かつて注目を集めた有名人に「ブレイク中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、当時は言えなかった本音とは? 第33回は'80年代後半に「キテます! 」の決めゼリフで超魔術ブームを巻き起こしたMr.マリック。“ハンドパワー”でも治せなかった病と悩みとは――。
バブル経済で日本中がイケイケだった'80年代後半に突如現れ、“超魔術”ブームを巻き起こしたMr.マリック。本格的にマジックを始めたキッカケは運命的な2つの出会いだった。
「中学2年生のときに東海地区のテレビにも出ていた天才マジック少年が、僕のクラスに転校してきたんです。河原の小石を投げて、空中で消してしまうような大人顔負けの技術を持っていた子だったのですが、たまたま隣の席になって。それで休み時間になると、マジックを教えてもらうように」
クラスメイトが簡単なマジックにも苦戦する中、なぜかマリックだけはすぐに次々と技を習得していった。
「もともと素質があったんですかね。その男の子も僕を気に入ってくれて、アシスタントのようにマジックのイベントなどに連れていってくれるようになりました」
別々の高校に進学したことでマジック少年とは疎遠になり始めたころ、近所の歯科医院にマジック業界でも有名な歯科医がインターンで赴任してきたという。
「沢浩さんという有名なアマチュアマジシャンの方が、僕がよく見に行っていたマジックサークルにいたんです。話をしたところ、今度インターンで行く歯科医院が実家の近所ということがわかって、そこから毎日のように通って教わるようになりました」
沢は歯科医だけあり、専門的な機械で作った道具を使う創作マジックで知られていた。そんな彼から、ノウハウを学ぶことに。
「マジックの基礎を中学で学び、高校でオリジナリティの大切さを学びました。地元での偶然的な出会いが大きな財産になりましたね」
しかしプロになれるとは思っていなかったこともあり、高校卒業後は瞬間湯沸かし器で知られるメーカーに就職。
「新入社員は現場に出て、無言で黙々と作業をさせられるんです。そんな生活の息抜きだったのが、名古屋のデパートで行われていたマジック道具の実演販売を見ること。毎週のように通っていたら、ディーラーさんと仲よくなって。ある日、“販売員に空きが出るから、興味があるならやってみない?”と声をかけられて。退屈な日々を過ごしていたこともあり、二つ返事で転職しました」
実演販売を始めると、再びマジック熱が高まりプロの世界に興味を持ち始める。
「プロになるには、当時のマジック界を牽引していた初代の引田天功さんに会うしかないなと。それで天功さんが主宰していた『ハトの会』に顔を出しているうちに、自宅に遊びに行けることになったんです。プロで食えるようになりたいと相談したら、“一流になる気がないなら、みじめになるだけ”と言われてしまって……。一流になるにはどうすればいいかと考えた結果、世界大会で優勝することだろうと思い至り、マジック大会に片っ端から参加しました」
東海地区での優勝を皮切りにとんとん拍子で日本代表になったマリック。21歳で世界大会で優勝するも、そこで大きな挫折を経験することに。
「マジック大会の後、世界中のプロが集まるショーを見たら、アマチュアの僕たちとレベルが違いすぎて、井の中の蛙だったことに気づいたんです。帰国後は実演販売の会社も辞めて、フリーターのような生活を送っていましたね」
実家のある岐阜県でフラフラし始めて1年がたったころ、実演販売を行う会社から再び声がかかる。
「手品グッズだけでは儲からないからと、CMで話題になっていた謎の生物・シーモンキーを扱うことになり、東京での販売員を探していたんです。お金も尽きていたので、住む場所のアテもないまま上京し、実演販売の仕事を再開することに」
シーモンキーと一緒に新しいマジック道具も販売し始めると、こちらも飛ぶように売れたという。
専門店『マリック』をオープン
「実演販売と平行して30代のときにマジックグッズ専門店をオープンしました。そのときの名前がマジックショップ『マリック』。20代のときから個人レッスンをするときにはそう名乗っていたのですが、公に使ったのはこのときからです」
ショップに『新春かくし芸大会』(フジテレビ系)のスタッフが小道具を買いに来た縁で、テレビの世界に足を踏み入れる。
「道具を買いに来たスタッフの方に“直接、タレントに指導してくれないか”と頼まれて、テレビ局でタレントさんに教えるようになったんです。でもタレントさんはマジックのプロではないから、全然できないんですよ。“私がやったほうが何倍もすごいマジックができますよ”と提案したところ、“無名な人がやっても意味がない”と相手にしてもらえなくて。それなら自分の名前を売るしかないなと」
名前を売るために目をつけたのがホテルでのショー。ホテルに自ら売り込みに行くと、ショー専門の事務所を紹介してもらい、有名ホテルチェーンでショーをやらせてもらえることになった。
「大阪のホテルでショーをしたところ、それを見たテレビ大阪の方に番組に呼んでもらったんです。そのときにテレビは画面内でマジックが完結しないとダメだということを学びました。手がフレームアウトしちゃうと、映っていないところでマジックのネタを仕込んでいると視聴者に思われてしまいますからね」
