パックンことパトリック・ハーラン 撮影/伊藤和幸

 母子2人貧しい生活を強いられ、10歳から8年間、新聞配達をして母親を支えた。その不屈の精神で、見事、名門大学へ!だが卒業後、エリート街道には見向きもせず、言葉が通じない日本の福井県へふらりとやってきた。「人とは違う冒険の旅にめっちゃ燃える!」と笑い飛ばすパックン。多くの人に愛され、道を切り開いてきた逆転人生とは―。

どんな仕事も刺激的で最高

 そのニュースが飛び込んできたのは、8月20日のこと。

《1週間で家族全員がコロナに感染。家庭内療養で完全な隔離はほぼ不可能》

 お笑いコンビ、パックンマックンのパックンことパトリック・ハーランさん(50)が、家庭内で新型コロナウイルスに感染、濃厚接触者はいないと所属事務所が発表した。

 幸いにも軽症で、9月に入るころには仕事に復帰し、情報番組で家庭内感染を防ぐ難しさを語った。

「これは災害と同じです!家族が濃厚接触者や陽性者になった場合、どうやって隔離するか。薬や食料は誰に運んでもらうか。事前に計画を立てておくべきです!」

 複数のメディアで発信する姿は、病み上がりとは思えないほど力強かった。

 感染が判明する半月ほど前、パックンを取材してバイタリティーあふれる話を聞いていた。

 パックンはタフだと再確認した。

◇ ◇ ◇

 時は8月4日にさかのぼる。

 東京・豊洲にある屋内サッカー用のピッチ。

「おはようございます!」

 パックンが元気いっぱいに入ってくる。

 TOKYO2020『パラ応援大使』を務めるパックンマックンによる、「視覚障害者5人制サッカー」、通称ブラインドサッカーの応援動画の撮影が始まろうとしていた。

パラ応援大使を務めたパックンマックン。暑さに負けない熱量で2時間の撮影を終えた

 ルールの説明を終えると、実際にパックンマックンが競技を体験する。

 本番さながらに、アイマスクをつけて、見えない状態で行うようだ。

「ボールの音と味方の声を聴き分けてください」、パラ選手のアドバイスに、「だったらものまね芸人は敵の声をまねると勝てるね!」「勝てるか!」、パックンの軽口に、マックンがツッコミながら、最初はノリノリでボールを追いかける。

 ところが、これが難しい。

「まるでスイカ割りだな」、見えないボールをつま先でツンツンしながら探すものの、かすりもしない。

 その日は35度を超える猛暑のため、すでに汗だくだ。

 途中で水分補給の休憩が入り、スタッフ、出演者ともにピッチを出るが、パックンはひとり残って、ボールを追い続けている。

 暑いのでアイマスクははずしているが、よく見ると目を固くつむったままだ。

 ドリブル、シュート─。

失敗しても夢中で繰り返す。その姿は、仕事のためというより、心からサッカーを楽しむ少年のように見える。

「よく怖がらずに動けるな」、マックンが言えば、「めっちゃ興奮するねー」とパックン。

 コツをつかんだのだろう。撮影が再開されると、シュートを決め、ドヤ顔を見せる。

 2時間に及ぶ撮影が終了すると、「僕は、どんな仕事も楽しいよ!」、汗を拭きながら言い切る。

パラ応援大使を務めたパックンマックン。暑さに負けない熱量で2時間の撮影を終えた

 その秘訣を問うと、「性格が陽気だから」とおどけ、ちょっとまじめな顔で続ける。

「僕は子どものころから貧乏で、新聞配達をスゲー頑張ってました。あの大変さに比べたら、どんな仕事も刺激的で、最高です!」

 さわやかなルックスに、世界トップの名門、ハーバード大学卒業の肩書を持つパックン。

 そんな彼には、意外な素顔があるようだ。

スーパーで涙した母親の姿

 1970年、アメリカ・モンタナ州で生まれた。

「モンタナはカナダとの国境にあってチョー寒い。北海道、いや、北方領土だよ!」

 凍てつく寒さと連動するように、両親の関係が冷え切っていったのは、父親の仕事が特殊だったことも大きい。

「空軍に勤務する父の任務は、核ミサイルの発射スイッチを押すことでした。ベトナム戦争のときです。指令が入れば、自分のひと押しで、膨大な数の人が死ぬことになる。結局、押すことはなかったけど、指令を待つ父は、日々すごいプレッシャーだったと思います」

