小説にエッセイ、ルポ、写真集の撮影に映画製作……、多彩なジャンルで活躍してきた椎名誠さん。文筆生活40年を超え、著作の数はもうじき300冊。いつも傍らにあるのは、旅とビールと仲間たち。アルゼンチンの山で置いてけぼりをくらうなど、「九死に一生」の体験をしたのも1度や2度ではない。好奇心に突き動かされるまま、「流れるようにここまでやってきた」人気作家の軌跡をたどる!
「シーナワールド」でファンを虜に
東京・新宿三丁目。緊急事態宣言が明け、徐々に活気が戻り始めたこの街に、30年以上の歴史を持つ老舗居酒屋「池林房」がある。そこへ作家・椎名誠さんが現れた。
心なしか足取りがおぼつかないように見える。屈強な肉体の持ち主だったはずだが、だいぶやつれた印象である。
開口一番、椎名さんがボソリと言った。
「食欲が落ちましたね。体重も7キロぐらい減ってしまいましたよ」
実は、椎名さんは今年6月下旬、新型コロナウイルスに感染してしまったのだ。自宅で気を失っているところを家族に発見され、救急車で搬送された。高熱が続き、10日間の入院を余儀なくされた。
「退院してもう4か月がたちます。入院中は、ただベッドに寝て個室でうめいていましたね。コロナだから面会もできないしね」
今困っているのは、その後遺症だという。
「いつもの体調には戻っていない。後遺症があくどく、しつこいんですよ。人によってさまざまらしいんですが、僕はね、甲高い金属音、お皿とお皿がぶつかる音とか、そういう音がダメになった。普段ならそんなことに頓着する体質じゃなかったんだけど、人が変わったみたいに気になったりしてますね」
入院と同時に多くの連載はストップ。最近になり、ようやく執筆活動を再開した。
椎名さんの著作は、エッセイ、小説、写真集から対談・座談集、絵本にいたるまで多岐にわたる。本人は「粗製乱造の極致をいっている」などと自嘲ぎみに話すが、創作活動を始めた1980年代から現在に至るまで年間6~10冊も本を出し続けてきた、名実共に超のつく人気作家だ。
「いろいろたくさん書いてきましたね。僕は数えてなかったけど、今年出た本で290冊を超えたそうなんです。あと4、5冊で300冊になるのかな。書きに書いてきたなあという思いですね」
汲めども尽きぬ創作意欲は、どこから湧いてくるのだろうか?
「原動力?何だろうね。周辺にいる編集者とか、時の流れとか、そういうものに常に煽られて、気づいたらまた1冊書いちゃったみたいな。書くスピードが速いというのもあったし、書くのが好きだったというのもありましたね」
椎名さんのフィールドは文学だけにとどまらない。写真も撮れば、映画も作る。冒険に明け暮れた日々もある。アウトドアという言葉が広く知られるようになる前、椎名さんと仲間たちとのキャンプに憧れ、辺境での冒険の様子に目を輝かせた読者も多いことだろう。仲間といっても文壇でも業界でもなく、ただの釣り好き、酒好き、野外好きの“おっさん”たちである。
あるいは、海辺でうまそうにビールを飲み干す、椎名さんのCMを覚えている人もいるかもしれない。
好奇心に突き動かされるまま、世界中を旅しながら紡ぎ出された物語は、いつしか「シーナワールド」と呼ばれるようになり、多くのファンを虜にしてきた。
「もともと深く考える体質じゃないんで。流れるようにして、この50年やってきたというのが正直なところ。気がついたら物書きになっていて、その延長線上に今がある」
旅とビールと仲間が似合う作家・椎名誠。インタビューを受けるときにはビールを欠かさない。そして、こちらにも決まってすすめてくる。
病み上がりのこの日も、ビールをグビリグビリと飲みながら話してくれた。そして、段々といつもの調子を取り戻していったのだ。
鮮烈デビューを飾るまで
椎名さんは1944年、東京都世田谷区三軒茶屋上馬に生まれた。公認会計士の父・文之助と、母・千代の三男だった。
6歳で千葉県・酒々井を経て幕張に転居。そこで過ごした少年時代を新刊の『幕張少年マサイ族』で描いている。
作中にこんな描写がある。
《あのころのぼくたちも浜番(浜を見張る老人たち)みたいにみんな竹の棒を持っていた。[略]後年、作家の取材仕事でアフリカに行ったとき、ケニアやタンザニアなどでマサイ族をよく見た。彼らは背が高くて鋭い目をしてみんな長い槍を持っていた。それはすぐに少年の頃に常に恐怖のマトでもあった海の浜番の記憶につながっていった。》
