東京五輪、試合のタイム時間に叱咤する姿が話題となり、あまりの迫力に「監督怖い!」が一時トレンドワードになった。自信をなくす選手、スランプに陥る選手、けがから復帰できない選手……直前まで続いたチームの危機にも、ぶれない“パッション”で向き合い──。日本中を感動させた快挙の裏には、壮絶な闘いの日々があった。
「高さでは勝てない」を覆した指揮官
2021年8月4日夕刻、さいたまスーパーアリーナの電光掲示板は「37・4秒」を示していた。
世界ランキング6位のベルギーに序盤から粘り強く迫った東京五輪のバスケットボール女子日本代表。第4クオーターで敵を捉えたものの、ギリギリのタイミングで85―83と再び2点をリードされた。
まさに追い込まれた状態。それでもトム・ホーバス・ヘッドコーチ(以下、HC)と選手たちは「十分、イケる」と自信を持っていた。
チームの大黒柱、高田真希(デンソー)は目を輝かせた。
「『ラスト数秒間でどうするか』というトムさん特有の特別練習を繰り返していたので、37秒あれば必ず逆転できると思っていた。焦りはなかったですね」
キャプテンの言葉どおり、日本は冷静な試合運びを見せ、迎えたラスト15・6秒。司令塔の町田瑠唯(富士通)のパスを受けたシューター・林咲希(ENEOS)が迷わず3ポイントシュートを放った。
次の瞬間、ゴールネットが激しく揺れ、日本は86―85と逆転。最後まで守り抜き、五輪史上初のベスト4を叶えた。
彼女たちを勇気づけ、自信あふれる集団に引き上げたのが、ホーバスHCだった。
メダルを懸けた準決勝はフランス戦。長身選手をズラリとそろえた難敵だ。日本は消極的な入り方で序盤から予想外の劣勢を強いられた。
「自分たちのバスケットしてないね。みんな楽しんでない! いい顔してないよ!」
最初のタイムアウト。ホーバスHCは選手たちに容赦ない苦言を呈した。感情むき出しで選手たちを鼓舞する映像は世界中に流れ、SNS上でも「監督怖い」などのワードがトレンド入り。
だが、町田にとっては日常の風景だった。
「トムさんの怒る姿は怖いといえば怖い(苦笑)。でも言ってることは正しいし、『そうだよな』と感じます。あのときも実際、楽しめていなかった。切り替えて相手をブレイクしてやろうと思ったんです」
ここからは凄まじかった。162cmの小柄な司令塔が大型選手に果敢にアタックし、次々アシストを決めていく。彼女に導かれ、チーム全体が躍動感を取り戻した。
第2クオーター途中に逆転し、87―71で勝利。日本はメダルを確定させた。
そして迎えたアメリカとの最終決戦。「東京五輪の決勝で母国・アメリカを倒して金メダルを取る」というのはホーバスHCの悲願だった。
「この練習は金メダル足りるの!?」
「今の練習で金メダル取れると思うの?」
目標の「金メダル」をこの日まで幾度となく口にし、選手たちに意識させてきた。
しかし、世界最高峰チームは第1クオーターから地力の差を見せつけてきた。日本は本橋菜子(東京羽田)らの3ポイントで反撃したが、ジリジリと差を広げられ、75―90で終了の笛。金メダルは手に入らなかった。
それでも、ホーバスHCは教え子たちを心から誇りに感じていた。
「アメリカの選手、ダイアナ・トーラジを教えたことがあったんですけど、彼女が試合後、僕にハグしてきて『トムの日本女子のバスケを全部見たけど、すごく楽しいし、最高だった。でも戦うのはイヤ。今日もやりたくなかったよ』と言ってきたんです。『しつこくやろう』というのが僕のモットーで、敵としてはそれがイヤだったんでしょうね。無観客じゃなくて、スタンドが満員だったら勝てなかったと言った相手選手もいましたね」
10年来の親友で同業者の熊本ヴォルターズのドナルド・ベックHCも快挙を称える。
「トムとは五輪の間じゅう連絡を取り続けていました。彼は最高のモチベーターとして選手を気持ちよくプレーさせていた。10年以上、近くで見てきましたが、トムは日本で成功できる外国人指導者の資質を備えていた。それは日本人や日本という国を理解し、アジャスト(調整)できる力。トムはこの国、文化や習慣を愛し、リスペクトを持ち、誠心誠意、周囲と向き合ってきた。そのうえでチャレンジングなマインドを持ち続けた。なかなかできることではありません」
