「福岡の山笠祭りには毎年参加していました。7月1日から15日まで開催されるのですが、夫は“この期間は絶対に仕事を入れるなよ!”と毎年言っていました」
手に持った写真を見つめて目を細めたのは、小松政夫さんの妻・朋子さん。'20年12月7日に亡くなってから1年を迎えた。
浮気した夫を蹴り飛ばした!
毎年『博多祇園山笠』を楽しみにしていたという小松さんの故郷は福岡県。父親は洋菓子店を営む、裕福な家庭で育った。しかし、小松さんが中学生のときに一転する。
「父親が病気で亡くなったのです。それで生活は一気に苦しくなった。小松さんは定時制高校に通いながら働いて、家計を支えていました。高校卒業後は俳優を目指して上京しますが諦めて、自動車販売店に就職。トップセールスマンとして、月収12万円を超えることも。当時の大卒初任給が1万円でしたから、高給取りでした」(芸能ライター)
だが、週刊誌の求人広告が小松さんの転機となった。
「植木等さんの運転手募集という求人に飛びついたのです。給料は下がっても、まったく後悔はなかったそう。植木さんと初めて会った日に“君はお父さんを早くに亡くされたそうだね。これからは私を父親と思えばいい”と言われて一生ついていこうと思ったと話しています。運転手として3年10か月を迎えたとき、植木さんが渡辺プロの社長に頼みデビューすることができたのです」(同・ライター)
植木さんのことを“親父さん”と呼び、慕った。デビューを果たし、ヒット曲『しらけ鳥音頭』や『小松の親分さん』といったギャグで人気を博し、一躍お茶の間の人気者に。このころに出会ったのが、妻の朋子さんだ。
「新宿にある『どん底』という居酒屋に友達と行ったときに、声をかけられて知り合いました」(朋子さん、以下同)
少しずつ距離を縮めて、結婚。'76年のことだった。
「結婚してみてわかったのですが、すっごく遊びまわるんです。浮気したこともありました。そのとき夫は酔っぱらっていたから蹴っ飛ばしてやりましたね(笑)。
初めは芸能人ってみんなこうなのかしらって思っていたんですが、あるとき、やっぱりおかしい!と思ってピシャリと言ったんです。亭主関白でしたが、いつの間にか立場が逆転してました(笑)」
お酒が大好きだった小松さん。大人数を引き連れて、自宅に帰ることもしばしば。
「毎週30人近く連れて帰ってきた時期がありました。本人は酔っぱらって先に寝ちゃうし、私は食事を作ったり、知らない人の話し相手を朝までしたり……。
飲み屋さんを開いていたら儲かったと思います(笑)。毎回もう勘弁!と思っていましたが、次の日には“昨日はありがとう”と必ず言ってくれました。だから、しょうがないなって許しちゃって」
妻に支えられ、仕事にも精を出し、俳優としても活躍。
「次はどんな映画をやろうか」
'19年には主演舞台『うつつ 小松政夫の大生前葬』を上演。小松さんの娘役として共演した女優の棚橋幸代が、その人柄について明かす。
「小松さんはお芝居に対して真摯に向き合う方で“あそこをうまく演じられないんだよ”“あの場面はこうしたほうがいいんじゃないか”って、いつも稽古後にいろいろお話ししてくれました。
ご病気を患っていたはずなのに、そんなそぶりはいっさい見せずに。公演の打ち上げで、出演した女性陣みんなで小松さんを囲んでハグしたんです。そしたらボロボロと泣いて喜んでくれたんです」
周囲のことも常に気にかけていた人だった。昨年の夏にはこんな連絡があったという。
「久しぶりに電話をくれて“元気にしてる? また舞台のみんなで飲みたいね”ってお話ししていたんです。元気でよかったと思っていたから、訃報を聞いたときはショックで涙が止まりませんでした。コロナで会えなかったのが本当に悔しい……」(棚橋)
長年にわたって小松さんと親交があった映画監督の坪川拓史氏も、いまだ悲しみを抱えるひとりだ。
「僕の映画5本にすべて出演してくださっているのですが、撮影が終わると“次はどんな映画をやろうか”と小松さんは必ず言ってくださった。ふたりで話して、映画を作ってきたんです。小さいころにテレビで見ていた憧れの人と映画を作れて本当に幸せでした」
出会いは、坪川氏が小松さんに自身の映画への出演オファーをしたことがキッカケだった。当初は断られたが諦められず、小松さんが出演する舞台の楽屋に押しかけた。
熱烈なアプローチに根負けした小松さんが「わかった」と話したのが21年前のこと。今も昨日のことのように思い出すという。
「小松さんが亡くなる数か月前に電話で話したときも、次の映画の話をしました。その脚本も完成しているんですが、小松さんの役をほかの人にお願いして撮影するって気持ちになれなくて……。
今も脚本を書くときに、小松さんにどんな役をやってもらおうかと考えてしまいます。僕が映画を作る理由のひとつがなくなってしまった。心にポッカリと穴があいてしまった感じです……」(坪川氏)
部屋から出てきた大量の「空きビン」
そして、知られざる小松さんの魅力について続ける。
「“バナナの叩き売り”の口上や“泣き売”を演じてくれたり、昔の座敷唄を教えていただいたこともありました。ギャグだけでなく、本当にさまざまな芸に精通していた人なのです。そんな小松さんの一面を、今後はもっと伝えていきたいと思っています」
'19年に肝細胞がんが発覚したが、周囲には何も伝えていなかった。どうしてなのか。朋子さんによると、
「病気を治して、まだまだこれから舞台をやろうと考えていたのだと思います。いつも舞台の話をしていましたから。アルコール性の肝細胞がんと言われていたので、本人も身体のことを考えてか“酒はもうやめた”と話していました。それが昨年の11月に、急激に体調が悪化したんです」
抗がん剤治療を行い、目に見えて衰弱していった。
「病院で寝たきりになり、声も出なくなっていました。12月6日には眠っていたんですが、突然“おい! 今日は帰るぞ!!”って大きな声で叫んだんです。ビックリして起こそうとしたんですが、起きなくて……。コロナ禍で付き添いが病院にいられる時間も限られていましたから、しょうがなく家に帰ったんです」
翌7日の午前5時に病院から電話があった。駆けつけたが意識はなく、そのまま息を引き取った─。
「家に帰りたかったんだと思うと、かわいそうなことをしたなって……。1年たちましたけど、今も亡くなった実感がわかなくて。地方公演に行っている気がしたり、“ねえ、あれはどうしたっけ?”と話しかけちゃったり。でも、誰もいないことに気がついて、現実に引き戻されます」
他界後、小松さんの部屋を片づけていた朋子さん。小松さんが隠していた“あるモノ”を見つけたと明かす。
「お酒の空きビンがゴロゴロと出てきたんです。紙コップも置いてあって。コロナですから、誰かが家に来たわけでもない。昨年の夏はふたりっきりで食事していましたが、お酒も飲まないので、本当にやめたんだと思っていたんです。そんなに飲みたかったのなら、言ってくれれば堂々と飲ませてあげたのに……」
お墓は、夫婦で旅行した際に見つけた、湖を望む霊園に建てたという。春には、しだれ桜が満開になる。