そして東京・浅草のホテルでショーを見た日本テレビのスタッフに誘われ、人気深夜番組『11PM』に出演したところ、一躍注目を集める。
決めゼリフは偶然誕生
「大阪の番組では“超能力マジック”と紹介されていたので、視聴者的にはどっちつかずに見えたんでしょうね。『11PM』のスタッフに“黙っていたら超能力ですね”と言われたことから、“超不思議現象”と言ってマジックを披露したところ大ウケ。その後、木曜スペシャルで“超魔術”と名付けられ、見せ方や紹介する言葉の大切さを実感しました」
馬券を的中させたり、パチスロ台で7の絵柄をそろえてフィーバーさせるといったテレビ的なマジックショーを次々に披露したところ話題を呼び、大ブームに。
「お店と協力して、あとは絵柄をそろえるだけの状態にしたところで“ハンドパワーです”と言ってそろえていました。だからパチスロファンにはすぐに見破れたようで、“あんなのインチキだ!”といったクレームの電話もかかってきたみたいです。とはいえ、インパクトも大きかったようでどんどん盛り上がっていきました。当時はグレーゾーンが許された時代でしたが、今なら絶対に無理でしょうね……(苦笑)」
『ハンドパワー』や『キテます!』といった決めゼリフも、偶然から生まれたものだったと振り返る。
「マジックショーでお客さんをステージにあげたところ、“この不思議な力はハンドパワーですか?”と言われ、便利な言葉だなと使わせてもらいました。それで“ハンドパワーです”と言いながらマジックを披露した際、別のお客さんが“ハンドパワーがキテます!”と言ったので、それも使わせてもらうことに(笑)。結局、自分が頭で考えたものより自然なリアクションなどから発せられた言葉のほうが、キャッチ―なものが生まれるんですよね」
売れっ子になって3年ほどたったとき、ストレスから顔面麻痺になってしまう。
「次々に新ネタを作らないといけないストレスが身体に出てしまったみたいです。最初は顔の右側の神経が切れたのですが、治り始めたと思った矢先に今度は左側の神経が切れて……。病院に行っても“いつ完治するかはわからない”と言われてしまいましたが、番組の収録は休めない。だから本当に症状が酷いときはスタッフに話せる状態ではないということを明かして、ほぼ無言で収録を乗り切ったこともありましたね。
神経麻痺でまばたきができないから、セロテープでまぶたを閉じさせたりしていたのですが、もともと大きなサングラスをしていたこともあり、なんとかマスコミにもバレずにすみました。当時はマジックのネタだけでなく、病気のことも隠している状態でしたね」
決まっていた収録をこなしたあとは仕事をセーブ。顔面麻痺がバレづらい、薄暗い会員制のバーでショーを再開させると、そこで新たな出会いを果たす。
テリー伊藤との出会い
「そのバーにテリー伊藤さんが来ていたんです。“最近テレビで見かけないけど、バラエティーに興味ある?”と誘われ、当時若者に人気だったテレ東系の『浅草橋ヤング洋品店』に出演することになりました」
人気企画『中華大戦争』などでブレイクした周富徳・周富輝兄弟など番組発のスターとともに、マジックとは関係のないロケに挑戦。
「マジック以外のバラエティーはやったことがないから、最初は何もできなかったですね。そんな僕を見かねてか、テリーさんが“テレビに出るならバカにならなきゃダメだよ!”とアドバイスをしてくれました。それで苦手な歌に挑戦したところ、喜んでもらえて。完璧なものを見せることだけが、視聴者を楽しませることではないんだなと、身をもって痛感しました」
これまでにない形でテレビに出るようになったところ、今度は日本テレビの有名プロデューサーから声がかかる。
「笑福亭鶴瓶さんが司会を務めていた『投稿!特ホウ王国』という番組で、Mr.マリックを逆さから読んだ栗間太澄(くりま・たすみ)という謎の郵便局員というキャラクターで出ることに。決めゼリフは“手力です!”だったり、セルフパロディをしたことがウケて、テレビの依頼がまた増えるように。顔面麻痺でテレビから消えそうになっていたところ、違うジャンルの人たちから声をかけてもらったことで、復活できるとは思っていませんでした」
一度は消えかけた彼に芸能界で大事なことを聞くと、言葉を噛みしめ、こう答えた。
「とにかく飽きられないことですね。僕の場合はバラエティー番組に出て、これまでとはまったく違うギャップを見せたからこそ、超魔術を知らない若い世代にもウケて、知ってもらえた。もし、自分にはバラエティーは無理だからとテリーさんの誘いを断っていたら、テレビの世界では淘汰されていたでしょうね」
現在はYouTubeでチャンネルを開設。ときにはネタ明かし動画も公開するほか、依頼があればネタ番組にも積極的に出演する。
「僕らの世代は初代・引田天功さんに憧れてマジシャンを目指す人も多かったですが、今の世代は特定のマジシャンに憧れる人は少ないように感じます。だからいろいろなことに挑戦して、“マジシャンになりたい!”という人を増やすことが自分の使命なのかなと。今はYouTubeなどでマジックのネタは簡単に見つかるけど、自分のモノとして習得するのはまた別。
若い世代に自分が持っているノウハウを伝えていくためにも、次世代のマジシャンの発掘や育成に力を入れていきたいと思っています。そして、人気タレントに負けないスター性のあるマジシャンが育ってくれたらうれしいですね」