最強のチームを作り、日本中を感動させた指揮官。長年、「高さでは勝てない」と言われた日本女子バスケ界を揺るぎない信念と情熱で改革した。メダリスト会見で主将の高田は、こんな名言を残した。
「練習がしんどくて、試合のほうが楽だった。そう思わせてくれたのは、初めての感覚」
日本初の快挙を成し遂げた女子代表。ホーバスHCは安堵がにじむ笑顔を浮かべる。
「選手たちは『厳しいとやさしいのギャップありすぎ!』と言います(笑)。でも、みんな文句しないで、目標のために厳しい練習をポジティブにやってくれたおかげ。感謝しています。ありがとう」
トヨタ社員時代に知った「日本」
1967年、西部開拓時代の街並みを残すアメリカ内陸部のコロラド州デュランコでホーバスは生まれた。父親は厳格な人で、勉強が終わるまでテレビを見ることを許さず、ゲームも厳禁。「遊ぶなら外で身体を動かしなさい」と口酸っぱく言われていた。
バスケと運命的な出会いをしたのは、5歳のとき。体育館でシュートを決めた快感が忘れられず、のめり込んだ。そして自然とアメリカプロバスケットボール・NBAの選手になることを夢見た。
ハイスクールを卒業後、コロラドを離れ、進んだペンシルベニア州立大学でも練習に明け暮れる日々。
だが、夢をつかみかけたNBA最終テストで、最初の挫折を味わった。
「16歳で190cm、19歳で今と同じ203cmになり、選手としてもある程度のレベルに達したので、NBAに入れると確信していました。でも、まさかの不合格。バスケをやめようかとも考えましたが、徐々に別の環境でもいいからプレーしたいという気持ちが湧いてきたんです」
ポルトガル・リスボンのクラブと契約を結んだのは22歳のとき。バスケだけの生活も悪くはなかったが、仕事との両立を考えるようになり、日本リーグの強豪・トヨタ自動車(現アルバルク東京)への入社を決める。
バブル絶頂期の1990年、初来日した23歳のホーバスは東京で新生活をスタート。日中は海外マーケティング部で働き、午後からバスケの練習をする生活は刺激的だった。
「トヨタでは英語版社内報の編集に携わりました。世界中の拠点に4万部も配布されるもので、『ライフ・イン・ジャパン』というコラムも執筆しました。僕はコロラドの内陸育ちだから、魚も日本で初めて食べました。朝から魚を食べる習慣にはショックを受けましたね。骨を取るのも難しかった。寿司や海苔も最初は『なんだこれ』って感じ(笑)。今は納豆以外は全部好き。そういった日本の日常を記事にするのは楽しかったですね」
日本語習得にも熱を入れた。来日当初は1週間に1回、学校で1時間学び、さらに独学で猛勉強。瞬く間に会話ができるようになる。この日本語力が後にバスケ女子代表を指揮する強みになったことは間違いない。
トヨタには4年間在籍し、4年連続日本リーグ得点王、2年連続3ポイント王に輝くという華々しい活躍を見せた。
「日本という国は練習やミーティングが朝8時開始なら7時50分までには全員が集まりますよね。それが外国では当たり前じゃない。僕は何事もキッチリした性格なので、すごく居心地がよかった。本当に水が合いました」
NBA再挑戦の勇気をくれた女性
このころ、後に最愛の妻となる英子さんと出会い、5年間交際した。
海外志向が強く、英語やフランス語が堪能で、理想的な理解者だとホーバスは言う。
「強い、まじめ、向上心、independent(自立)した人。モチベーションをもらった」
そんな英子さんの後押しもあり、28歳で「もう一度、NBAに挑戦したい」と決意。アメリカに戻ってアトランタ・ホークスの選抜試験に参加した。3~4か月間で50人、40人、10人、5人と減っていくなかで生き残り、見事合格。
結果を真っ先に伝えたかったのは英子さんだった。
だが、NBAでの1年間は「壮絶だった」と振り返る。
「1人で部屋にいると『どうしよう』『これでいいのか』とナーバスになり、寝られなくなる日も多々ありました。ベストを尽くしたけど、2試合しか出られなかった。できる準備をすべてやり尽くしても、どうにもならないことがあるんだと知りましたね。そのとき反省しすぎるのはよくないと気づいた。『100%準備したならOKなんだ』と過去を振り返らなくなった。仮に負けたとしても、部屋に戻って鏡を見ながら『ベストを尽くしたか?』と自分に問いかけて、『イエス』と言えるなら、もう寝ていいんだと割り切った。マインドが大きく変わったんです」
