『ゆく年くる年』の台本 撮影/斎藤周造

 大晦日の夜、『紅白歌合戦』の盛大なフィナーレから一転、番組は静かな映像へと切り替わる。新年を迎える15分前、寺や神社など、全国各地の中継先を結び、年越しの様子を伝えるNHKの伝統番組『ゆく年くる年』(総合テレビ/31日23時45分〜)が始まる。

 『ゆく年くる年』のテレビ放送が始まったのは、遡ること昭和28年。当時は『除夜の鐘』というタイトルで放送されていた。約70年もの歴史を持つ超長寿番組だが、驚くのはまだ早い。ラジオで放送が始まったのはもっともっと前の話……なんと、まだテレビがない時代だったという。

 派手な番組ではないが、心に残る。長い歴史を経て、年越しに欠かせない番組となった『ゆく年くる年』は、どのようにして作られているのか? その“裏側”を『おはよう日本』の小原正泰チーフ・プロデューサーと、今村史子チーフ・プロデューサーに聞いた。

登場回数が多い場所は

小原さん「『ゆく年くる年』は『おはよう日本』が担当しています。『おはよう日本』にとって、もはや伝統行事のようなもの。毎年、番組を進行するのも『おはよう日本』のキャスターで、今回は高瀬耕造アナウンサーと桑子真帆アナウンサーが務めます」

 そう話すのは、過去に『ゆく年くる年』のプロデューサーを務め、中継現場にも足を運んだ小原正泰さん。毎年、プロデューサーやディレクターは変わるそうで、今年は今村史子さんがプロデューサーを担当する。

 実は『ゆく年くる年』では、毎年テーマが決まっている。そのテーマに沿って、中継ポイントが選ばれていくという。

今村さん「今年のテーマは『命と暮らし 笑顔の明日へ』です。今年も新型コロナウイルスに振り回された1年でした。コロナ禍で迎える2度目の年越しで、経済の打撃を受けたり、暮らしに疲れている人たちがいっぱいいる。そんな中で来年への希望や笑顔を取り戻せるような、光を見出せる番組にしたいということで、このテーマを選びました」

 毎年、テーマを決めることから始まる。初動は9月頃だそう。

今村さん「毎年9月頃に『おはよう日本』の中に事務局が立ち上がり、議論してテーマを決めます。今年はどういう1年だったとか、どんなことが起きたとか。まだ9月なんですけどね(笑)。テーマが決まったら、全国の放送局に、テーマに合う中継ポイントやネタ、話題がないか募集をかけます。1か月くらいかけて探してもらって、それを事務局でまとめて中継ポイントを決めていく。今年は最終的に決まったのは11月中旬くらいでした」

 2021年→2022年は、“キーステーション”となる東京の「浅草寺」をはじめ、金色堂の修復を終えて賑わいを戻しつつある岩手県平泉町「中尊寺」、南海トラフ巨大地震に備え、市が避難所に指定した高知県高知市「弘法寺」、いまだ国際線は 2~3割、コロナ終息の日を願う「羽田空港」などが中継先に出揃った。

小原さん「キーステーションとは、キャスターが番組の進行をする、メインとなる場所。そこから全国の中継ポイントに繋いでいき、参拝客の様子やその地域で行われる伝統行事の様子を伝えていきます。中継先がお寺や神社だけにならないよう、そういったバランスも見ながら、中継ポイントを決めていきます」

 これまでの登場回数が多い場所はどこなのか。

今村さん「私の手元にある資料を数えただけなので、おおよその数ではあるのですが、浅草寺のこれまでの登場回数は10回。ほかに頻出回数が多いところですと、比叡山延暦寺、京都の知恩院、広島の厳島神社もそれぞれ10回。ということで、今回で11回目となる浅草寺が、一番登場が多い場所になるんじゃないかなと思います」

まさかの「トイレから中継」

 さまざまな場所から年越し風景を届けてきた『ゆく年くる年』。前述通り、非常に長い歴史を持つ番組だが、そもそも始まりはいつなのか。

小原さん資料があまり残っていないのですが、元々のルーツは昭和2年と聞いています。そのときは、増上寺から鐘を借りてきて、スタジオで108回鳴らし、それをラジオで放送したそうです。

 昭和4年には『除夜の鐘』というタイトルで中継がスタート。中継先は浅草寺でした。今のようなリレー式で中継をつなぐ形になったのは昭和7年。その後、昭和28年にテレビでの放送がスタートし、昭和30年に『ゆく年くる年』というタイトルになったようです」

『ゆく年くる年』というタイトルになってから数えても66年。これだけ長いことやっていれば、思わぬハプニングに見舞われたこともあったはずーー。

今年の『ゆく年くる年』を担当することになった今村史子チーフ・プロデューサー 撮影/斎藤周造

今村さん「実際に中継が出なかったとか、大きなトラブルは聞いたことはないのですが、北海道で吹雪がすごくて、トイレから中継したことはありましたね(笑)」

小原さん「ありました。2012年に北海道稚内市の宗谷岬で年越し中継をしたんです。そこでは多くのオートバイのライダーがキャンプをしながら年越しをする。その様子を中継する予定だったんですが、その日は吹雪がすごくて、とてもキャンプなんてできる状況にない。

