前島貴子さん 撮影/渡邉智裕

 摂食障害を経験したことで、一度は臨床心理士を目指したが、人間関係のトラブルで挫折。父の自殺をきっかけに医師を志し、7浪の末に医学部に合格したのは39歳のときだ。医学生と母親業を両立しながら、53歳で医師免許を取得。子育てや年齢を理由にあきらめないたくましい生きざま、そばで支え続けた夫や母親の思いを取材した。

53歳で医師免許を取得

 前島貴子さん(56)が7浪の末、医学部に合格したのは39歳のとき。3歳の長女と生後9か月の長男がいた。

 藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)在学中に次男を出産。勉強と3人の子育てに追われて留年を繰り返し、9年かけて卒業。3度目の挑戦で医師国家試験を突破し、医師免許を取得したときには、53歳になっていた。

 なんと、20年以上の年月を費やし、夢を叶えたわけだ。

「私はちっちゃいときから、もう本当に、落ちこぼれの落ちこぼれでした(笑)。勉強が苦手、試験が苦手で、ずーっと成績はほぼ最下位。スポーツもできなかったし、何か得意なものがあったわけでもない。先生にも『おまえはダメだ』と何度も烙印を押されて、自信も何もなかった。

 そんな落ちこぼれの私が30歳を過ぎて『絶対医者になる』と決めたんです。中学1年生の数学からやり直しましたよ。因数分解もわからなかったので(笑)」

 そう言って、中学時代の成績表まで見せてくれた貴子さん。普通なら隠しておきたいような過去も含めて、率直に話してくれたのは、女性たちにエールを送りたいからだと強調する。

冷静に幼少期の自分を分析する貴子さん。「毎日、忙しく働いている両親、絶えない夫婦ゲンカを見ていて、私自身が注目されないことが寂しかったんだと思います」と語る 撮影/渡邉智裕


「今の日本で、自分の力で十分な収入を得ている女性は一部だと思います。本当はやりたいことがあっても、旦那さんの給料で食べているから、子どもがいるからと、いろいろ我慢している人は多いと思う。

 そんな女性たちに、自分の夢をあきらめないでと伝えたいんです。何か方法はあるからって」

 子どもを3人産み育てるだけでも相当大変だ。しかも、貴子さんの場合、第1子は36歳、末っ子は42歳という超高齢出産。

 夫や母の手助けがあったとはいえ、何度壁にぶつかっても夢をあきらめなかったことに、ただただ驚くばかりだ。

 そのブレない強い思いは、一体、どうやって育まれたのだろうか─。

 貴子さんが“命”と初めて向き合ったのは4歳のころだ。

 お祭りの屋台ですくった金魚を不注意で土の上に落としてしまった。拾い上げることもできず、跳ね回る金魚が泥にまみれ動かなくなるのを見ていることしかできなかったのだという。

「あのときの絶望感は今でもありありと思い出します。それからは捨て犬や捨て猫を見つけると、『救わなきゃいけない!』と思い、全部家に連れて帰っていましたね」

 生まれ育ったのは島根県松江市だ。母親は繁華街で高級クラブを経営し、政治家が頻繁に来店するなど、とても繁盛していた。

 母は経営者としてもやり手で多角化経営を目指して、数年後には薬局も開店。バーテンダーだった父に切り盛りを任せた。

 通りに面した1階がクラブで2階が家族の住まい。2歳上の兄と貴子さんは、生後すぐから子守のおばあさんに育てられた。

「私は5、6歳のころから中学生くらいまで、ずっと髪の毛を抜いていました。学校の先生に円形脱毛症と勘違いされたこともあります。眉毛やまつげも抜いちゃうから美容院に行くとビックリされて(笑)。母は夜もいなかったので寂しかったんでしょうね」

 貴子さんが情緒不安定だった裏には、両親の不和もあった。父が浮気をしたりしてケンカが絶えず、幼い貴子さんが仲裁に入ることもたびたび。父に殴られて母の鼻の骨が折れたこともある。両親ともに別な人と交際を始めるなど、家庭は崩壊寸前だった。

 当時のことを母の藤原睦子さん(83)はこう振り返る。

「私は途中から、あの人(夫)にはついていけないわと思って、開き直っておりましたけど、子どもにはそんなことわかりませんしね。昼も夜も忙しくて、仕事でいっぱいいっぱいだったけん、貴ちゃんが髪を抜いているのも気づいてやれなくてね。本当にかわいそうな思いをさせました」