世界最高峰の舞台で自らを限界まで追い込み、NBAを離れた。
'95年に英子さんと結婚すると、活躍の舞台を日本に移し、トヨタと東芝レッドサンダーズ(現川崎ブレイブサンダーズ)でプレー。2001年、現役生活にピリオドを打つ。
「通訳なし」を選んだ理由
アメリカ同時多発テロが起きた2001年。ホーバス一家はカリフォルニア州サンディエゴへ移住。携帯関連のハイテク会社で8年働き、副社長まで上り詰めた。長男・長女が生まれ、2児のパパとして子育てにも奔走した。
一方でバスケへの情熱も持ち続け、子どもたちのためにバスケチームを作り、お父さんコーチとして連日顔を出すようになる。指導する時間が多くなればなるほど「コーチ業1本で生計を立てたい」という思いが募って仕方がなかったという。
「女子のチームを教えてもらえませんか」
日本女子Wリーグの強豪・JXサンフラワーズ(現ENEOS)から打診が来たのは2009年のこと。
ホーバスHCは長男を伴って3度目の来日に踏み切る。練習拠点のある千葉県柏市に居を構え、プロコーチとしての一歩を踏み出した。
10年近く日本から遠ざかったせいで日本語を忘れかけていたが、通訳はつけず、ダイレクトなコミュニケーションにこだわった。
「僕は中途半端が大嫌い。しょっちゅうアツイことを言うけど、通訳がいるとその熱が伝わらない。ときどき、選手たちを怒っているときに日本語を間違えるんです。選手たちが笑っているから気づくんだけど、それでいい。間違えても直接感情を伝えることが大事」
何かにつけて「すみません」「ごめんなさい」と謝る日本人の立ち居振る舞い、先輩後輩を重んじる上下関係に違和感を覚えたが、日本流を受け入れなければ何も始まらない。そう自分に言い聞かせて取り組んだ。アメリカと日本のいい部分を融合させることがレベルアップの早道だと考えたからだ。
朝から晩まで一緒にいた元JXサンフラワーズの佐藤清美コーチ(現在はENEOS・HC)は、ホーバスHCの前向きな姿勢を大いに歓迎した。
「トムは『日本が勝つには3ポイントを入れなきゃいけないし、走れるチームを作らなきゃダメ。それも身体がオートマティックに動くレベルに引き上げないといけない』と熱っぽく話していました。そのために休む時間がほとんどない練習を徹底して繰り返した。選手たちはものすごくキツかったと思いますね」
2人は練習の後、飲食をともにしながら反省会をするのが常。父としての悩みを吐露することも多く、バスケに取り組んでいた中学生の息子や思春期に差しかかった娘のことを特に気にかけていた。
妻・英子さんと長女が2010年に来日。一時的に4人で住めるようになったが、2011年3月11日の東日本大震災直後に妻と子ども2人はアメリカへ戻った。ホーバスHCは長い単身生活を強いられる。物理的距離はあったが、家族への思いは強まるばかりだった。
娘のマリッサさんは父の思いをしっかり受け止めていた。
「私が小学4年のときから日米別居生活になりましたが、サンディエゴに帰ってきたときはフィギュアスケートの練習を見に来てくれたりしましたね。親父ギャグを言ったり、家の中で1万歩歩いたり、のんびりとブリトーを食べたりと楽しそうに過ごしていた。私自身も一緒にいられるのはうれしかったです」
長男・ドミニクさんも「家族は距離が離れていたけど、密ないい関係を築いています」と話す。彼が高校生のとき、バスケの試合を応援するため、1日滞在の強行日程で日本からサンディエゴに帰ってきてくれたこともあったという。
地道に努力する夫の姿を妻の英子さんは応援し続けていた。
「寂しい思いをさせてしまって申し訳なかったです。その分、トムはバスケのことを考えることで心を埋めていたのかな」
たとえ遠く離れていても、愛する人々の存在が大きなエネルギーとなり、前へ前へと突き進めたのだろう。
ブレなかった「金メダル」宣言
JXで指導をする傍ら、2011年と2015年には女子代表のコーチを務めたホーバスHC。女子代表HC就任の話が持ち上がったのは2016年の年末だった。史上初の外国人指揮官であり、3年後に迫った東京五輪をリードする大役だ。上昇志向が強く、負けず嫌いの男は日本バスケットボール協会からのオファーを快諾。2017年1月23日に就任会見に臨んだ。
