「(東京高裁での判決を受け)最高裁まで戦おうと思っています。今回の衆院選には出馬しません」
そう語るのは、埼玉県戸田市議会議員の「スーパークレイジー君」こと西本誠(35)氏。彼は今年7月14日、戸田市議選での当選無効を支持した県選管の決定に対して、採決取り消しを求め東京高裁へ提訴していた。それから約3か月、10月15日に発表された判決結果は西本氏の敗訴となった。
10月19日に公示が行われる衆院選への出馬もほのめかしていたが、『週刊女性PRIME』の取材でその可能性を否定。国会議員になる可能性は、「来年の参議院選に持ち越し」と明かした。
昨年の都知事選出馬時に特攻服姿で世間を賑わせ、今年1月の埼玉県戸田市議選で初当選を果たしたスーパークレイジー君。以来、こども食堂をはじめとした活動に注力してきた。過去、少年院に計5年入っていた過去を持つという異色の経歴が話題となったが、なぜ昨年から政界に参入するようになったのか。これまでの生き様や経歴、戸田市での活動から、彼の素顔や現在の心境に迫った。
自分を育てた祖母の最期を看取れず
中高時代は暴走族だった彼が、政治家を目指すようになった転機は大きく分けて2つあったと振り返る。「少年院での服役中に祖母が亡くなったこと」と「銀座の高級クラブで黒服として働いていた経験」だ。
複雑な家庭環境で生まれたスーパークレイジー君は、1歳から祖母に育てられてきた。心配した祖母が引き取り長年2人で暮らしていたそうだ。
「当時、父親が暴力団だったことで、実家には仲間の暴力団がよく出入りする環境でした。母親との関係も薄く、代わりにおばあちゃんが僕を育ててくれたんです」
両親とは別居していたものの、結果的に暴走族に所属することになる。それは幼少期から触れてきたヤクザ映画やヤンキー漫画の影響が大きかったという。
「(ヤクザ映画やヤンキー漫画に)憧れのようなカッコよさを感じていました。中学生の時から暴走族になり、共同危険行為(バイクの集団走行のこと)を繰り返していました。結局、鑑別所には6回行き、逮捕は計7〜8回、少年院には計5年いました」
そんな非行に走った彼を、生前最後まで気にかけていたのが祖母だった。
「裁判の判決に来るのもおばあちゃんで、服役中はずっと手紙のやり取りもしていました。おばあちゃんから“暴力団はもうやらなくていい”“ちゃんと真面目に生きてほしい”と言われたのが、(暴力団の道に進まなかった要因として)大きかったです」
しかし、服役中に祖母はがんで亡くなってしまう。服役中で外出許可も取れなかったため、「祖母の看病や最期を看取ること、葬儀への出席すらできなかった」と悔やんだという。
「今でも亡くなった実感がないんですよね。祖母ががんになってから、手紙の返事は途絶えてしまいましたが、まだ返事があったときのやりとりで覚えているのは“(あなたは)田舎でずっと収まるようなやつじゃない”と祖母からの手紙が届いて“じゃあ東京に行くよ”と返した覚えがあります」
元々は暴力団に入るつもりだったが、祖母の死で改心。当てもなく21歳の時に上京したそうだ。
少年院で出会った受刑者たち
そこからスーパークレイジー君が政治家を志したのは、銀座の高級クラブで従業員として働いていたことがきっかけだった。23歳から約10年間、黒服を務めていた期間、お客として訪れていた国会議員との交流から出馬への意欲が芽生えたと語る。
「高級クラブでは、僕を指名する議員さんも結構いたんですよ。よく遊びに連れて行っていただきました。でも、そういう人たちが不祥事で消えていくこともよく目にしていて……」
付き合いのあった議員との交流や、その人たちが失脚するのを目の当たりにする中、少年院に入っていた自分でも「真面目にやっていくことができれば、議員になれるのでは」と感じたそうだ。
「経歴のある議員が多数を占めるなか、元暴走族、全身刺青、特攻服で出馬すれば話題になるし、政治に興味を持つ人も増えるんじゃないかと。僕みたいな人でもちゃんと議員を務めれば“自分も政治に参加してみよう、政治家になってみよう”と思う人も少なからずいると思って」
「少年時代の祖母の別れ」と「上京後の政治家との交流」。この2つが重なり、昨年の都知事選での初出馬につながったそうだ。
