冨士眞奈美の旧知の仲である加賀まりこ

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、自閉症の息子との絆を描く映画『梅切らぬバカ』で主演を務める加賀まりこさんについて言葉を紡ぐ。

 先日、突然、加賀まりこから電話があった。ありがたいことにこの連載を読んだという。そのためにわざわざ連絡をくれるなんていい人ね、と言うと、私はもともといい人よ、って。コラムの中で、自分が主演を務める映画『梅切らぬバカ』について触れてくれと。よほど台本に感動したようで、内容について熱弁をふるう。

 この作品で監督・脚本を担当する和島香太郎さんって、北の富士の甥っ子さん。私も好角家のひとりとして応援したいから、11月12日から公開する『梅切らぬバカ』を見に行かなければ。 

浅利慶太は劇団内に「恋人」が

 なんでも、まりこは54年ぶりに主演を務めるらしい。自閉症の息子(塚地武雅)との親子の絆を描く作品なんだけど、実際にまりこの義理(事実婚相手)の息子さんが自閉症ということもあり、彼女はとても熱を入れて撮影したと話していた。

 思い返せば、まりことの付き合いは長い。お互いに若い時分、日生劇場ができたばかりのころに、劇団四季ジロドゥの『永遠の処女』では共演した。主宰である浅利慶太さんの3人目の妻である影万里江さんと私、そして加賀まりこが三人姉妹という設定。

 影さんははかなげだけれど芯が強い人だった。すでに浅利さんとの関係は壊れかけていて、スリッパを投げつけられるなど怒鳴られながらの指導だった。トイレで泣いていた影さんに、見かねた私とまりこは「私たちも降りるから、あなたも降りなさい」なんてたきつけたこともあった。

 でも、影さんは決して屈しない人だったから首を横に振った。細い首とかわいい顔に強い意志がみなぎっていたことを覚えている。すでに浅利さんは、劇団の中に若い恋人がいて、私たちは影さんが気の毒でならなかった。

葬儀での忘れられない言葉

 浅利さんは、石原慎太郎さんと仲がよかったことでも知られる。1958年に若手芸術家らでつくった「若い日本の会」で浅利さんと意気投合し、その後、行動を共にして日比谷に完成する日生劇場の建設や運営に尽力した。強いリーダーシップを持っていた。

 慎太郎さんが、いつも演出する浅利さんのそばに座っていた。浅利さんがダメ出しをするたびに、熱心にメモをとる──といっても、意中の人が劇団四季の女優の中にいたからなんだけどね。

 とてもきっぷのいい女性。楽屋で水割りを飲んで、彼女の舞台がはねるのを待っている姿を見かけたこともあった。そんな若くてカッコよくて純情だった慎太郎さんの姿がよみがえる。

 その後結局、浅利さんと影さんは離婚してしまった。以前も、まりこと電話で話していると、影さんの話題になった。

「よかったよね。晩年は彼女を崇拝する若い男の人がそばにいて、看取ってくれたんだから」などと話をしながら影さんを偲んだ。 

 いまでも思い出す。私とまりこが、影さんの葬儀に参列したときのことを。劇団四季の関係者をはじめ、大勢の人がいる中で、突然まりこが大きな声で「浅利さんが殺したようなものよ!」と泣きながら叫んだ瞬間を。勇気がある。

冨士眞奈美

 まりこの家にもよく遊びに行ったなぁ。彼女は、若いころからファッションセンスがとてもよくて、自宅にたびたび仕立て屋さんを招いては服を作っていた。私は、『太陽がいっぱい』のマリー・ラフォレが着ていたようなセーラー服を作ってみたかった。

 鮮やかなブルーに、白いラインが入ったセーラー服、そして白いパンツを合わせるファッション。まりこの家にお邪魔して、彼女が服を仕立てる際に、私のリクエストも聞いてもらった。

 そのセーラー服は、今も家に置いてある。パンツはとっくにはけなくなったが、きれいなブルーは、今なお色あせていない。昔を思い出してときどき着てみるの。

 現実を重ね合わせての自閉症児のお話で、さぞかし熱演しているでしょう。きっと拝見するわね。

(構成/我妻弘崇)

冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。