「チームの目標はメダル。決勝でアメリカと対戦し、金メダルを取ること」
声高らかに宣言したものの、周りはネガティブな空気に包まれた。ベックHCも「日本人の95%が『金メダルは不可能』と感じたのではないか」と当時の空気を代弁する。
佐藤HCも確信を持てずにいた。
「2016年リオデジャネイロ五輪の戦いを見て『組み合わせ次第ではメダルに手が届くかもしれない』とは感じましたが、さすがに金メダルはちょっと難しいというのが率直な感想でした。日本人指導者だったら、そこまで大きな目標は掲げられなかったでしょうね」
キャプテン・高田も半信半疑だった。
「トムさんは代表アシスタントコーチのときから『日本は絶対、金メダルを取れるから』と口癖のように言っていました。でも『厳しいな』というのが正直な気持ちでした。金メダルを取るには相当な努力が必要。『ここからホントに大変だ』と先が思いやられました」
冷静な高田がそう感じるのだから、ほかのメンバーは戦々恐々としていただろう。
まさに壮大な目標へのチャレンジ。ホーバスHCは選手たちに熱く語りかけた。
「日本は勝てるし、メダルを取れる。自分を信じてください。自分たちが設定した目標をクリアできるのは自分しかいません」
長年、この国に暮らした分、日本人のメンタリティーを熟知している。自信を持たせることは、非常に難しいテーマだと感じていた。
けれども、彼自身も信じて努力したことでNBAという夢をつかんだ。諦めずにやることでしか道は開けない……。信念は揺らがなかった。
第一関門は2017年7月の女子アジアカップ(インド・バンガロール)。代表合宿では、1日の練習は平均7時間。JX時代同様、休みがほとんどない高度なメニューばかりだ。しかも、何かあれば遠慮なく文句を言う。
秘蔵っ子・宮澤も「怒られまくった」と苦笑する。
「トムさんにはJXの新人時代から長く教わっているんですが、当時は昼の20分間、個人練習に付き合ってもらっていました。あるとき、うまくいかず、キレられ、見捨てられてしまった(苦笑)。佐藤清美さんが面倒を見てくれて、関係修復できましたけど、トムさんは何も言わなくなったら終わり。『見込みがある』と思うからこそ、怒ったり、怒鳴ったりするんです」
パッションを押し出す指揮官に戸惑いを覚えた選手もいた。「このままやってて本当に金メダルを取れるのかな……」と不穏な雰囲気が漂うのをホーバスHCも察知していた。
そんなとき、彼はしばしば問いかけた。
「この練習の意味、わかりますか?」
「どうしたら強くなれると思いますか?」
あえて質問したのは、自分たちからアクションを起こせるようになってほしかったからだ。
「厳しくキツイ練習も納得してやらなければ身に付かない。『本気で世界一になるんだ』と彼女たちに考えてほしかったんです」
19時に練習が終わった後はミーティングはなし。心身を休める時間をしっかりつくるというホーバス流の配慮だ。
「コートで散々怒って、もうこれ以上、僕の話を聞きたくないと彼女たちは感じているはず。コートを離れたら、リラックスしてほしかった」
メリハリのあるアプローチを宮澤や高田ら長く時間を共有してきたメンバーが中心になって受け入れ、日本は結束して結果を出していく。2017年女子アジア杯では世界ランキング2位のオーストラリアを決勝で1点差で下して優勝。「金メダル」への本気度はグッと増した。
翌2018年の女子ワールドカップ(W杯)は準々決勝で中国に惜敗して9位。過去10回対戦して7回は勝っていた相手に負けたのは悔やまれた。
「持てる力のすべてを出し切るところが足りなかった。女子代表は試合自体が少ない分、輝ける舞台もほんのわずかしかない。だからこそ、『SHINE(輝けるとき)』を忘れてほしくない」と指揮官は声をかけたという。
挫折を糧に挑んだ2019年7月の女子アジア杯では再び頂点に立った。準決勝でオーストラリアを打破し、ファイナルでは中国へのリベンジも果たした。1年後に迫る東京五輪大会に向け、非常に順調な歩みを見せていたのだ。
ところが、2020年3月。新型コロナウイルス感染症が急拡大。東京五輪の1年延期という予期せぬ事態が彼らを襲った。