 貴子さんの居場所は、学校にもなかった。幼なじみが島根大学教育学部附属幼稚園に通っていたので、貴子さんも転入。そのまま附属小学校に進んだが、まったく勉強についていけなかったのだ。

「大学教授の娘とか医者、弁護士の子どもが集まっているから、みんな勉強ができる。うちは母が忙しくて勉強なんか見てくれないし、どんどん置いていかれて……。

 なかには『水商売の家の子とは付き合うなと親が言ってる』と私に聞こえるように話す子もいて、ショックでした。母に『仕事を替えてほしい』と何度もお願いしましたよ」

 決定的に落ちこぼれたのは附属中学3年生のときだ。附属高校はないので全員が受験する。貴子さんは小学生のころから先生たちに「このままでは、みんなと同じ高校には行けない」と何度も忠告されていたが、成績は上がらない。偏差値の低い高校に行くしかなかった。

 失意を抱えたまま進学。高校2年生のときに両親が離婚した。

父の自殺で医学の道へ

 東京に行ってみたかったので、高校卒業後は町田市にある短大の英文科に進んだ。レナウンに就職し、ブランド品の輸入業務を担当した。

 3年後に日本航空に転職。羽田空港でグランドホステスとして働いた。

「俳優の高倉健さんが好きなんですけど、チェックインを3回くらい担当しました(笑)。ずっと母のお店が遊び場だったこともあり、接客は慣れているし楽しかったですね」

 仕事は順調な一方で、なぜか食べることに極端な罪悪感を覚えるようになった。うどん1本すするのもためらい、栄養失調状態でガリガリに。しばらくすると今度はリバウンドで食べ続けてしまう。最後は食べて吐くことを繰り返した。

 ひとり暮らしを続けることに限界を感じて松江に帰ることにした。25歳のときだ。

 AO入試で島根大学教育学部に入学。母が経営する薬局を手伝いながら、心理学を学んだ。

「なぜ私が摂食障害になったのか。自分の心に何が足りなかったのか。一から見直そうと思ったんです。私自身が救われたかったんでしょうね。摂食障害について詳しく学んだことで、母子関係の異常が原因だとわかりました。母の無条件の愛を求めていたんだと思います」

 臨床心理士を目指し、市内の精神科医院で行う「セルフミーティング」に主催者側として関わった。参加者は摂食障害の患者や生きづらさを抱える人などで、ほとんどが女性だ。患者同士で行動を振り返り、気づきを得ていく場だが、司会を務めた貴子さんも自分の心の傷が癒されていくのを感じた。

受験回数を重ねるごとに少しずつ手ごたえを感じるようになった。1次試験は通ったのに、面接で落とされたことも 撮影/渡邉智裕

 あるとき、患者の中にリストカットしたり、家出する人が出るなど、トラブルが続いた。貴子さんは責任者にヘルプを出したが、思いもよらない反応が返ってくる。

「あなたのやり方がいけないのだから、みんなの前で土下座しろと言われて、『エー!?』と。それでトラブルがおさまりますかと聞いても、知らないと言う。その後、臨床心理士の勉強会に私だけ呼ばれなくなったんです。それがきっかけで、もう、この仕事はいいかなと」

 もともと臨床心理士というポジションに疑問があった。医療現場では医師が治療方針を決め、心理士は医師の指示のもとで患者の聞き取りをする。心理士がこうしたほうがいいと思っても、医師の方針には逆らえない。

「資格の壁をすごく強く感じました。自分の思うように治療をして助けるには、医師免許を取るしかないと思ったんですよね」

 それから半年後に起きた出来事が、貴子さんの決意を揺るぎないものにする。

 当時、貴子さんは2店舗目の薬局の経営を任されていた。その薬局の近くに父が経営する中華料理店があり、貴子さんはときどき、手伝っていた。

 ある日、近所の人に父の店が2日も閉まっていると聞き、慌てて駆けつける。

 合鍵でドアを開けると、テーブルの下が血の海だった。厨房で倒れていた父親は素人目にもダメだとわかる状態。警察は自殺だと判断した。

「見つけたときはすごくショックでした。でも、取り調べの間はめちゃくちゃ冷静でしたね。兄は動転して、立ったり座ったりウロウロしていたけど。父の知り合いに『寂しかったみたいだよ』と後から聞きました。離婚した後も、母のことを追い回したりしていたし……。

