「母親が亡くなるとき、僕は九州にいたんですが、開演の5分前になっても支度ができなかったんです。すると“トンちゃん”って母親の声が聞こえたんです。なので、すぐに妻に電話したんです。すると“なんでわかったの? たった今、お義母さん亡くなったのよ”って。それを聞いて“舞台をやらなきゃ”って支度ができたんですよ」
12月14日、出演したラジオ番組の生放送で、'99年に他界した母親との不思議な思い出を明かした梅沢富美男。
「今でこそバラエティー番組やワイドショーのご意見番としてテレビでも活躍する梅沢さんですが、もともとはご両親が昭和初期に立ち上げた『梅沢劇団』で、子どものころから舞台に立ち、旅芸人として活動してきました」(演芸ライター)
兄がいなければ今の富美男はいない
女形を演じ“下町の玉三郎”として、大衆演劇のスターに。'83年には歌謡曲『夢芝居』が50万枚を売り上げる大ヒット。現在放映されているレモンサワーのCMでもおなじみの存在だ。昭和生まれの“頑固おやじ”といったイメージだけど、私生活ではこんな様子も。
「以前、麻布十番の居酒屋で妻夫木聡さんたちと一緒に食事に来ていたのを見かけたことがあったんです。一見、こわもての梅沢さんですが、誰に対してもとっても丁寧で腰が低い人でした。そんな一面を見て、すっかりファンになっちゃった。後日、公演も見に行ったぐらい(笑)」(居合わせた客)
'12年には『梅沢劇団』を引き継ぎ、座長として一座を引っ張ってきた。この2年間、苦しめられてきたコロナ禍がようやく落ち着き、公演活動を再開し始めたときのこと。不幸が襲う。
「12月上旬に11歳年上で、ずっと慕ってきた兄の武生さんが倒れて入院したのです。武生さんは出演を予定していた舞台も降板。これまでも、糖尿病やがんを何度も患い、入退院を繰り返していたこともあり、座長を梅沢さんに譲ったという経緯もありましたが、それでも舞台には出演していたんです。だから、今回の病状はそうとう悪いんじゃないかって……」(劇団スタッフ)
梅沢は8人きょうだいの7番目。長男の武生が父親の跡を継ぎ、'63年に23歳という若さで2代目座長に就く。梅沢が引き継ぐまで、約50年にわたって一座をまとめてきた。そんな兄は、梅沢にとって特別な存在だ。
過去の雑誌インタビューでは、武生が大腸がんを患ったときの心境について、梅沢はこう語っている。
《兄貴は子供も作らないで劇団と俺たち兄弟のために生きてきたような人。女形をやれって勧めてくれたのも兄貴だし、彼がいなかったら、今の俺や劇団もここまでやってこれなかった。病気を聞いたときはつらくて、本当にどれだけ飲んでも酔わなかったんだ》
そんな兄から継いだ劇団を梅沢は懸命に支えてきた。
「コロナで公演ができず運営も厳しい状態になっても梅沢さんはテレビの仕事で稼いだギャラで、劇団スタッフの給料を支払っていたんです。それでも先が見えない不安が募って、劇団を辞めていく人もいた。梅沢さんも一時は“もう無理だ”と弱音を吐くこともあったようです」(スポーツ紙記者)
逆風のなか、ガムシャラに働いた。それは梅沢が胸に秘めたこんな思いがあったからだと、前出の劇団スタッフ。
「頑張って踊るよ」
「病院を退院したばかりの武生さんが思うように動けなくても、梅沢さんは“もう引退しなよ”なんて言うことは決してありません。どうやったら舞台に立てるか、どうしたら成立するかを考えるんです。
武生さんは“死ぬまで舞台に立ち続けたい”と話していましたし、それは梅沢さんも同じ。きっと“兄貴の死に場所は俺が残す!”と思っているはずですよ。母親の死に目にも公演で会うことが叶わなかった。それが幼いころから旅一座で生まれ育った人の生きざまなんです」
兄のために劇団を守ってきたはずが、肝心の兄がついに倒れてしまったのだ。きっと梅沢も気が気でないはず。冒頭のラジオ出演を終え、車に乗ってラジオ局から出てきた梅沢に声をかけて話を聞いた。
─お兄さんが入院されたと聞いたのですが。
「あぁ、はい。でも大丈夫ですよ。もう退院してるんじゃないかな。新春公演には出ますから」
─コロナ禍で大変だったと思いますが、それでも劇団を支えたのは、舞台というお兄さんの戻る場所を守るため?
「そうですね。兄のためもありますし、なにより親父がつくった一座を守らなければいけないですから」
優しい笑顔を浮かべて『週刊女性』の取材に答えてくれた。
梅沢のマネージャーは、
「武生は、すでに退院しておりますが、まだまだ舞台に出たいと言っています。これまで何度もがんを患っていますので、だからこそ次の舞台までには、きちんと治療しなければいけません。1月に『明治座』で行う公演では、兄弟ふたりで踊る相舞踊を披露する予定です。武生も“頑張って踊るよ”と言っておりますので、楽しみにしていただければ」
兄と弟の“夢芝居”は、まだまだ続く─。