千葉県南部で繁殖、急増しているシカ科の特定外来生物、キョン。人間に危害を加えることはない臆病な動物だが、生態系を破壊したり、農作物に被害を及ぼすことから駆除の対象になっている。しかし、その命を奪うだけではなく、有効活用しようという動きも見られる。人と野生動物が共生する未来を探る──。
「ギョーウ、ギョーウ……」
千葉県。房総半島南部のとある地域。日が落ちるとどこからともなく、聞いたことのない不気味な鳴き声が響き渡った。その声に80代の女性は眉をひそめた。
「キョンだよ。森とか空き家にいるのよ。この鳴き声、うるさいし気持ちが悪い」
動物園から逃げ出し繁殖
『キョン』とは中国や台湾にいるシカ科の小型草食獣。全長1メートル、体重は10キロ程度で中型犬程度の大きさだ。現在は東京・伊豆大島と千葉県の房総半島南部にのみ生息している。もともと日本の動物ではなく、海外から連れてこられた外来生物だ。
動物園で飼われていたキョンが逃げ出し、温暖な気候で天敵もいなかったことから繁殖、野生化した。国はアライグマなどと同じように『特定外来生物』に指定、根絶を目指し駆除を進める。
「キョンは農作物に被害を与えたり、希少な植物を食べて日本古来の生態系に被害を及ぼすおそれがあります。すでに住民の生活環境や農作物には被害が出ており、県としては早急に駆除したいと考えています」(千葉県担当者)
千葉県勝浦市、いすみ市など房総半島南部で急増しており、推定5万頭、最大で8万頭ほどいるという。
見た目は小さくて愛くるしい動物なのだが、定着している地域では『厄介者』とされている。
「うちの花壇の花や家庭菜園で作った野菜の葉っぱなんかをみんなかじっていってしまう。すっかり人に慣れてしまって逃げもしません」(60代の男性)
キョンの被害に悩む市町村の担当者も頭を抱える。
ガーデニング被害が深刻
「キョンは市街地の空き家にもすみ着いてしまいます。鳴き声の苦情やフンの害、農業被害や家庭菜園などを中心に食害も出ています。被害額は年間数百万円とイノシシやシカ、アライグマに比べれば小さいのですが、放っておくわけにはいきません」
農業被害額に含まれないガーデニングの被害は深刻だ。
「高齢者にとってはガーデニングや家庭菜園などが生活の張り合いになっているんです。“市民生活に影響を及ぼす動物”と地域の人は困っています」(市町村担当者、以下同)
ほかにもマダニを庭に落としたり、道を横切り走ってきた車とぶつかって交通事故になるケースもあるという。
「殺生は心苦しいのですが、特定外来生物として国が位置づけているので、日本にはいてはいけない野生動物。なので私たちは駆除しています」
だが、その捕獲にはだいぶ苦戦しているという。
キョンの生態に詳しいHunt+の石川雄揮さんが説明する。
捕獲することは難しい
「キョンはおとなしく警戒心が強いので自然の少しの変化も敏感に感じ取ります。罠を仕掛けるのも細心の注意が必要です。腕利きのハンターでも簡単に捕獲することはできません。県や国は“根絶しろ”と訴えていますが厳しい。私たちの猟友会でも増加を止めるための数すら捕れていないのですから」
キョンは現在、市原市などにまで北上、17市町村での分布が確認されている。東京や茨城では迷い込んだとみられる個体も確認されている。
「ストレスで死ぬほどにか弱い動物なので、リスクを冒して東京や埼玉で定着することはないでしょう。攻撃もしてこないんですから」(以下、石川さん)
人間に危害を加えないなら共存する道があるのではないだろうか。
「個体数は管理調整したほうがいいとは思いますが、捕まえて殺して捨てるだけなんて誰もやりたくないですよ。本当に根絶しないといけないのかって思いました。ただ殺すんじゃなくて、動物の価値を高めればいいと思って調べ、活用の道を模索しました」
殺さず活用の道へ
調べると非常に高価な動物であることがわかった。
1つは皮。剣道の防具や小手などに使われている最高級品はキョンの革を使っている。非常に滑らかでニホンジカよりも3倍の強度がある。その使用の歴史は古く、卑弥呼の時代まで遡る。
キョンの革を油でなめしたセーム革は金属や宝石を磨くだけでなく、こするだけで肌がつるつるになることから肌ケアにも最適だ。
シカ革を使った女性に人気の伝統工芸品の『印伝』の展開にも可能性を秘める。
2つ目は食肉。
「キョンの肉は台湾では末端価格で100g3000円くらいの超高級食材。味はあっさりとしていてクセがない。高タンパク低脂質。それにビタミンBが豊富です。日本では駆除対象獣で厄介者ですが、台湾では特定保護動物なんです」
角は精力剤として高級漢方として処方されてきた。
キョンは捕獲され、殺されるときに赤ちゃんのような声で鳴き叫ぶのだという。
鳴き声に動揺する人も
「捕まって殺されるときに、命乞いをして仲間たちに助けを求めるんです。処分現場に立ち会うとき、あまりにも鳴き叫び、命乞いをした目をされるので心がやられます……」
そうした理由からキョンを捕りたくないというハンターも少なくないという。
「その叫びは心の底をえぐってきます。私のところでは狩猟体験でキョンの捕獲や処分に立ち会ってもらいます。キョンは命の循環を自らの命で伝えてくれる存在としてもとても価値がある。私たちの普段の暮らしの中でどんな動物が犠牲になっているか。
キョンは知らない動物かもしれませんが、普段僕たちが食べる肉も一緒。その肉が僕たちの細胞ひとつひとつを構成してくれています。この細胞が彼らの命だったんです。それを全身から感じさせてくれるのがキョンの叫びです」
石川さんは訴える。
「キョンは99%が殺されて捨てられています。古来、日本人はとても世話になってきたのに、厄介者、気持ち悪い動物と蔑まれており、敬意が一切ない。来たくないのに日本に連れてこられて逃げ出して増えただけです。これまで誰もキョンの価値を知らずに殺して捨てるだけを10数年も繰り返してきたんです」
鶏も豚も牛も、普段は何も気にすることなくその肉を食べている日本人には命の尊さを教えてくれる生き物なのだ。
「キョンの狩猟体験を学校の課外授業や体験学習に取り入れてもらいたいと思っています。特に千葉県の子どもたちにはキョンや身近な自然や生き物のことを知ってほしい。僕たちはどんな動物と共存しているかは知らないんです。そういう動物たちが自然を育んでくれているんです」
人間のエゴに振り回されている動物、キョン。私たちに命と向き合う必要を訴えかけているのではないだろうか。
《PROFILE》
石川雄揮さん ◎Hunt+代表。報道カメラマンを経て、猟師として地域おこし協力隊に。現在は戦場などでの経験を背景に千葉県いすみ市でキョンなど野生動物や森の生態系を通じて「命」や「生きる」ことの本質を伝える狩猟・自然体験を提供。純国産キョン革を活用した商品開発や販売なども行う
初出:週刊女性2021年11月2日号/Web版は「fumufumu news」に掲載