 ずっとお弁当を作ってくれていたのは父だし、私のことは溺愛していたと思います。私が臨床心理士に挫折して、父に『医者になりたい』と話したら、すごく応援してくれたんですよ。そんな父を救えなかった悔しさもあります」

予備校で出会った年下の夫

 貴子さんは近所の個人塾に入り、中学1年生の計算問題からやり直した。

「中学時代、苦手な数学はほとんど勉強しなかったから、すごく新鮮でした。わかることは楽しいんだって」

 中学の復習を終え、松江市内にある予備校に入った。そこで出会ったのが現在の夫、前島充雅(みつまさ)さん(46)だ。横浜国立大学の数学科を中退して医学部を受け直すという充雅さんに、最初にアプローチしたのは貴子さんだった。

11歳年下の夫・充雅さん。絶対にあきらめない貴子さんに惹かれて結婚。妻が苦境に立つたび、全力で支えてきた 撮影/渡邉智裕

「数学を教えてもらう目的で近づいたんです(笑)」

 貴子さんの経営する薬局に充雅さんは足しげく通った。

「僕が教えに行くと、いつもうな重とか蕎麦とかとってくれて、胃袋をつかまれましたね(笑)。通っているうちに自然と、付き合おうかという話になって。そこで初めて彼女が11歳年上だと知って、キャーッと(笑)」

 出会ったとき、貴子さんは32歳。充雅さんは21歳だった。年齢的に「何となく付き合うことはできない」と貴子さんが言い、結婚を前提に交際を開始した。

 充雅さんの両親には「年の差がありすぎる」と反対されたが、「許してもらえないなら絶縁する」とまで言って、思いを貫いたのだという。

 そこまで貴子さんに惹かれたのはどうしてか。理由を聞くと、充雅さんは少し照れながら教えてくれた。

「とにかく1つのことを決めたら、絶対にあきらめないという姿勢ですかね。いい意味でも、悪い意味でも(笑)。

 学力は達していないのに、『絶対、医者になって人を助けるんだ』とずっと言っていて、『初めて会ったなー、こんな人』と思って。僕は何となく医者になれたらいいなと思っていただけなので、圧倒されましたね」

 学費の安い国公立大の医学部を目指してセンター試験を受けたが、貴子さんは2次試験に進めず、充雅さんは2次で落とされた。

 翌年、充雅さんは志望を変更して、九州大学工学部に合格。福岡に引っ越して'99年7月に結婚式を挙げた。

受験会場のトイレで搾乳

 充雅さんは成績がよかったため授業料は免除になり、奨学金も獲得。塾講師と家庭教師のアルバイトを休みなくこなし生活費を稼いだ。それでもお金が足りないときは充雅さんの父が援助してくれた。

 貴子さんは家事をしながらセンター試験を受け続けたが、6~7割の点数しか取れない。国公立大より難易度の低い私立大の医学部を受けても、合格にはほど遠い。

 2月末に合否の結果が出て、春から仕切り直すのが普通だが、貴子さんは気持ちの切り替えが下手で、毎回、夏休み前まで落ち込んだ。

夫の充雅さんが大学に入学した後、結婚式を挙げた。貴子さんは34歳。充雅さんは23歳だった

 結婚して3年目に待望の妊娠がわかった。だが、重症のつわりで入退院を繰り返した末に流産してしまう。

 翌年、36歳で無事に長女を出産し、最初の子を流産した悲しみも薄れた。

「主人や親のためにも、どうしても子どもは欲しかった。私自身も母親になりたかったです。無条件に愛情を注げる対象がほしかったのだと思います」

 出産後は予備校の近くの保育園に長女を預け、講義の合間に駆けつけて授乳した。受験のときは母の睦子さんが来て、生後間もない孫の面倒を見てくれた。

「受験会場で胸がパンパンに張って、痛くてテストどころじゃない。トイレで搾乳して出てきたら、長蛇の列ができていました(笑)。本当に、たくさんの人に迷惑をかけてしまったけど、仕方ないわーと、開き直るしかなくて」

 充雅さんは九州大学を卒業し、王子製紙に就職。北海道苫小牧市の工場に配属され、一家3人で転居した。

 ある日、貴子さんは長女をベビーカーに乗せて、苫小牧の社宅から札幌の書店に向かった。インターネットで出願できる今と違って、当時は願書を大学から取り寄せるか、書店で購入するしかない。その年の受験は終えたのだが、書店に残っている願書を見ていたら、翌日が提出締め切りの大学があった。