昨年の都知事選に立候補(「西本誠」名義で出馬)したのち、今年1月の埼玉県戸田市の市議選で初当選を果たした。戸田市での立候補は「暴走族時代の親友や遠い親戚がいて、たまたま選挙が行われるのを知ったのがきっかけ」だったという。
都知事選の出馬のときとはうって変わって、戸田市議選では派手なパフォーマンスを抑えた選挙活動を続けた。
「戸田市議選では都知事選の影響もあり、自分を知ってくれている人も多く、何もない自分を応援してくれる人が少なからずいました。議員になるとどうしても名前が先行するので、“目立つのならば、それに見合う行動をとらないといけない”と思うようになりましたね」
中でも「弱い立場の人を救いたい」と意気込む。戸田市では、こども食堂での取り組みを中心に、恵まれない子どもへ向けた取り組みに注力してきた。
「少年院に計5年もいれば、何千人もの受刑者に会うんですよ。中には“親がいない、捨てられた”という子どももいて。家庭環境が原因で非行に走る子供でも、あらかじめセーフティネットや身元引き受け先を作れば、事前に青少年の非行を防げると感じました」
自身の生い立ちや少年院で感じた経験から、ほかの議員が注力しない分野に力を入れてきた。名刺には、LINEのIDや自宅の住所も記載して、困った人たちとの声かけや交流を強化している。
これまでに「道が汚いから掃除してほしい」「父親がいなくなったから一緒に探してほしい」といった依頼にも対応したのだとか。
「経済対策に取り組む議員が多いですけど、僕はそれじゃないなと。自分はどちらかというと恵まれていない子どもなど、困っている人の味方でありたい。実際に会って話して、顔を覚えてもらって、話しかけてもらうのがいちばんだなと」
地道な地域貢献で、好意的な声も増えていったそうだ。
「あいつでもやれた」と思われたい
「市議会を傍聴しに来る子どもがいたり、市民に“ちゃんと喋ると普通にいい人だ”と言われてうれしかったです。戸田市の子どもたちは僕のことを戸田市長だと思っている子も多くて、あるときは僕のほうを指差して“市長だ!”と言われたこともあります(笑)」
戸田市に住む子どもたちから好かれ、ときには子どもからボランティア活動に誘われることもあるそうだ。
「(子どもが)自宅の前に飲み物置いてくれたり、手紙とか、バレンタインデーのチョコレートを作って持ってきてくれたりも。会いに来てくれる子どもに、こども食堂のスタッフをお願いすると、快く引き受けてくれたり。まだまだ困っている子どもはたくさんいるので、(市議会議員ではなくなっても)もっと活動の幅を広げていきたいとは思っています」
政治家の枠にとらわれず、市民の声を拾い続け、多くの人に現状を知ってもらう使命感が強いようだ。今回の裁判では残念な結果となったが、「政治家として復活するまで、戸田市での貢献は続けていく」と語る。
「最近では“政治家とはどうあるべきなのか”って自問自答したりもするんですけど、今までやってきた活動は苦に感じないですし、可能なかぎり続けていきたいです。市役所の広報よりは発信力があると思っていますし、続けることが大事かなと」
将来の展望を聞くと「来年の参議院選に出馬して、次の戸田市議会選挙までには国会議員になりたい」と明かした。
「損得勘定なしで活動を行いつつ、気づいたら(国会議員に)普通に当選している状態がいちばんいいですね。きれいごとですが、最初は軽いノリでも“あいつでもやれたんだから”と思われるような人になりたいなと」
来年からは、大学に通う予定だという。より多くの人に信頼してもらえるよう、政治学で修士の取得を目指すとのこと。
「11月に高卒認定が取れるので、来年は通信制か夜間どちらかの大学に行こうと思っています。今までは物珍しく見てた人もたくさんいるはずですし、きちんと4年間大学で学ぶことも大事なので」と、今後のビジョンを口にした。
今回の裁判での敗訴を受け、今月中に最高裁に上告する予定のスーパークレイジー君。裁判で戦いながらも、自身の破天荒な経歴や発信力を活かし、地域貢献に注力している。道のりは長いが、彼の奮闘はまだまだ続いていく。
取材・文 佐藤隼秀