「これは東京新聞の千葉版に3年近く連載したものをまとめた一冊で、続編の連載が始まっています。中学のころを書いているんだけど、いちばん思い出したくない、荒くれた時代。誰でも中学時代というのは定まらない、苛立たしい時代じゃないですか。それを今、書いているんです」
地元の幕張中学校を経て、千葉市立千葉高校に入学。そこで同じクラスになったのが後年、コンビを組むことになるイラストレーターで絵本作家の沢野ひとしさんだった。
18歳のころから8ミリカメラを手にし、友達を集めてニュース映画を作るようになった椎名さんは、'64年、東京写真大学に入学。沢野さんの紹介で、友人で弁護士の木村晋介さん(76)と初めて会ったのも、このころだ。
木村さんが振り返る。
「沢野が僕に会わせたいやつがいると言って、連れてきたのが椎名でした。彼の第一印象は、天然パーマ、色黒で野性的。僕らみたいな色白もち肌の東京モンからすると異質な存在でしたね。でも魅力的なやつで、人集めがうまい。50人くらい集めていろんなイベントを考え出して遊んでいました。幕張の埋め立て地で地域対抗野球大会をやったり、文化祭みたいなこともやってたね」
1年で写真大学を中退、椎名さんは江戸川区小岩のアパートで、沢野さん、木村さんらと共同生活をするように。
木村さんが続ける。
「陽がまったく当たらない暗いアパートでしたね。6畳一間に4人で雑魚寝してました。僕は本来、司法試験の勉強をしなきゃならなかったんだけど、椎名たちと一緒にいるのが楽しくて、つい同居しちゃった(笑)」
そして、椎名さんはのちに妻となる渡辺一枝さんと出会う。仲を取り持ったのは、木村さんだった。
「彼女は僕と高校の同学年で、隣のクラスでした。3年のとき、僕が生徒会長で彼女は副会長だったんです」(木村さん)
'66年、椎名さんは流通業界専門誌で働き始める。2年後の'68年、一枝さんと結婚。
椎名さんが少し照れたように言う。
「彼女は、中学では山岳同好会、高校では山岳部でした。あだ名は、ヤマンバやチベット。その当時からチベットに憧れていたんですね。山の話や冒険、探検などの話が合ったんで、なんとなく……」
会社勤めの傍ら、沢野さんらと野外天幕生活団「東日本何でもケトばす会=略称・東ケト会」の第1回合宿を行う。これが、椎名さんの代表作のひとつ、「怪しい探検隊」シリーズの発端だった。
'69年には、百貨店業界の専門誌『ストアーズレポート』を創刊し、編集長に就任。その年に入社してきたのが、椎名さんの“盟友”となる目黒考二さん(75)だった。
目黒さんが打ち明ける。
「初めて彼と会ったのは、銀座の喫茶店。三つ揃いを着た大男でとても堅気には思えなかった(笑)。僕は数か月で会社を辞めちゃうんだけど、椎名とは読書の趣味が合ったんですね。2人ともSF好きで。SFの話がしたくてよく会ってしゃべってましたよ」
目黒さんは、『ストアーズレポート』に書いた椎名さんの文章に衝撃を受けたという。
「破茶滅茶なショートショートで、題名は今では出せない『キ○ガイ流通革命』。抜群におもしろくて、“この人は作家だな”と思いましたよ」
'76年、『本の雑誌』を創刊。書評を中心に、活字にまつわるさまざまな話題を扱い、注目を集めた。そして'79年、そこに連載していたエッセイをまとめた『さらば国分寺書店のオババ』を上梓、鮮烈なデビューを飾る。
椎名さんによれば、
「出版社は思いきって新聞に全面広告を出して、それで売れて増刷が続いた。あの本は物書きとしてのデビュー作であるだけでなく、初めてのベストセラーになったんです」
このデビュー作をきっかけに、さまざまな雑誌から原稿依頼が殺到するようになった。'80年、15年勤めたストアーズ社を退職しフリーになると、本格的な作家活動を開始する。「ずんがずんが」「ガシガシ」……。軽妙な口語調の文体は「昭和軽薄体」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。
「体力作家」が打ち込んだ映画製作
作家活動のスタートは、同時に取材旅行の始まりでもあった。
'84年、水中写真家の中村征夫さんと、オーストラリアのグレートバリアリーフで1か月間、生活を共にした。