 貴子さんは願書を手に取ると、その足で新千歳空港に急いだ。

「お腹には2番目の子どもがいたけど、着の身着のままで羽田行きの飛行機に飛び乗っちゃった(笑)。

 だって、すごく焦っていたんです。そのころ、医学部を受けて点数は取れているのに年齢ではねられた女性がいると聞いて、もう、1年でも早く受かりたくて」

 実際にその後、東京医科大で女性や多年浪人生に対して減点するなどした不正入試問題が明るみに出た。2020年には裁判で差別があったと認められ、大学側は賠償を命じられた。貴子さんの心配は的はずれではなかったのかもしれない。

 それにしても、これだけ苦労したあげく、何年も落ち続けたら、途中で放り出したくなってもおかしくない。どうしてあきらめなかったのかと聞くと、貴子さんは即答した。

「確かに医学部って、エベレストみたいに高い山なんですけど、一歩ずつ登れば頂上に必ず着くんだって、変な確信があったんです。それに、点数が年々落ちていればあきらめたと思うけど、できないとはいえ、徐々に上がっていたんですよ」

 そこで言葉を切ると、複雑な胸のうちを明かした。

「ただね、もし、未来予想図みたいのがあって、最初からこんなに長い年数がかかると知っていたら、やらなかったと思いますよ」

3児のママ、医学生になる

「今年ダメだったらやめよう」

 そんな覚悟を決めて臨んだ8度目の受験。倍率20倍の試験を突破して、39歳で合格をつかみ取った。

 知らせを受けた夫の脳裏に真っ先に浮かんだのは「どうしよう」という言葉。

「私立だから、貯蓄だと初年度の学費しか払えないよーと(笑)。その日から、銀行、信金、労金回りです。あとは何とか奨学金で頑張ってと」

 2005年4月、藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)に入学。夫を北海道に残し、貴子さんは幼児2人を連れて愛知県にある大学の近くに引っ越した。

 医学生と母親業と。休む間もない生活を助けてくれたのは、母の睦子さんだ。ほぼ住み込みで炊事、洗濯、掃除など家事を手伝ったという。

「貴ちゃんが子どものころ手をかけられんだったけん、罪滅ぼしみたいな気持ちもありました。おわびの言葉は口に出しては言わんかったかもしれんけど、ずーっと一緒におって、手伝ってやりました。松江の家は草がボーボー生えても、放っちょいてね」

 当時、母はすでに70歳近く、無理はさせられない。貴子さんは子どもたちを保育園から連れて帰ると、ご飯を食べさせて、お風呂に入れる。仮眠をとった後、再び大学に行って勉強をした。休日に勉強会などがあると子連れで参加。子どもたちを公園で遊ばせるときは、自作のノートを持ち歩き、暇さえあれば目を通した。

 大学2年のとき、夫の充雅さんも北海道からやってきた。愛知県内にある工場に転勤願を何度も出したが通らず、退職したのだという。

 大手企業を辞めることに不安はなかったのかと聞くと、おだやかな口調で答える。

「迷いは何もなかったですよ。こっちに来て、また一から何かやればいいかなーと」

 にわかに信じられないでいると、こう付け足した。

「職場の人とか、みんなに変だと言われましたよ(笑)。普通なら、受験の段階で離婚しているって(笑)。でも、僕は夫婦なら協力するのは当たり前だと思っていたので」

 充雅さんは医療事務と予備校の講師の仕事を掛け持ちして生活を支えた。その後、自分で会社を立ち上げて、教育コンサルタントとして働いている。

生まれたばかりの次男を抱く母の睦子さん。住み込みで家事を手伝ってくれた

 こうした家族の応援があったにもかかわらず、貴子さんは3年生に上がれず留年してしまう。

 実は、2年生の途中で次男を妊娠。出産前に大腿部に腫瘍が見つかり摘出手術を受けたのだ。

「整形の腫瘍って、助からないことが多くて、『エー、どうしよう』とすごく動揺して、勉強が手につかなかったのもあります。境界悪性でしたが、幸い術後の再発もなく5年たちました」

 次の年もまた留年。再試験まで受けても、どうしても受からない科目があった。

「小・中学校の先生から『おまえはダメだ』とずっと言われていたせいか、試験に対して苦手意識がすごくある。だから試験用紙を前にするとあがるんですよ。特に、一発勝負の大事な試験だと、パニックになって頭が真っ白になる。〇を選べと書いてあるのに×を選ぶとか、ケアレスミスも多くて。1点、2点足りなくて落ちるとか、そんなのばっかりでした」