 極限のストレスを抱える父親は、休みの日は寝てばかり。子育てに追われる母親を気遣う余裕はなかった。

父親、母親、姉との家族写真

「結局、父が空軍アカデミーの教官になるため、一家でコロラドに移ったころ、両親は限界を迎えたんです。僕が8歳のときに離婚しました」

 その後、母親はパックンと2つ上の姉を引き取り、出版社の校閲の仕事や保険の外交員をしながら生計を立てた。

 ところが、4年ほどして、家計は火の車になった。

「お母さんがリストラされて、収入が不安定だったところに、父の養育費が一方的に打ち切られたんです。姉が父と暮らすことになって、『これで子どもは1人ずつじゃん。もう払わない』って。それからは本当に貧しくて、生活保護を受けた時期もあります」

 パックンには、今も忘れられない光景がある。

 母親とスーパーに買い出しに行ったときのことだ。

「生活保護の受給者は、フードスタンプというクーポンで食料が買えます。使うと生活保護だとバレる券です。その日、昔から飼っていた犬のドッグフードをクーポンで買おうとしたら、人間以外の食料には使えないと断られて。お母さん、レジで言い争いになって、最後は泣き出しちゃった。みんなに見られて、悲しくて、情けなかったな」

 テレビも買えず、洋服の替えもない。牛乳は高いので、マズい脱脂粉乳を飲み、鉛筆は学校で落ちているものを拾って使った。

 しかし、貧しさを語るパックンに悲壮感はない。

 それどころか、晴れやかな顔で当時を振り返るほどだ。

「友達の家に遊びに行くと、お母さんが僕の分も夕飯を作ってくれました。それも毎晩だよ。ジェイソンママにダリウスパパ。懐かしいなあ~。スキー合宿やテニスに連れて行ってくれるお父さんもいてね。同じ教会に通う一家は、『留守でも自由に入って冷蔵庫のものを食べていい』って玄関の暗証番号を教えてくれてました。だから、人の家なのに、『おかえり』って僕が迎えることもしょっちゅう。ほんと感謝してます」

 多くの人がパックンをわが子のようにかわいがったのは、持ち前の性格のせいだろう。

「オレ、貧乏のコンプレックスはあったけど、人を嫉んだり、卑屈になることはなかった。子どものころから落ち着きがないと叱られるほど活発で、メーター振り切るくらい陽気でしょ。人から『どうぞ』って言われたら、遠慮なく『ありがとう』って乗ってしまう。この図々しさは、それからも生きるための、オレの武器になりました」

 小学校高学年になると、勉強でもメキメキと頭角を現し、地域の優等生を集めた特別クラスで英才教育を受けた。中学校に入ると、母親の提案で、さらにやる気に火がついた。

「お母さんは仕事が忙しくても、僕のレポートの宿題をよく添削してくれました。出版社の校閲をするほど教養のある人なので完璧です。それで、お母さんが提案したんです。『パトリック、成績がオールAだったら、好きなもの何でも食べさせてあげるよ』って。うわお!ですよ。その契約をしてから、ますます頑張って、中学時代からずっとオールA。お母さん、わかってるね。男の子は胃袋で釣れるって!」