沈み込む選手たちへの叱咤
4~5月に1回目の緊急事態宣言が発令され、女子代表も活動休止。選手たちは所属先でトレーニングを続けたが、間近で指導できないホーバスHCは、かつてない不安とストレスにさいなまれた。
2020年1月にひざを負傷し、リハビリに努めていた宮澤はこの期間、指揮官としばしば連絡を取り合っていたことを明かす。
「『調子はどう?』『大丈夫ですか?』とよくLINEをもらいました。私は五輪が通常どおり開催されていたら出られなかった。延期になってチャンスをもらえた立場。トムさんはいい相談相手になってくれて、1年後に出ようと気持ちも高まりました」
11月に代表活動がようやく再開。止まっていた時間が動きだす。だが、今度はキーマンの本橋と渡嘉敷来夢(ENEOS)がそろって右ひざを負傷。長期リハビリから復帰した宮澤も今年1月に肩を痛め、3人の五輪出場が危ぶまれた。
渡嘉敷が担っていたゴール下を主戦場とするポジションはベテラン高田に託された。
「トムさんの代表になってから、主にゴール下がメインの自分も3ポイントを求められました。最初はシュートが届かず、全然入らなかったけど、何とか入るようになった。体力も自信も高まった。身体が動く限り、戦い続けようと思えたんです」
本橋のけがで司令塔役も流動的になった。当落線上にいた町田にホーバスHCははっきりと告げた。
「このままだと東京五輪メンバーに入れない。もっとシュートを決めないと難しい」
厳しい評価を下された町田はパスやドライブが得意で、3ポイントを積極的に打つ点取り屋ではなかった。それがネックになっていた。
「東京五輪に出たいなら、課題をクリアするしかない。やるべきことをやって、それで落ちたら落ちたでしょうがない」
開き直って挑んだ彼女は、2021年7月の最終登録メンバー12人にすべり込む。
これまで以上に個々の選手に厳しい課題を言い渡し、本番直前に最強のチームへと立て直したホーバスHC。
ところが、安堵したのもつかの間、今度は林と宮澤という二枚看板シューターがメンタル面で不調に陥ってしまった。
林に異変が起きたのは6月。60%の成功率を誇る3ポイントが15%まで急降下。チームに暗雲が漂ったのだ。彼女はJX時代のホーバスHCが白鴎大学まで出向き「あなたが必要です」とスカウトし、屈指の得点源へと育て上げた選手だ。
「4~5月は面白いくらいに入っていました。『こんなに入って大丈夫なのか』と思うくらいで、逆に不安を覚えました。その予感が的中し、6月からまったく入らなくなり、感覚さえもわからなくなりました」
そんな林を呼んで、ホーバスHCは怒った。
「今のプレー足りない。全然ダメ。なんで自信ないの? 早く切り替えして」
林はプロスポーツ選手の名言集などを読み漁り「できない自分、弱い自分を受け入れることが大事」という一文を肝に銘じたという。7月頭からは徐々に調子が上向き、本番でのブレイクにつながった。
もう1人の宮澤も、痛めた肩の状態が快方に向かっていたが、本来のシュート感覚を取り戻せず苦悩していた。スランプから抜け出せずにいると、ホーバスHCからこんな言葉をかけられた。
「アース(宮澤の愛称)の力が大事です。僕とチームを助けてください」
出会ってから10年。指揮官に怒鳴られた回数ナンバーワンといっても過言ではなかった。心が折れそうになったことも1度や2度ではない。そんな強気の恩師が弱音を吐き、自分を頼ってくれている。その姿が宮澤に響いた。
「ここでやらなきゃ」
自らを奮い立たせ、本番寸前に復活。3ポイントという武器を取り戻した。
直前の混乱を経て、東京五輪が開幕した──。
ベストに導く魔法のパッション
初戦は7月27日のフランス戦。ホーバスHCは「勝てる」という確信のもと、重圧のかかる一戦に挑んだ。長身軍団・フランスに対抗すべく、じっくり分析・研究を重ね、対策を講じた。第1クオーターこそ先手を取られたが、そこから細部にこだわった日本のバスケが炸裂。74―70で競り勝った。
主将・高田が語気を強める。
「トムの言う“細かい部分”をしっかりやっていれば勝てると思っていた。初戦白星で勢いに乗れたと思います」