 試験であがらないようにする方法を伝授する本を片っ端から読んだり、催眠療法を何回も受けたり。克服するために相当な努力をしたが、医学部はとにかく試験が多い。卒業後の医師国家試験を含めて最後まで苦労した。

 留年は1学年で2回までしか認められないので、貴子さんはいったん自主退学。落とした科目を1年間聴講生として受講し、最後の試験をクリアして、復学した。

医学部卒業までの苦悩と焦り

 貴子さんの同級生で、現在は『Bella Beauty CLINIC心斎橋院』で院長を務める石川佳奈さん(38)も、5年生のときに出産して、1年留年している。子どもを育てながら医学部に通う大変さは、想像を絶していたという。「自分で産んでみないとわからなかった」と苦笑する。

「医学部の試験は事前に情報を集めることが必要なんです。私の場合、ゴルフ部仲間が上の学年にも下の学年にもいたので、留年してもテストの情報や資料集めに困ることはありませんでした。

 でも、前島さんは入学時からお子さんがいて部活をやる余裕もなかったと思うし、すごく苦労されたのでは。2回留年して、そのままやめてしまったり、自殺してしまう方もいるくらい大変な世界なので、相当努力されたと思いますよ」

 3年遅れで3年生になった貴子さん。みんなに後れをとった悔しさや焦りはあったが、落ち込んでいる暇はない。浪人時代は何か月も落ち込むことがあったが、大変な状況を何度も乗り越えてきたおかげで、気持ちの切り替えは格段に早くなったと笑う。

 試験前になると先生たちに必死に聞きまくった。

「どこが試験に出ますか?」

貴子さんがまとめたノート。付箋をびっしり貼って、わかりやすく工夫した

 年下の同級生にも自分から積極的に話しかけて、少しずついい関係を構築。順調に進級していった。

 ところが、5年生のとき、ひどいうつ状態になってしまう─。

 きっかけは同級生の輪から孤立したことだ。授業の進め方で不満に思うことがあり、先生に直接抗議をしたのだが、それが裏目に出る。何の効果もなかったばかりか、学校側ににらまれたくない同級生たちに、避けられるようになったのだ。

「みんなが離れていって、あのときはツラかったですね。まずご飯が食べられなくなった。眠れないので、眠剤(睡眠薬)を飲んで寝ていたけど、量を増やしても効かなくなる眠剤地獄に入っちゃって」

 夫の充雅さんは仕事柄、朝は遅いが帰宅は夜の12時近くだ。そのころは深夜に妻の話を聞くのが日課だったそうだ。

「いつもワアーッとグチを言うので、『うん、うん。そうだね。ツラいね』と聞くしかない。そのまま朝の7時までということも(笑)。一度、朝の5時くらいにベランダに出たことがあって。うつの人は急に飛び降りたりするって聞くから、こっちもビクビクしてついていったら、朝日の写真を撮っていました(笑)」

 しばらくすると強迫観念にとらわれるようになった。試験会場に行く途中にゴミを見つけると拾わずにいられない。拾わないと試験に落ちると思い込んだのだ。

 精神科の先生に相談すると暴露療法をすすめられた。苦手なものに少しずつ慣れるという療法だ。ゴミを拾わずに我慢してみたら、意外とすんなりできた。

「私は単純なのか、先生に言われたことがストーンと入ってきた。実はこの療法が効く人はあまりいないと後から聞きましたが、私はそれで治ったんですよ」

 結局、1年留年して、6年生に。最後の卒業試験でも失敗してしまい、翌年、卒業した。

 医師国家試験もすんなりとはいかず、3度目の挑戦で合格した。医師を目指して受験を始めてから21年。貴子さんは53歳になっていた。

50代研修医の奮闘

 医師免許取得後は病院で2年間かけて各診療科を回り研修を受ける。貴子さんが研修医として働いたのは2次救急まで担う市立病院だ。

 最初の患者は心肺停止の男性。他の医師や看護師とともに点滴を入れる血管を探す。

「ダメだ、ダメだ。どの血管も入らない

 緊迫した空気が漂う中、貴子さんが足首の血管を見つけ、刺したらすっと入った。

「たまたま、うまくいったんです(笑)。その後は叱られてばっかり。挿管がうまくできないとか、指示した薬が間違っているとか。オペ中に出ていけと言われたこともあります。そのたびに、ロッカーで泣いていましたね」