 笑いにすり替えるが、パックンは気づいていたのだ。

 母親が、夜中にひっそりと支払い用の小切手帳を見て泣いていることを。

「お金のことが不安でたまらなかったんですね。僕はハグして、『大丈夫だよ』って言うことしかできなかったけど、心に決めてました。絶対、お母さんに心配をかけない。お母さんを喜ばせるんだって」

3時起きで440軒へ新聞配達

 パックンが自分でお金を稼ぐようになったのは、わずか10歳のときだ。

「オレの原点は新聞配達です!」と断言するほど、高校卒業まで8年間も続けてきた。

「朝は5時起きで、新聞に広告をはさんで輪ゴムでとめ、専用の袋に入れることから始めます。それを、自転車のハンドルにかけて配る」

 最初は身体が小さかったので44軒から始めたが、高校生になると440軒もの数をこなすようになった。

「そのころは、朝はチョー早くて3時起き。中古で車を買ったので、遠くは車で回って、近所は自転車で配ります。コロラドの住宅街は坂道が多いから、上り坂は分厚い新聞の束を積んで、力いっぱいペダルを漕ぐ。太ももなんか競輪選手くらいにパンパンになってました」

 どしゃぶりの雨の日も、凍える雪の日も、土日もなく働いた。真っ暗な中、眠い目をこすり、ベッドから這い出すのが日課だった。

 それでも、辞めようと思ったことは1度もない。

「新聞配達は、お母さんに頼まれたからじゃなく、自分で決めて始めたことです。それに、新聞配達は心の逃げ場だったんです。成績が落ちたり、部活で結果が出せなくても、過酷な新聞配達やってるから仕方ないって思えるじゃん。まあ結局、勉強も部活も頑張りぬいて、スゲー自信になりました。新聞配達でついた根性や責任感が、今の僕を支えているほどです」

 高校時代は月に10万円ほども稼ぎ、食費以外はすべて自分で賄った。

 それは、家計を助けるだけでなく、母親の人生を応援するためでもあった。

「当時、お母さんが学校の先生になるために、大学院で教育学の勉強を始めたんです。お母さんの夢をかなえるためにも経済的な負担はかけたくなかった。おかげさまで、僕が高校の最終学年になったころ、お母さん、小学校の先生として就職しました。そこから生活も安定したんです」

 学び直しで生涯の仕事を手にした母親もすごいが、パックンも負けてはいない。

ハーバード大学に通っていたころ

 過酷な新聞配達を続けながら、高校を首席で卒業。世界屈指の難関、ハーバード大学合格という快挙を成し遂げた。

「実は、最初は補欠でした。繰り上がり合格したのは、“この人生”だったからです」

 アメリカの大学入試は日本と違い、学科試験が占める割合は4分の1程度。ほかは、高校の成績、課外活動などを記した志願書、そして2時間にも及ぶ面接で審査される。

「まあ、嫌みに聞こえるかもしれないけど、オレ、高校時代はそんなに頑張らなくても成績よかったし、放課後は部活に没頭して、板飛び込みやビーチバレーで何度も表彰されました。

 でも、そういう人はごろごろいる。僕の人生、ちょっと変だよね……。新聞配達8年続けて、いろいろハードルを乗り越えてきてさ。それを面接でアピールしたら、『この子、絶対入れろ!』って審査官の1人が猛プッシュしてくれたそうです」

 まさに、貧しさをバネに合格を勝ち取ったわけだ。

 大学に入学後は、比較宗教学を専攻し、寮生活を送りながら青春を謳歌した。

「トラックの運転手やバーテン、いろんなアルバイトをやってね。部活もバレーボールに演劇、合唱団では部長を務めて、友達もたくさんできた。あ、彼女もね!みんなでカナダの国境までドライブしたり、ニューヨークにも行ったな。楽しんだ分、大学の4年間は、勉強は手抜きしてたよ」

 そう聞いて、さてはハーバードでは落ちこぼれ?と思いきや、「卒業のときに勲章もらいました。えーっと」とスマホで調べ、「成績の上位20%に贈られる勲章です」と、さらっと言う。