「彼とは出会ったときから意気投合しましたね。乗船した船は、フランスのダイビングボートでね。乗員は30人くらいで、僕ら以外はみな、フランス人。出てくるメシがフランス料理なんですよ。
俺たち肉体労働だから腹が減って、“こんなもの食ってられねえ”って。それで2人で船室を漁ったら、米が見つかった。キッコーマンの醤油を誰かが持っていて、もっと探したら生卵が見つかった。2人で米を炊いて、卵かけご飯を食べましたよ。“やっぱ、米だよな”なんて言いながら握手したのを覚えてます(笑)」
テレビのドキュメンタリーとして放送されたこの出会いは、'91年公開の映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』につながっていく。
椎名さんの映画作りは、年季が入っている。'75年以降、16ミリの記録映画を数多く作ってきた。'90年の『ガクの冒険』でメジャーデビュー。さらに『うみ・そら〜』には、余貴美子さんら本職の俳優陣が出演。それでも、撮影監督は中村征夫さんが務めた。
「中村征夫の写真集を原案にした映画だったし、彼は陸上(撮影)はやってなかったんだけど、“陸も海も一緒だよ”と僕が言って、無理やりやってもらったんです」
石垣島での撮影は1か月半。作品は、北海道から沖縄まで全国で巡回上映し、口コミで評判が伝わり15万人以上の観客を動員した。
「最初は学生映画みたいなものだったけど、勢いというのはすごいもので、『ガクの冒険』が大手配給系の劇場でガーンとかかったんですよ。そのツテがあるから、『うみ・そら〜』では、最初から1週間やったら結構客が入って、3週間のロングラン上映になった。池袋と渋谷、それから大阪にものびていってね。
それでガンガン勢いづいて、『ホネフィルム』という会社まで作っちゃった。僕はあのころ、社長だったんですよ。とてもそんな柄じゃないから秘密にしてたんだけどね」
とはいえ映画だけに専念していたわけではない。雑誌連載、さらには新聞連載まで抱えていたのだ。
「朝日新聞で『銀座のカラス』を連載してました。石垣島のロケ現場にゲラ(校正刷り)が届くんですよ。40度近い暑さの中で毎日毎日、原稿を書いて、3日くらいするとゲラが来る。1度も穴をあけずにやりました。あのころの俺ってまじめだったんだなって。でも、結構楽しんでいましたね。若さもあったし、僕は“体力作家”と言われてましたからね」
撮影現場には、100人ものプロの映画スタッフがいた。彼らの目には、「モノカキ」は、あまりいい印象には映っていなかったようだ。
「演出部なんかは特に、僕が原稿書いたり、ゲラ読んだりしてるのが嫌いでね。自分たちの映画に全部打ち込んでほしいわけ。映画の現場は体育会系が多いですから、結構荒っぽいやつらもいる。結構こっちも場数を踏んでいるんで、おかしな自信があって、“いつでもやってやるぞ!”というような感じでした、常に。だから、当時はむき出しの狂犬みたいで怖かったという人もいますね(笑)」
その後、椎名さんは'93年にモンゴルとの合作映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞を受賞、さらにフランス・ボーヴェ映画祭でグランプリを獲得する。ところが'96年の『遠灘鮫腹海岸』を最後に、映画製作の世界に別れを告げた。
「ちょっとアクシデントがあって、嫌気がさしてやめようとなった。やっぱり映画界というのはね、外側から入ってきて、僕みたいに暴れ回るとね、そういうのを嫌う気配があるんですよ。それは今になるとわかるんですけど“何だ、このトーシロは”みたいなね。古い業界だから。映画ってみんなハングリーだから、僕みたいなのは羽振りがよく見えたんでしょうね」
面と向かって誰かが言ったわけではないが、椎名さんはそうした「気配」を感じ取ったという。
もちろん、「新しい作品を」という声もあった。
「ポーランドで撮らないか、ハワイでこんな企画でどうか、という誘いはいくつかあったんだけど、結局、話が大きすぎて手に負えなかったり、ほかの仕事ができなくなるので断りました」
キャンプ人気の先駆け「怪しい探検隊」
一方で、テレビのドキュメンタリー番組からはオファーが相次ぐ。
「TBSの開局30周年番組かな、これがシベリアでロケをするという全5時間のドキュメンタリー。こんなことができるんだ、とまだ勢いがありましたからね。やりましょうという話をしたんですよ」