 指導医の1人だった男性医師(40)は、「よく働いてくれたと思いますよ」と話す。

「研修医の仕事の1つに夜間の当直があります。当院では月に4~6回。20代、30代なら何とかこなせますが、正直言って、40歳を過ぎるとしんどくなる。50歳を越えた研修医なんて、体力的にもつだろうかと心配しましたが、彼女は最後まで音を上げずにきちんとこなしたので、年齢以上に若いですね。まあ、それだけのパワーがないと、ここまでこられませんからね」

 貴子さんが頑張れた裏には、家族全員の協力もあった。すでに母の睦子さんは島根に戻っていたので、子どもたちが食事、風呂、ゴミ出しなど当番を決めて、手伝ってくれるようになったのだという。

「ご飯といっても、焼きそばを作ったり、鍋をしたりとか、簡単なものですけどね。長女がまとめ役、長男は自分に厳しい、次男は穏やかで家族を笑わせてくれる。三者三様に育ってくれました」

 2年間の研修が終わると専門を決める。貴子さんが選んだのは産婦人科だ。内診があるので女性医師を希望する患者は多い。産婦人科なら自分の妊娠・出産の経験も生かせるし、何より女性の役に立ちたいと思ったそうだ。

 だが、医師になろうと決めた当初、思い描いたのは精神科医だったはずだ。どうして精神科を選ばなかったのかと聞くと、実態を知れば知るほど、自分には合わないと感じたのだと話す。

「診察は1人数分で、ほとんどが薬を処方するだけです。私も一時、眠剤地獄にハマって大変でしたが、精神科で出す薬は副作用が強いものも多く、根本的な解決になるものはあまりないような気がします。薬を出したくないと思っても、私もそこで働くようになれば、同じような治療をするしかないので」

産婦人科医の厳しい現実

 研修を終えた貴子さんが就職したのは3次救急まで行う市立の基幹病院だ。採用時に年齢ではじかれることはなかったが、働き始めるとすぐ、厳しい現実に直面することになる。

 緊急性のある職場で深夜でも対応を求められる。もちろん、日中の業務も普通にこなしながらだ。

「新人の私には手に負えない患者さんも運ばれてきます。特にお産は母体と赤ちゃんと2人とも救って当たり前だから、大変なんですよ。独り身で体力のある人なら、それこそずっと病院に詰めて、どんどん技術を身につけて、何年か後には一人前になっているんだと思います。

 でも、私には家庭もあるし、体力的にも限界があってもたない。半年間頑張ったけど、もう無理だなと思って辞めました」

前島貴子さん 撮影/渡邉智裕

 医学部を受けていたときは、努力すればいつかは合格できると信じていたから続けられた。だが、産婦人科での勤務は努力だけではどうしようもないほど過酷だった。無理なものは無理だと割り切ってからは、決断が早かった。

 すぐに就職活動を開始。次の職場に選んだのは、まるで畑違いの自毛植毛の分野だ。自毛を採取し、薄毛の気になる部分の頭皮に移植する。増毛や育毛とは違い、医療行為に当たるため、専門の医療機関で手術を受ける必要がある。

 美容師の兄から、薄毛に悩む人は多いのに日本ではあまり普及していないという話を聞いて、興味を持った。自身も幼少期から抜毛症で髪の毛がないことに悩んできたため、患者の気持ちに寄り添える気がした。

 自毛植毛は全額自己負担の美容医療だ。夫の充雅さんは妻の選択を聞いて、胃が痛くなったそうだ。

「あれだけ『人を助けたい』と言ってたのに、なんだ結局、美容か、って周りから言われないかなと」

 そんな夫の心配をよそに、妻は吹っ切れた様子で、明るい笑顔を浮かべる。

「誰かを何らかの形で救えるのなら、診療科にこだわりはないです」

 立ち止まってはいられない事情もある。

「まずは学生時代に借りたお金を返さないと。市立病院の給料はよかったけど、返済には足りなくて……」

 返済のめどがついたら、医師の仕事と並行して、困っている女性を支援するような活動をやりたいと考えている。かつての自分のように、心身を病んでしまった人がたくさんいる現実を、見て見ぬふりはできない。医師になった自分だから、できることがあるはずだ。

「具体的にどうしたらいいのか、まだはっきりとは見えてきませんが」

 人生100年時代、まだまだ時間は十分にある。

〈取材・文/萩原絹代〉

 はぎわら・きぬよ ●大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。