなく、地でいくギャグで勝負することを決める。
「やっと俺の生きる道を見つけることができた!」と思えた瞬間だった。
“出待ち”していた女子高生と
1976年、寛平にある出会いが訪れた。朝日放送の『あっちこっち丁稚』というコントバラエティー番組のレギュラーとなり、リハーサル室にいたときのことだ。部屋の隅に目をやると、見覚えのある女の子がいた。7、8年前、楽屋出口で「出待ち」をして自分を見つめていたあの子だった。
聞くと、彼女は児童劇団にいて人形劇をやっていたのだが、吉本の関係者にスカウトされ、「ちょっとした役があるから」と言われてやってきたらしい。
「なんでこんな世界に入ってきたんや?」と聞いたら、「もう吉本入ったんです」と言う。
「そこからですわ。劇団は終わるのが遅いでしょ? 夜11時くらいになる。『君、家どこやねん?』と聞くと『兵庫県の宝塚です』『じゃあ、送っていこか?』となって僕の車で彼女の家まで送っていくようになったんですね」
後に寛平の妻になる光代さんは、まだ17歳。高校を出たばかりだった。その当時、新喜劇の舞台と稽古で大忙しだった寛平は、実家には帰らず、劇場に近いラブホテルを住居にしていた。
「坂田利夫さん(アホの坂田で有名)と、もう1人の先輩とそのホテルに泊まってました。まあ寮みたいな感覚ですね。彼女を送ってからそこに帰るような生活でした」
朝、寛平が楽屋の自分の化粧前に座ると、光代さんが作ってくれたお弁当が置かれるようになっていた。
ある夜の仕事帰り。ひとりで車を運転していた寛平は、カーブでハンドルを切り損ねて道路の脇にぶつけ、歩道に乗り上げる事故を起こしてしまう。頭を打ったらしく顔中血だらけだった。救急車で病院へ。そして病院から向かった先は、ときどき泊めてもらうこともあった光代さんの実家だった。それからというもの、寛平は光代さんの家に帰ることが当たり前のようになり、彼女との結婚を考えるようになる。
「付き合いだして2年くらい、彼女が二十歳になったころですね。会社も僕にしっかりしてもらうために結婚させたがっていました。お母さんも反対はしなかったですね。ちょっとずつラブホテルにあった荷物を彼女の実家に運んでいってね。そしたら見かねたお母さんがファンシーケースを買ってくれましたよ」
1978年、2人は入籍。天王寺の式場で劇団員全員が集まり2人の門出を祝福した。寛平28歳、光代さん20歳。光代さんは吉本を辞め、芸人・間寛平を支える妻として奔走することになる。
借金地獄と大爆笑裁判
その後、新喜劇の座長として活躍するだけでなく、レコード『ひらけ!チューリップ』で歌手デビューし、100万枚の大ヒットを記録し一躍有名になった。テレビ出演も増え、芸能界のスター街道をまっしぐらに突き進むかに見えた。
しかし、程なくして先輩芸人や知人など複数の連帯保証人になっていたことがきっかけで、「借金地獄」に陥る。
若いころから、流れに身を任せてきた寛平は、「甘え上手」でありながら、甘えられることも多く、断れない性格だったのだ。
そんな中、1985年から放送を開始した関西テレビの『今夜はねむれナイト』から誕生したキャラクター「アメママン」が評判となる。寛平は、借金地獄から抜け出す起死回生の一手として、アメママンをモチーフにした「アメマバッジ」を製作し始めた。
「グッズ販売で大儲けして借金を完済させようともくろんだんだけど、製作した10万個のほとんどが売れ残ってしまった。さらに借金は膨らみ、6300万円を超える借金を抱えてしまったんですわ」
古くから寛平と仕事している池乃めだか(78)は、実は自分も悪いと苦笑する。
「寛平ちゃんにアメマバッジ作って売ったらええやん、って言うたのは僕なんですわ。まさか、あんなことになるなんて思いもしませんわ(笑)」
バッジの代金を払えない寛平さんを相手に製作業者は裁判を起こした。