 これだけ並はずれた頭脳とコミュニケーション能力の持ち主である。卒業後の進路も安定した就職先が約束された。

 ところがパックンが選んだのは、ふらりと日本に行くことだった。

「冒険の旅です!役者にも興味があったし、1度しかない人生、人と違うことをやりたいじゃん」

 幼なじみの親友が、文部科学省の派遣で、日本の中学校で英語を教えていたことも弾みになった。

「親友に『来るか?』って誘われて、『おう!』って二つ返事。お母さんに、1年だけ行ってきますって。それが30年近くも行ってきますになるなんてね」

第2のふるさと福井県の「家族」

 初めての日本で降り立ったのは、親友が暮らす福井県福井市。真っ先に向かったのは、駅前交番だったという。

「まずは仕事を探そうと。英会話の講師だったら食べていけるって親友に教わって、交番で英会話学校の場所を聞いたんです。日本語、まったく話せなかったけど、なんとか3軒教えてもらって、3軒目で採用されました」

 初任給は20万円。「そんなにもらえるんだ!」と感激したものの、暮らし始めると、生活はぎりぎりだった。

「家賃や生活費だけでなく、僕は奨学金で大学に通っていたので、毎月、学資ローンの返済がありました。だから、やっぱり貧乏だったね」

 もとより、節約生活はお手のもの。異国でも、持ち前の明るさと図々しさで食費を浮かせた。

「近所のパン屋さんで、パンの耳を大量にもらったり、福井のお父さん、お母さんみたいな家族もできて、ごはん食べさせてもらった。いつもだよ。ほんと助かったなあ」

 中でもパックンがわが家のように通っていたのが、一時帰国することになった親友から紹介された、電気店を営む一家。娘の橘みかさん(50)が当時を振り返る。

パトは、『来たよー』って、店に顔を出しては、ごはんを食べていきました。はい、家族みたいな顔して(笑)。最初は日本語も『ありがとう』くらいしか話せなかったのに、すごく勉強熱心で、わからない言葉があると、『これ何?』って必ず聞いてノートに書き込んでいくんです。それこそ、居酒屋の“赤提灯”の意味まで。私たち三姉妹は、パトと友達になって英語を覚えようと意気込んでいましたが、ぜんぜんダメでした。パトがあっという間に日本語を話せるようになったからです」

 居酒屋や銭湯でも、「いつも隣のオッサンに話しかけた」とパックン。この人なつっこさで、言葉の壁を突破していったのだろう。

 来日から2年後には、日本語能力検定試験1級に合格。大学の授業を日本語で受けられるレベルと認定された。

 英会話講師を続けながら、ラジオ局でDJをしたり、劇団にも所属。大勢の仲間や友達にも恵まれた。

 みかさんが続ける。

「パトが地元で愛されたのは、人柄だと思います。気さくで明るいだけでなく、気持ちがある人なんです。私の曽祖母が亡くなったときも、お金ないのに、わざわざお香典を持って来てくれて。今も親戚のように親しく付き合っていますが、パトは有名になっても何も変わりません。変わったことがあるとすれば、外食のときに『オレが出すから、誰も払わないで!』って言い張ることかな(笑)。ごはんを食べさせてもらった恩返しのつもりなんですね。日本人以上に義理と人情を感じます」

 第2のふるさとと断言できるほど、福井の水になじんだ。

 アメリカに帰る気持ちも薄れていた。

 ところが来日から2年半後、パックンが決断したのは福井を離れることだった。

「もともと役者を目指していたので、東京で自分の可能性を試そうと思いました。奨学金の返済が終わったことも安心材料でした。だから自分と約束しました。東京では英会話の講師はしないって。それだと食べていけちゃうから。どんなに貧乏でも、芸能の仕事だけで生活するぞってね」

 決意も新たに東京に向かったのは、1996年のこと。パックン、26歳のときだ。

コンビを組んだ直後に大ゲンカ!