続く30日のアメリカ戦は敗れたものの、8月2日のナイジェリア戦はスコアを100点の大台に乗せて大勝。日本自慢の3ポイントシューターである林が23点、宮澤が19点をそれぞれ奪い、高田も15点をマーク。「取るべき人が取るバスケ」を堂々と実践し、決勝トーナメントまで勝ち上がった。
そして冒頭の準々決勝・ベルギー戦。日本は一進一退の攻防を繰り広げ、最後の最後で難敵をねじ伏せた。
特に3ポイントを7本沈めた宮澤の働きは光っていた。
「アース、戻ったね」
劇的勝利の直後、ホーバスHCに言葉をかけられた彼女は心底、うれしく感じた。
「自分としてはすでに戻っていた感覚でいましたけど、トムさんは基準が高いんで、絶対に認めてくれなかった。印象を変えるにはものすごい努力と結果が必要。『やっと認めてもらえた』と思えて、ホッとしましたね」
重圧のかかる五輪本番でベストを出せたのは、宮澤1人ではない。五輪落選危機から這い上がった町田も、3ポイントが入らず自身の存在価値がわからなくなった林も、最年長ながら容赦ない苦言を浴びせられたキャプテン・高田でさえも、常人の想像をはるかに超える努力を続けた。トム・ホーバスという情熱家に突き動かされなければ、未知なる領域にはたどり着けなかっただろう。
佐藤HCはこう評する。
「日本人指導者だったら『金メダルを取るんだ』と4年間、言い続けられたかどうかわからない。トムのブレない信念が偉業達成の源だったと確信しています」
愛する家族からも献身的なサポートを受けて戦ってきたホーバスHC。ベルギー戦後には妻と子ども2人が抱き合ってジャンプする動画が届き、五輪直後には大好きな緑色の風船やバスケ記事の載った新聞が一面に飾られた東京の自宅でサプライズパーティーも開かれた。
「五輪で6kgも体重が落ちたよ。こんなの初めて」と本人は壮絶な戦いを振り返ったが、人生最高の興奮と感動を味わったのは確かだ。
120%の力を出し切った表彰式後のロッカールーム。全員が笑顔と涙でもみくちゃになりながらハグを交わし、あちこちで記念写真を撮影。最後に1人1人が壁にサインして、「ほら、トムもサインして!」と選手にせがまれた。
栄光を分かち合う瞬間、何を思ったのか──。その問いに、ホーバスHCは静かにつぶやいた。
「旅が終わった──」
壮絶な大舞台で歴史的快挙を成し遂げた選手たちはメディアで引っ張りだこ。いま、女子バスケは大ブレイク中だ。
「コーチはメダルをもらえないんで、手元には何もないんですよ(笑)。でも、女子バスケが注目されて、憧れの存在になるのはホントうれしいことだよね。みんながテレビに映ると、“うちの選手、面白いでしょ?”って誇らしい気持ちになる」
3年後には2024年パリ五輪が控えている。高田らはホーバスHCの志を受け継ぎ、もう先を見据えていた。
「次は金メダルを取りたい」
興奮冷めやらぬ9月21日。次の五輪に向け、ホーバスHCが男子代表の指揮を執ることが電撃発表された。
「東京が終わっていろいろ考えて、この道が面白いと思った。たぶん、みんな知ってると思うけど、私は熱い人。こういうチャレンジがホントに好きです」
22日のオンライン会見にサンディエゴから参加したホーバスHCはやる気に満ちていた。男子代表は東京五輪こそ開催国枠で参戦したが、アジア予選突破は1976年モントリオール大会まで遡る。45年もの間、破れなかった壁を突破するのは至難の業だ。
だが、NBAで活躍中の八村塁(ワシントン・ウィザーズ)ら世界的タレントも育ってきていて、伸びしろは大いにある。やりがいのある大仕事になるのは間違いない。
「4年前、女子のヘッドになって『金メダル』と話したんですよ。でも今回は、簡単に高い目標は言わない。
女子のチームでは、選手たちが僕のことを信じ、尊敬してくれた。私も選手を信じ、尊敬した。そこがいちばん大きかった。それは簡単にできないから。
男子とはまず、そういうリレーションシップをつくります。それぞれの選手の気持ちや信じる力、努力のレベルとか一から勉強したい。女子が五輪でやった日本らしいバスケをすれば、必ずレベルアップできる。ホントに楽しみです」
“リレーションシップ(関係性)”。その土台こそが奇跡の原動力になると証明した名将は、今後も自ら信じる方向へ力強く突き進んでいく。
チャレンジング・トムの新たな旅が始まった。
(取材・文/元川悦子)