遭難の末、ロシアへたどり着いた江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の足跡を追って、シベリアを旅する内容だ。
「マイナス40度のところを馬で走ったりしましたね。僕が乗ったのは黒い馬だったんだけど、30分走ったら、馬の汗が凍って白馬になってしまってね。まるで氷の鎧を着ているみたいに神々しいんですよ。凍傷になりかけながら旅をしましたね」
また「怪しい探検隊」シリーズは椎名文学の中でも人気の作品だが、テレビのドキュメンタリー番組としても新たなファンを集めた。
「テレビ局がシリーズでやってくれないかということで、10数本作りましたね。で、俺たちみたいなズッコケの、探検隊とはいっても、怪しいですからね。テレビで持ちますかね?と言ったら、テレビ局の人に“大丈夫ですよ。あれは朝の6時にやりますから、誰も見てませんよ”と励まされてね(笑)」
'80年に始まった「怪しい探検隊」の活動は、アウトドアのプロたちを集めた「いやはや隊」、そしてここ10年ほどは「雑魚釣り隊」と名前を変えて存続している。
「雑魚釣り隊というのは、本当に釣りが好きで酒が好きで、あとはまったく有名でもなんでもないという30人くらいのグループ。大体15人ほどが、月1回のキャンプに来るんですよ。20代から60代までいて、結構統制がとれていましたね。釣りは必ずするんだけど、カツオだサバだというのは当たり前で、最近ではマグロを釣ってましたね。1メートル半くらいの。それも海外まで行って合宿してね。大盤振る舞いの宴を続けていますよ」
「雑魚釣り隊」については、『週刊ポスト』で10年にわたって連載している。
「体育会の合宿みたいですよ。僕はいちばん年上で隊長ですから、みんな下にも置かないというふうに敬ってくれて、いい椅子なんか与えてくれてね。マグロを釣ればいちばん最初にいいところをもらったりして、バカ殿様みたいで、あの組織は大好きですね(笑)」
「雑魚釣り隊」の参加者の1人、スポーツライターの竹田聡一郎さん(42)は'05年から知人の紹介で隊に加わり、以来、欠かさず参加している。
「最初は、千葉・富浦でのキャンプでしたね。隊の中に暗黙の“隊長トリセツ”みたいなものがあって、隊長は虫除けスプレーが嫌いだとか、お酌されるのは嫌だとか。僕は自由にバンバンビールを飲んでいたんですが、椎名さんに“おまえ、ビールすげえ飲むなあ。いいやつだな。次もまた来いよ”って言ってもらえたんですね。椎名さんは、たくさん酒を飲むやつが好きなんですよ。令和に残ったバンカラみたいなところがある(笑)。シンプルでやさしい親分ですね」(竹田さん)
この「雑魚釣り隊」にしても「怪しい探検隊」にしても集まるのは男どもばかり。なぜ、女性は参加できないのか。椎名さんに聞くと、「昔からそうなんだ」とひと言。
「1度、女性が来たことがあったんだけど、男どもがカッコつけて、ギクシャクしちゃってダメダメで(笑)。丁重にお引き取りいただいた」
「雑魚釣り隊」で前副隊長を務めた西澤亨さん(54)は、広告代理店に勤務していたころに椎名さんと付き合うようになり、その後、雑誌『自遊人』の副編集長として椎名さんを担当、現在は沖縄に移住している。椎名さんとは25年来の仲だ。
「毎年、年末の数日、椎名さんとみんなで一緒に過ごしていたんです。ある年に僕が、その集まりに仕事で参加できなくなったと連絡したら、椎名さんから折り返し電話がかかってきました」
そのとき、西澤さんは吹雪の中にいたが、椎名さんから怒られたという。
「椎名さんに“遊びの約束を守れないやつとは遊べない。おまえが来ないなら俺も行かない”って怒られました。吹雪の中、直立不動で。でも、おっしゃるとおりなんです。普通は“仕事ならしょうがないね”と言うところだけど、椎名さんは違う。そこは曲げないんです。超越している。結局、仕事をキャンセルして参加しました」(西澤さん)
死んでもおかしくなかった辺境の旅
再び新宿・池林房。ビールのお代わりを頼むと、椎名さんは旅の話を始めた。
「チリにホーン岬という岬があってそこを回航するのが命がけなんですよ」
南アメリカの最南端である。南極との間の海峡はドレーク海峡と呼ばれ。世界で最も荒れる海峡といわれる。