 役者志望のパックンが、お笑いをやることになったのは、上京して1年が過ぎたころ。

「モデルやエキストラの仕事はいくらでもあったけど、僕がやりたい役者の仕事─、主役の友達役とか恋人役は、まったくなかった。1年たって気づきました。僕みたいな外国人が日本のドラマでちゃんとした役をとるには、僕自身が有名にならなきゃダメなんだって」

 そんな折、知り合いから紹介されたのが、お笑い志望のマックンだった。

「お笑いやってるのにまじめそうっていうのがマックンの第一印象。でも、その日のうちに飲みに行って、夢を語って意気投合してね。コンビを組もうって話になりました。アメリカではコメディアンしながら役者をする人はたくさんいるので、オレも、日本のユーモアを勉強するいいチャンスだと思ったんです」

 こうして1997年、パックンマックンを結成。ハーバード大学卒のパックンと群馬出身のマックンの異色のコンビでコント漫才を始めた。

 ところが、「すぐに大ゲンカ!」と、マックンこと吉田眞さん(48)が振り返る。

1997年デビュー当時

「最初、僕らのコントはボケとツッコミがある日本式のスタイルだったんです。でも、アメリカのお笑いはボケ、ツッコミの習慣がないから、ボケ役のパックンは、僕がツッコむたびに手でハタくのが気に入らなかったんですね。

 舞台を降りたとたん、すごい剣幕で怒りだして、『オマエが叩いた回数、オレにも叩かせろ』って(笑)。アメリカ人のプライドもあったんだろうなあ。その時は僕も腹が立って、そんなことじゃ、おまえは日本でお笑いできないぞって、もうケンカ別れ」

 結局、すぐに仲直りしたが、これを機に2人は、日米コンビならではのオリジナルの笑いを追求していったという。

 マックンが話す。

「激しいボケとツッコミはやめて、正統派に切り替えようと。かといって、外国人が『日本語わかりませ~ん』ってオチのベタなコントでは、すぐ飽きられちゃう。でね、もともと日本人同士でコントをやるつもりで書きためていたネタを、アレンジしてみたんです。どんなネタかって?」

 そう言うと、ショートコントを披露する。

「パックンがアルバイトの応募者で、僕が面接官。コンコン。ドアをノックして、パックンが緊張ぎみに入ってくる。僕が『きみ、名前は?』って聞くと、パックンがあの顔で、『宮下です』。『出身はどこ?』『亀有です』」

 シュールなコントは、路上ライブで大ウケ。手応えを感じた2人は、ライブハウスの舞台にも立つようになった。

 マックンが続ける。

「慣れないころは、ウケないと僕らの動揺がお客さんに伝わって、会場の空気が冷えたこともあります。だから、何があってもブレずにやろう!ってパックンと気合を入れてね。10人、20人の少ないお客さんでも、その人たちが大爆笑すればオッケー。来てないヤツら損したな!くらいの気持ちで舞台に立ちました」

 異色のコンビは評判になり、結成から2年半で、早くも全国ネットの情報番組でレギュラーを獲得。お笑い芸人の登竜門、『爆笑オンエアバトル』(NHK)でもチャンピオン大会に進出するなど、着実に人気を積み上げていった。

 パックンが話す。

「日本のお笑いは、アメリカと違って下ネタや政治の話もタブー。ヘン顔すると引かれちゃうから真顔でコントが基本です。そういうことを教えてくれたのがマックン。え?いつから日本のお笑いに慣れたかって? 20年前、いや10年前、おとといですっ!」

 真顔でジョークを飛ばすが、結成以来24年、安定した人気を誇るのは、試行錯誤しながら進化を続けているからだろう。

「オレは今も役者志望だけど、芸人やタレント業の楽しさを捨てて、ドラマの撮影一本に絞るとなったら迷うなあ。(マネージャーを見て)えっ!迷わなくていい?役者のオファー、そもそも来てないって!」