法廷で裁判官が「アメマとはどういう意味ですか?」とまじめに尋ねたのに対して、寛平さんは「アーメーマー」とギャグを披露。理解できない裁判官が再度尋ねると、再び「アーメーマー」。法廷は爆笑の渦に包まれたのだった。しかしこの「アメマ」、実は偶然生まれたヒットキャラだったと寛平はあっさり明かす。
「ある番組で何でもいいから『決め』のひと言を言え、という企画があって、そこから出た言葉なんですよ。関西では赤ん坊をあやすときに、よく『マンマ、マンマ』と言う。それで僕は勢いで『マンマー!!』と叫んだ。子どもがお腹すいたときの声ですね。そしたら番組の司会者が、『何なんですか、そのアメマって?』。まぁ聞き間違いなんやけどね、そこから『アメマ!』になって、盛り上がったんや」
池乃めだかによると、寛平の借金取りは劇場まで来ていたという。
「新喜劇の幕が下りると、寛平ちゃんは楽屋側とは反対のほうに行く。『どないしたんや?』と聞くと『舞台降りたら借金取りが待ってるから』って。まさかと思ったら、ホンマにおるんで驚きましたわ(笑)」
この借金返済生活は、後々まで続いた。
返済のとき、乳飲み子を抱えた光代さんが寛平と一緒に行くこともあったらしい。
「返済のために街金を回るわけですよ、嫁も一緒に。嫁は相手に『すいません、すいません』と頭を下げながら、腕に抱いた子どもの腕をこっそりつねる。そう、泣かすわけ(笑)。『何とか、今回はこれで許してもらえないでしょうか』って。そしたら、相手は、『わかった、わかった。もういいですから』と。出てくると、嫁は『次、どこ?』って(笑)。たくましいわ、ほんまに」
“お告げ”からマラソン人生へ
1989年、37歳になった寛平は、突然新喜劇を退団して東京進出することを思い立つ。
時は平成元年。熱病のように日本中が沸いた漫才ブームが過ぎ去り、時代を席巻した関西のお笑い芸人がみな東京を引き上げた後だった。
当初は、吉本興業を辞めて東京進出するつもりだったが、東京事務所所長だった木村政雄さんに説得され、東京本社への移籍となった。
担当マネージャーとなったのは、後に寛平のマラソン企画のパートナーとなる比企啓之さん(58)。当初、比企さんは寛平が東京で売れるのは難しいと思っていたが、次第に印象が変わったという。
「見てたら『あ、この人売れるわ』と直感が働いた。寛平さんと一緒に酒を飲んだりしながら、それは確信に変わったんですね。『笑っていいとも!』に寛平さんが出演したときも、客席はギャグにシーンとしてるけど、タモリさんと僕はゲラゲラ笑っていたんです。いかにスベったかが肝心なんですよ。寛平さんはホームランを打つんですね(笑)」
東京行きの5年ほど前のある夜のこと。寛平は自分が必死に長い距離のマラソンを走っている夢を見た。
高校時代、野球部でグラウンドを何時間も走らされたことはあったが、本格的にマラソンをすることなど考えたこともなかった。たまたま早起きした朝、試しに走ってみると想像以上に走れることに自分でも驚いた。それから毎日走るようになった。
やがて、その噂は吉本興業の関係者にも知られるようになっていく。
'86年、テレビのプロデューサーに「ちょっと番組で30kmの青梅マラソンを走ってくれないか」と言われ、二つ返事で引き受けた。「3時間以内に完走したらギャラ倍にしたる」という会社役員の言葉に乗った寛平は、必死でゴールを目指し、2時間26分を記録。見事ギャラを倍にしてみせたのだ。
さらに、「ホノルルマラソンで郷ひろみの3時間36分の記録を抜いたら100万円。ついでにギャラも倍」という賭けにも挑戦し、見事3時間13分でこれまた勝利。