「そこをね、チリ海軍のいちばんちっちゃな駆逐艦に乗って行ったことがある。死んでもおかしくなかったね。低気圧がやってきて、軍艦といっても鉄の塊ですから、案外もろいんですよ。
僕は船室に入っていた。すると音がいろいろ聞こえてくる。その戦艦のスクリューが空中に上がって、ガーッと空回りする音が聞こえてましたよ。つまり波の上に乗っちゃったわけ。ドレーク海峡は“吠える海峡”といわれ、そこで何艘沈没して何人死んでいるかわからないという、危険な海なんです」
アルゼンチンのパタゴニア地方、世界自然遺産にも登録されているロス・グラシアレス国立公園でも、椎名さんはとんでもない体験をした。
「アルゼンチンはものすごく風の強い国なんですね。そこをローカル飛行機、双発機でね、10人乗りくらいの。それであちこち乗り継ぎで旅したことがある。地方の、建物なんかまったくないような、それでも空港というんですけどね。飛行機が降りてくると係員がダーッと走ってきて、みんな鎖を持っていて、その鎖で車輪から翼から何から飛行機を留めるんですよ。風が強いから、そうしないと飛行機がひっくり返っちゃう」
そこにはフィッツロイ山という標高3405メートルの、嵐でいつも荒れている山がある。
「フィッツロイ山へ飛行機で行こうとしたら、すごい勢いで飛び上がるんだけど、窓から見ると、いつまでたっても空港や滑走路が小さくならないんですよ。空中で止まっているんでしょうね。強風で」
その旅からの帰りの飛行機で、椎名さんは尿意を催した。
「けれども10人乗りの飛行機にトイレはついてない。で、あちらでは、平らな草っ原があると、飛行機を着陸させちゃうんですよ。降りて、みんながあちこちで小便したり大便したりするんですね」
用をすませた椎名さんが周りの草原を見渡すと、珍しい花がたくさん咲いている。椎名さんは、接写レンズでそんな花々を撮影し始めた。
「飛行機からだいぶ離れちゃったんですね。そしたら、飛行機のプロペラの回る音がする。あれ?と思って見たら、飛行機がそろそろと動きだしているんですよ。パタゴニアの連中はのんきだから、数も数えないで、みんな乗ってると思ってるわけ。
僕は走って行って、飛行機のプロペラの前に立って、“おーい!”と叫んだんだけど、聞こえもしないし、見えもしないんですよ。あんまり近づくと危ないんで、どうしようかなと思っているうちに飛行機は飛んでいっちゃったんですね。置いてけぼりですよ」
困ったなあと思ったが、日が暮れるまでには時間があった。とにかく道を探そうと歩きだし、どうにか見つけて、さらに歩いていくと湖があった。そのそばから煙が立ち上っているのが見えた。
「それは誰かがいるということ。行ってみたら、森林審査官の家庭だった。そこで事情を話したんですよ。といっても、スペイン語しか通じないから、うろ覚えのスペイン語と英語を交えながらね。そしたら少しわかったようで“あ、こいつ、置いてけぼりになったんだ”と。パタゴニアでは珍しくないみたいなんですね(笑)」
そして町までの道を聞いたのだが、馬でも1時間かかる距離。親切にも馬を貸してくれ、ようやく町にたどり着き連絡が取れたのだった。
旅の話は、ビールを片手にまだまだ続く。
南米のパンタナルという世界一の大湿原でカウボーイに弟子入りし、380頭の牛を2泊3日で送り届けたときの過酷な仕事と、落馬して肋(あばら)を折り湿原に取り残された話。
ドキュメンタリーの撮影で、007よろしくヘリコプターから酸素ボンベを背負って海へ飛び降りた話……。
冒険家の妻と家族のものがたり
椎名さんは、'68年に一枝さんと結婚した際、渡辺家の籍に入った。'70年に長女の葉さんが誕生し、'73年には長男・岳さんが誕生している。
渡辺一枝さんは'87年までの18年間、東京の近郊の保育園、障害者施設で保育士を務め、退職の翌日に初めてチベットに出かけて、その後に作家活動に入っている。チベットについてだけでなく、原発事故後の福島に関する著書も多い。
「うちの“おっかあ”は僕よりもすごい冒険家で、いっぱい本を書いてます。それを読んで驚いたんですよ。チベットを馬で行くという本で、彼女が5か月間、実質的に行方不明になっていたことを知りました。知り合いのチベット人3人と一緒に、チベットを馬でずーっと駆け回って一周する冒険旅行なんですね。3回、死にそうになっていました。すげえ旅をしてたんだなって。