年賀状で取り戻した恋心

 あまりに日本語が流暢なので、日本人と話しているような錯覚を起こすが、照れもなく妻を褒めるところは、生粋のアメリカ人だ。

「僕は、奥さんほど好きな人に会ったことないです。すごくかわいい!簡単に僕と話を合わせないのがポイントで、議論できるから刺激的です」

 出会いは、パックンマックンを結成した翌年のこと。

「僕らの路上ライブを、奥さんが見ていた」のがきっかけだというが、妻のハーラン・芽衣さん(42)は、「違うんです」と笑う。

「ライブが終わったところに通りかかって、お客さんの出したゴミを外国人が拾う姿に、偉いなってちょっと立ち止まっただけなんです。パックンマックンのことも、まったく知りませんでした」

 それでも、「ファンかも!」と勘違いしたパックン。当時、モデルをしていた芽衣さんの美しさにひと目ぼれ。猛アタックをかけた。

 ところが─。

「僕は悪い男です!」と、突然ひれ伏すパックン。

 芽衣さんによれば、その後、何度か食事に行ったものの、女の子を見ると、すぐに声をかける軽薄さに呆れ、「携帯を着信拒否した」とのこと。

 身から出た錆で、バッサリ切り捨てられてしまったのだ。

 そんな2人が再会したのは、1年半後。パックンから年賀状が届いたからだという。

 芽衣さんが話す。

「年賀状っていうのが、なんだかほほえましくて。久々に会ったら、すごく落ち着いていて、まあ8歳も年上ですから落ち着いてなきゃ困るんですけど(笑)。マックンや仕事関係の方にも、本気で付き合いたいなら信頼関係をつくらないとダメだと言われたみたいですね。真剣さが伝わってきました」

 それからは急展開で、なんと再会したその日のうちに同棲生活をスタート。4年の交際を経て結婚し、以来17年、2人の子どもにも恵まれた。

「テレビではあまりやらないけど、実は変顔がすごく得意なんですよ!」とカメラに向かって次々と変顔を披露してくれたパックン

 芽衣さんが続ける。

「こういう取材では、夫のダメぶりを話したほうがいいんでしょうけど、ごめんなさい、ほんと理想的な夫なんです。彼は、家族はチームという考えで、家事も積極的にやります。雑ですけど子どものお弁当も作るし、『外で働いて、こんなに家事して~』ってブーブー言いながら掃除もマメにします。子育ても熱心で、スマホやテレビの制限時間なんかも、親子で意見を出し合って決定しています」

 パックンの子育ての流儀は、ディスカッションだという。

「僕は子どもにたくさん質問します。昨日はサッカーのオフサイドのルールが何で必要かを聞いたの。そうすると子どもは考える。ディスカッションしながら正解に導いていくんです。世界の常識に挑戦する子どもに育てたいです」

 とはいえ、子育てはままならないことも多い。長男は14歳、長女は12歳になり、思春期特有の難しさを感じることもあるという。

「息子と言い争いになって、僕がカーッとしたときは、『5分休憩!』って大声で叫んで、頭、冷やします。子どもが親を育てるっていうけど、すごい育てられてます。忍耐力や責任感もつきました」

 そう話すと、しばらく沈黙して、静かに口を開く。

「それに、自分が親になって、初めて親の気持ちがわかりました。お母さんがどれだけ僕を愛しているかってことも。だから、電話で『ごめんね』ってあやまりました」

 母親をアメリカに残したまま、長い歳月が流れていた。

「お母さんは再婚して、今は老後のコミュニティー、リタイアメントホームで暮らしています。僕の活躍をすごく喜んでるけど、ひとり息子が遠くにいて、さみしいのは間違いない。僕は自慢の息子だけど、親不孝な息子です」

 もどかしさを抱えながらも、わが道を進み続ける。

 自由に海外と行き来できるようになったら、家族で里帰りをする予定だ。

次の夢はアフリカでお笑い!