 それでどうしたかというと、みなさん公衆トイレに避難して、そのすし詰め状態のトイレの中からキャスターが中継しました(笑)。もちろん、用意していた台本の中身も全部吹っ飛んじゃいまして……」

 そもそも台本があることに驚きだが、生中継のため、台本は必須だという。

『ゆく年くる年』の台本。大変貴重な資料となっている 撮影/斎藤周造

小原さん「例えば“ゆく年”パートの23時45分から0時までは15分。そこで3〜4つ中継場所を繋ぐとして、それぞれ10秒遅れると年越しがズレてしまう。そういうことが起きないよう、台本を作って時間管理はしっかりやっています。

 あと、どこかで機械が故障して中継ができなくなってしまう可能性もゼロではない。いろんなシチュエーションに備えて台本はいくつかパターンを用意しています」

 本番の大晦日に向けて、着々と準備は進められていく。中継スタッフが現場に入るのは、3日ほど前から。かなり多くの人数が稼働するという。

今村さん「厳密に計算しているわけではないのですが、ある年の現場を数えてみたら、一箇所だけで60名ほど関わっていました。

 ディレクターとかプロデューサーだけでなくて、カメラを切り替える人とか、照明、音声、車両さんとかもチームに入りますので。これが10箇所ともなれば、総勢600名くらいかなと

小原さん「大きなところだと、照明を当てないと映らなかったり、カメラケーブルを何百メートルも引いたり、木を傷つけないように保護したり……設営にも人を要するので。こじんまりとした中継先では、10人くらいで動いているところもあります」

 29日からセッティングが始まり、30日からリハーサルが始まる。そして31日に本番を迎えるというが、当日まで油断はできない。

小原さん「北海道や東北で中継をやる場合は、雪景色も見どころのひとつ。でも雪がなかなか降らなくて、ヤキモキしている現場もたまにあります(笑)。天候ばかりは、どうにもなりませんからね」

中継先で感じる“変化”

 先ほどの宗谷岬などの例はあるが、幸運にも、例年、比較的天候には恵まれているという。だが、無事に放送を終えても、スタッフたちの1日は、まだまだ終わらない。

今村さん「撤収ですか? なかなか2〜3時間で終わりというわけにはいきません。参拝の方がいなくなってから片付けを始めるところもあるので、そうなると朝方までかかるところもあります」

「番組を通して日本の伝統を紡いでいきたい」と小原正泰チーフ・プロデューサー 撮影/斎藤周造

小原さん「カメラや照明などは頑張って3時までに撤収できたとしても、カメラや照明のケーブル、電源、仮設しているカメラの台とか、そういうのは明るくなってからでないと危ないので、すぐに撤収できないんです。

 一度、伊豆大島で中継をやったときは、お正月に船は出ないと。人が乗るような船は動いているんですが、中継車が乗せられる貨物船は運行しないということで、担当の人は4日まで現場にいたことがありました(笑)

 年越しに、各地を生中継で結ぶ番組ならではのエピソード。このようにあらゆる地域の風景や伝統を撮り続けているわけだが、こんな切ない“変化”を感じることもあるという。

小原さん「北海道のとある地域で行われているお祭りの様子を中継したことがありました。そのときはたくさんの人で賑わっていたんです。でも十数年ぶりに中継したときは、お祭り自体縮小していて、人も減っていた。地元の人に話を聞くと、やっぱり当時はもっとたくさんの人が住んでいたと。

 地方を中継することで、そういった今の抱えている地方の問題みたいなものを感じ取れます。これは他のスタッフも口にしていることですが、人口が減ったとか、伝統行事を続けていけるのかなとか、そういうのは地方の中継を結ぶ上で感じます」

『ゆく年くる年』は、時代の変化も映し出してきた。そんな番組に込める、思いとは。

小原さん「除夜の鐘も実際についた人よりも『ゆく年くる年』で見たという人の方が多いんじゃないかなと思います。そういう意味で、日本の年越しの伝統というものを、この番組は担っているのかなと。時代が変わっても、除夜の鐘を聞いて初詣のお参りに行くという、そういう人がまだまだたくさんいらっしゃる。番組の意味合いとして、その文化を伝えていきたいです」

今村さん『ゆく年くる年』は生放送なので、年越しの瞬間というのを“生”で見ていただきたいです。これはVTRではなかなか代えられないものがあるなと感じています。先輩たちの思い、そして見てくださる方たちの思い、日本の伝統を紡ぐ思いで、私たちもやっていきたいですね」

 放送時間は年に1度のたった30分だが、そこには長い歴史とそれを守ってきた多くのスタッフがいた。今後はどのような『ゆく年くる年』を見せてくれるのか。テーマに込められた思いを感じながら、見届けていきたい。

【こぼれ話】

 これまで、海外から中継をやったり、新年にゲストを呼んで“巻頭言”をうかがうといった新たな試みも。1999年→2000年の回では、こんなことが!

「当時“2000年問題”というものがありました。年が変わった瞬間に、電車が止まるんじゃないかとかコンピューターが暴走するんじゃないかとか、そんなことが言われていたんです。その年は東京都の災害対策本部や、JRの総合指令室から中継をして(笑)。『ゆく年くる年』の番組の中で、ニュースセンターから“いまのところ何も起きていません”というニュースも入れて。キャスターも中継先には行かず、特別に組んだスタジオで、トラブルに備えていました。これは極めて異例な年でしたね」(小原さん)