そんなのが伴侶でいますからね。僕なんかは、どっかでいつか帰ってこなくても全然不思議じゃないな、と思ってるんですよね」
椎名さんの代表作のひとつ『岳物語』は、息子の岳さんの子ども時代のエピソードを書いた私小説だ。後年、成長した岳さんはこれを読んでずいぶん怒ったらしい。
「自分のことを勝手にあれこれ書かれているのだから、怒っても当然なんだけど、当時は距離を置かれましたね。でも、彼も年をとってきて、人の親になって段々気がつくことも多くなったようで、今はいい関係ですよ。彼は17年間、アメリカで暮らしていたんだけど、3人目の子どもが生まれるタイミングで日本に帰ってきて、今はテレビ局に勤めています」
長女の葉さんはニューヨーク在住だ。エッセイスト、翻訳家として活躍していたが、最近、もうひとつの肩書を持った。
「数年前、向こうで司法試験に受かって弁護士になったんですね。いきなり聞きましたからびっくりしましたね。ロースクールに通っていることも知らなかったものだから。あんまりそういうことは言わないんですよ。今は、弁護士として仕事してますよ」
また、3人の孫についても『孫物語』で書いている。
「高校生の男、中学生の男と女ですね。上は大学受験ですよ。孫ができておおいに変わりましたね。ある種、彼らの先々を見届けたい、というね。簡単には死ねない。生きる力の糧になりましたね。それに、子どもって活躍をしてくれるものでね。僕は孫たちを“3匹のかいじゅう”と呼んだんだけど、どんどんじいちゃんになっていく僕から見れば、何をしでかすかわからない別宇宙の生き物なんです」
これからの「シーナワールド」は?
77歳になった“作家・椎名誠”は、これからどこへ行くのだろうか。
親友の木村さんは言う。
「椎名の書くものは段々難しくなってきたからなあ(笑)。あんまりカッコつけないで、もっと笑えるエッセイやユーモア小説を書いてほしいなあ。年とったなりの生き方がにじみ出るようなね」
目黒さんは、椎名さんにはまだ書いていないことがあると言う。
「あの人は、作家の前に生活人だから、どうしても手をつけないことがあるんですね。例えば惚れた女性のこととか、きょうだいの話とか。そんな路線にも期待したいですね。椎名のすごいところは、資料を読み込んで特徴をつかみ取ること。すごくうまい。なるほどなぁ、とうなずいています」
さて、本人はどう思っているのか。
「小説のテーマというのは、どこからともなく湧き上がってくるもの。求めれば出てくるというわけではないんです。それでも結構ね、神の啓示のようなものがあって、それを“お!”と思って突き詰めていくと、最終的には1つの本になっていく。そういう経験も何度かありましたね。
これからどうなっていくのか、自分でもまあ見当もつかないね。何かおもしろいものを見つけたら、そこに夢中になっていくでしょうね。まずは体調をよくしないとね。だって、物心がついてから、こんなにわけのわからない不調の中にいるなんてこと、今までなかったですから」
今回の新型コロナ感染で、椎名さんは死んでもおかしくなかったという。
「病院に運ばれて、気がついたときは3日後だった。息子が言うには、病院から電話があって、“お父さんをベッドに縛っていいですか?”と言われたらしい。点滴を剥がしちゃうから。それはまずいからね。記憶にはないけど、ヤバかったんだなあと知りましたよ」
ただし収穫もあった。蟄居(ちっきょ)せざるをえなくなり、これまで読めなかった本をじっくり読む機会に恵まれたことだ。
「いま読んでいるのは、広野八郎さんという人の作品。外国航路の貨物船の底辺で、石炭夫だった著者が虫ケラのように働いている話。昔の日本人は強かったんだなということを思い知ったり、封建時代の掠奪(りゃくだつ)というのは酷いものだったんだな、などと発見がいっぱいありますね」
「体力作家」と呼ばれ、次から次へと新しい遊びを考えだし、多彩な活動でファンを魅了してきた椎名さん─。
「おれ、結構生き長らえてきたじゃないですか。修羅場に強いんだなあ、と。それもネタになるし。まあ、持って生まれた作家魂なのかもしれないけどね(笑)」
そう言って微笑むと、作家はビールをグビリと飲んだのだった。
〈取材・文/小泉カツミ〉