「仕事が終わればすぐ帰るし、次の仕事まで1時間でも空けば、いったん家に戻ります」

 2013年、都心に一戸建てを購入。女性誌で、《パックン、2億円豪邸を新築!》と騒がれたほどだ。

 家が大好きなマイホームパパは、近所の人とも親しく付き合っているという。

 そのひとり、ジャーナリストで上智大学非常勤講師のトニー・ラズロさん(60)は、「彼とはよくチェスを楽しみます」と話す。

「チェスは性格が表れます。彼は奥の奥まで研究してはいないけど、勝てるところまではわかっている」

 ちょっと哲学的だが、実はトニーさん、ベストセラーコミック『ダーリンは外国人』(小栗左多里さん著)のダーリンのモデル。漫画のとおり、トークが味わい深いのだ。

 トニーさんが続ける。

仕事の移動は愛車のバイク。空き時間が少しでもあれば、自宅に帰れる身軽さがお気に入り 撮影/伊藤和幸

「僕は自宅で家庭菜園をしていますが、パトリックもよく覗きにきます。僕らは互いの家族だけでなく、近所の子どもたちにも声をかけて野菜を作ります。そのとき、パトリックが特徴的なのは、『こんなとき、どうしたらいい?』と子どもたちに相談することです。

 大人は正解を知っています。でもあえて言いません。子どもたちは頼られると張り切るし、自分の頭で考えるからです。彼は、子どもたちを伸ばそうとする大人なのです」

 今年2月、『逆境力 貧乏で劣等感の塊だった僕が、あきらめずに前に進めた理由』(SB新書)を出版。貧困の子どもたちの現状や日本のセーフティネットをパックン自身が丁寧に取材している。

 パックンが話す。

「日本は7人に1人の子どもが貧困です。生まれた環境で人生が決まらないためにも、国は子どもたちの生活を支援し、教育にお金を使うべきです。これは投資です!将来的に必ずリターンがある先行投資。僕はメディアでそのことを繰り返し伝えていこうと思っています」

 自身が貧しい家庭で育ったからこそ、思いは人一倍強い。貧乏だからこそ力がつくことも、自身の経験を通して伝えていきたいと考える。

 トニーさんが話す。

「誰もがパトリックの生き方をまねするのは難しいです。彼は生まれつきの才能と、独自の戦略を持っていますから。ただ、彼から教訓を得ることはできます。その1つが『なせば成る』。壁にぶつかっても越えていくバイタリティーです。

 ただし、そこにも戦略がある。日本人はみんなと同じだと安心しますが、僕らアメリカ人は個性を大事にします。だから、やみくもに『なせば成る』と進むのでなく、自分の個性、得意分野を分析して勝てる場所で挑みます。彼が芸能界で必要とされるのは、戦略が成功しているからです」

 ここ数年、お笑いだけでなく、テレビやラジオの情報番組や報道番組、新聞・雑誌のコラム連載など、マルチに活躍の場を広げている。

 そんなパックンに、次なる戦略を聞くと─。

「まあ、今みたいに仕事が刺激的で、毎日が飽きない感じだったら、オレ、幸せです」

 と、満足度の高さを口にしつつ、次の瞬間、少年のように目を輝かせて続ける。

「子どもたちの手が離れたら、BSとかユーチューブで、『パックンのインド生活』みたいなドキュメント番組をやってみたいです。実現するなら、引っ越してもいいです。『アフリカでお笑いに挑戦!』なんて企画もいいな。また一から言葉を覚えてね。一緒に行く奥さんは、めまいがするかもしれませんけど!」

 たぐいまれな才能と行動力は50代に入っても衰え知らず。パックンの冒険の旅は、まだまだ終わらない。

〈取材・文/中山み登り〉

 なかやま・みどり ●ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。大学生の娘を育てるシングルマザー。