憧れの存在であり続ける美智子さま

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、皇室のご成婚について。

美智子さまは皇室の枠を広げた

 眞子内親王殿下と小室圭氏が結婚された。おふたりが婚約内定会見をされたのは、2017年の9月。以降、さまざまな報道が飛び交い、4年の月日が流れた。結婚に伴い、眞子内親王殿下は皇籍を離脱し、“眞子さん”となった。新しい道を歩む、彼女の前途が明るいことを願っている。

 皇室のご成婚で思い出されるのは、やはり1959年の上皇さまと美智子さまだろうか。私は、女優になったばかりのころだったけど、こんなに上品できれいなお嬢さまがいるのかと日本中が驚いたことを覚えている。

 松竹の時代劇に出演するために京都で撮影をしていたら、戦前から活躍する“歌う映画スター”と呼ばれた俳優の高田浩吉さんが、「こういう女性が女優になってくれたらなぁ」

 そうしみじみと語っていた。大スターの目から見ても、美智子さまの存在は際立っていたようで、しきりに高田さんは「素晴らしい、素晴らしい」と繰り返していた。

 当時の美智子さまは、初めての民間出身の皇太子妃─。われわれ一般庶民が想像を絶するようなご苦労があったに違いない。でも、女性週刊誌の表紙は、いつも美智子さま。憧れやすく、まねをして取り入れたくなるようなファッションをされていたところも絶妙だったなぁ。例えば、ショールにしても、スカートにしても、お金を貯めればOLさんでも買うことができるスタイルのものをお召しになられていた。

 社長令嬢ではあったけど、親しみやすさがあったからこそ、「ミッチー・ブーム」という社会現象を生み出したのではないかしら。女性たちの憧れの的だった。

 なんでも主婦と生活社が2年前に発売した美智子さまの写真集は、とても好評だったそうだ。今なお、多くの女性から支持を集めているのだから、いかに色褪(あ)せていないかを物語っている。

 池田山にあった正田邸も古い洋館で素敵だった。建物の保存を求める要望書や署名活動が盛んに行われていたけど、最終的には解体され、今は「ねむの木の庭」という公園になってしまった。民間初のプリンセスがお住まいになられていた場所なのだし、形にとどめておくことはできなかったのか─などと思ってしまう。

 私の元亭主の脚本家・林秀彦は、学習院高等科を中退している。ほかの生徒たちに「町っ子」といわれ、おもしろくなかったらしい。でも、学友に上皇さまがいらして、将棋をさしたことがあるとジマンしていたっけ。その後、元夫は渡欧し、フランスのモンペリエ大学に留学する。この大学は、あのノストラダムスが卒業している母校でもあるため、彼はよく「ノストラダムスは自分の先輩だ」なんて、これまたジマン。

 話を戻しましょう。美智子さまが、公務に勤(いそ)しんでいた姿も忘れがたい。先の戦争で1万余の将兵が散華したという太平洋の島国・パラオのペリリュー島への慰霊など、ご高齢にもかかわらず各地を行脚するお姿を見ると、背筋がピンとなる。

 51歳のときには、子宮筋腫の摘出手術を受け、病名などを包み隠さず公表されたことにも驚いた。それまで皇室の方がそういったことを公にすることなんてなかったから。

 振り返れば、美智子さまは皇室の枠を広げていった存在だった。楽しそうなご一家の写真や、子育ての姿を発信したり、ときにはエプロン姿でお料理を作ったり。そう考えると、今の皇室って美智子さまのときより秘匿性が増しているような気がする。だから、国民が悪い意味で勘ぐってしまうのかもしれない。

 今回のご結婚に関しても、皇室の未来が心配になるような出来事が少なくなかった。美智子さまがご苦労を重ねて広げた可能性を狭めてしまわないためにも、宮内庁を含めもっと国民のために誠意を持ってオープンになっていくことが必要なのではないかしら。

 眞子さんは民間人となった。平穏な愛の暮らしが、長く続くことを祈っている。

〈構成/我妻弘崇〉

冨士眞奈美
 冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。