次第に、ある世界的な大会に目を向けるようになる。「スパルタスロン」という毎年9月にギリシャで開催される、246kmを一気に走破するレースだった。紀元前490年に起こったアテネとペルシャによる「マラトンの戦い」で、アテネ軍の使者がスパルタに援軍を頼むため、246kmを一昼夜で走り抜けたという故事にちなんだ大会だ。
寛平は、'88年「スパルタスロン」第6回大会に初参加、しかし141kmでリタイア。続いて'90年第8回大会、191kmで再びリタイア。そして'91年第9回大会で見事35時間4秒のタイムでゴールしたのだった。
2回目のスパルタスロンの挑戦は、1時間半のドキュメンタリー番組にまとめて放映された。
実は、この寛平の挑戦を番組にしたいと思ったのは、マネージャーの比企さんだった。しかし、寛平だけではなかなか企画が通りにくい。そこで制作会社の「もしも、さんまさんが出てくれるならなぁ」という言葉をそのまま寛平に伝えたのだという。寛平は、さんま本人に直談判し、番組出演を承諾してもらったのだ。
比企さんが言う。
「制作会社は、もし寛平さんがスタート直後にリタイアしたら番組として成立しないけど、さんまさんがいたらギリシャの旅番組にすればいいと(笑)。スパルタスロンで僕は寛平さんの走りをずっと見ていて、これはドキュメンタリーになると確信した。そこから、24時間マラソンの発想が生まれたんですね」
その後、寛平は、'92年に『24時間テレビ』の初代チャリティーマラソン走者に抜擢され、'95年には阪神・淡路大震災の復興支援に感謝の意を表した神戸─東京間約600kmのマラソンを敢行した。
仲間にブチ切れた壮絶レース
数多くのマラソンイベントに参加してきた寛平だが、もう2度とやりたくないレースが1つだけあると言う。フランスのアドベンチャーレースの元祖『レイド・ゴロワーズ』だ。レースの舞台は山や川、ジャングル、湖、砂漠、氷河、前人未踏の難所である。直前に渡された地図を頼りに、徒歩、自転車、カヤック、クライミング、乗馬など複数のアウトドア競技をこなしながら、チェックポイントを通過してゴールを目指す。500kmから700km前後の長距離レースはスタートしたらノンストップで、夜間もほぼ不休状態で続けられる。チーム構成は、男女混成の4〜5人が条件だ。
1994年の11月、場所はボルネオ。寛平46歳だった。
「間寛平チーム」は、現在アドベンチャーレーサーとして知られる田中正人さん(当時26)を隊長に、副隊長は山岳部出身者の21歳、カヤックはアウトドアショップの店員、女性はトライアスロンの選手、そして寛平の5人。
「11日間ジャングルの中を突き進む。地図を頼りにウンコだらけの道や川を歩いたり、とんでもない山道を登ったり。もう、過酷にもほどがあるという状況でチームワークはガタガタになる。この穏やかな間寛平がブチ切れるくらいやからね(笑)」
多くの大会やレースに参加してきた寛平でさえこのレースはあまりに勝手が違った。体力だけでなく、精神的にも人間関係的にも極限状態に追い込まれていったのだ。
レース中、シャツや下着は水で洗って干しながらゴールを目指すが、雨季のせいでなかなか乾かない。川を渡る際には、ルールとしてチームのユニフォームを着ることになっていた。
「でも、俺のユニフォームはびしょびしょでまだ着てられへん。そう言うと隊長は『いや、着てください』と。そして21歳の副隊長が『隊長命令に従ってください!』と。それで俺は『何ぃ!』となった。『お前26やろ! お前21やろ! 俺46や! なんでお前らに命令されなあかんねん! こんなレースやってられるか!』とブチ切れた。
でも、ふと後ろを見ると、女性隊員ともう1人が俺のユニフォームを必死にギューーーッと絞ってる。それを見て、『くそーーーー! 貸せ!』と言ってユニフォームをつかんで着て100mくらいある川を渡った。そういうレースなんやね」
チームは133時間50分で完走。40チーム中15位で日本人としては初完走だった。
「あれは2度と勘弁してほしいね」と寛平は苦笑する。
そして──、想像を絶する大きな闘いが、今でも語り継がれる一大プロジェクト「アースマラソン」である。それはマラソンとヨットで地球を一周する壮大な旅だった。
2008年12月17日、大阪「なんばグランド花月」をスタート。大阪から千葉、千葉からヨットで太平洋を縦断し、アメリカ大陸へ。そしてヨーロッパへと向かう。
途中、2010年1月トルコ・イスタンブールで寛平が前立腺がんを発症していることが判明。治療を行いながら、続行することにしたが、サンフランシスコで放射線治療を行うために一時中断。同年6月トルクメニスタンで再開した。ウズベキスタン、カザフスタンを経て中国・青島から2011年1月4日博多港内の西福岡マリーナに到着。1月21日、大阪城音楽堂にゴールした。
2年1か月の月日をかけ、4万1000kmに及ぶ長い旅を完遂させたのだ。ゴールの模様は2時間生放送特番として放映された。ちなみに、番組の締め言葉は会場にいた全員での「アメマ!」であった。
「不思議な才能の持ち主」
「ア〜〜メマ!」「かい〜の」「アヘアヘアヘ」「血ぃ吸うたろか!」「脳みそパ〜ン!」など、ほとんど意味のない脱力ギャグで人気を集めた間寛平。
本人は「あまえんぼう」ゆえにここまで来れたことを自覚している。
「ホンマ、さんまちゃんにはいつも助けてもらってる。ギリシャのスパルタスロンのドキュメンタリーでもそうやし、借金で困ってたときもさんまちゃんの番組に出さしてもろたし、地球一周でがんになったときもサンフランシスコまで見舞いに来てくれたんや、もちろん撮影クルー連れてやけど(笑)」
そして、もう1人「あまえんぼう」を許してくれたのが奥さんの光代さんである。
「最近、嫁はんに『おい、俺、お前にずいぶん勉強させたよな』と言うたら、『はい。もう2度とやりたくないけど』って笑ってましたわ(笑)」
間寛平の面白さとは何か。比企さんは、「時代時代に合った面白さ」だと言う。
「今、寛平さんが生まれていたら、ああはならなかったでしょうね。そもそも何のあてもなく、歌手になろうと上京するなんてありえないし(笑)。24歳で新喜劇の座長昇格もありえない。時代が許してくれた人なんです。時代とともに動いてそれがマッチングするすごさ。あの人の性格、世の中の動きが不思議な力でつながっている。アースマラソンだって、リーマンショックの後だったら実現できていない。その時代における直感が結果的にマッチする、不思議な才能の持ち主ですよ。寛平さんだけは戦略を持たずに不可能を可能にしてしまう。もうあんな人は出てこないでしょう」
寛平とともに数々のナンセンスギャグを生み出してきた池乃めだかは言う。
「寛平ちゃんとは打ち合わせなしで、アドリブでどんなことでもできる。とんでもない返しに吹き出すことも多いんやけど、まだまだ一緒に楽しみたいですね」
村上ショージは、「寛平さんはすごい」と言い切る。
「借金もすごいけど、マラソンはもっとすごい。がんになって普通なら諦めるところを諦めない。前が見えなくても踏み出すすごさ。ホンマは、地球周ってくるより近所周ってもらったほうが面白かったんやけどね(笑)」
寛平とショージさんは、今年の『キングオブコント』に挑戦。ファイナリストには手が届かなかったものの、合計138歳の超ベテランとして会場を盛り上げた。
「準決勝は若手と一緒の大部屋楽屋やったけど、ほんまにあいつらすごいなぁ。色々勉強になった。僕自身、本番前足震えましたからね。でも令和になっても鎌倉時代のギャグは結構通用するもんやね。え? 意味がわからない? もうええわ」
(取材・文/小泉カツミ)
ノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある