映画『アナと雪の女王2』スペシャルイベントでの神田沙也加さん('19年11月)

 神田沙也加さん(享年35)の突然の訃報から、もうすぐ1週間――。

神田沙也加さんの「幻のデビュー曲」

 テレビの追悼企画では、在りし日の映像が流され、そのなかには「SAYAKA」の名で活動したアイドル時代のものもある。自ら作詞した歌を可憐かつ真摯に歌う姿に、懐かしくなった人も多いだろう。

 彼女のCDデビューは、2002年5月。曲はオリコンで最高5位を記録した『ever since』である。

 ただ、その前に幻のデビュー曲が存在する。

 前年5月、彼女は「SAYAKA」としてのお披露目にもなった江崎グリコの『アイスの実』のCMに出演。CMソングも歌った。

 '03年に開かれたイベントでは、ファンのリクエストに応え、この歌のサビをアカペラで披露。隠れた人気曲だが、CD化はされていない。作曲した杉真理によれば「フルバージョンで制作した」ものの「お蔵入りに」なったという。

 また、'02年には同じグリコの『パナップ』のCMに出演。そこでも彼女の『How do you do?』が使われた。

 こちらは、原田真二が「Shine」の名で作曲。デビュー曲候補だった可能性もあるが『ever since』のカップリング曲にとどまった。

 ではなぜ、この2曲ではなく『ever since』が選ばれたかといえば、時代性を重視したのだろう。杉も原田も、母・松田聖子のアイドル全盛期を盛り上げたアーティストで、アルバムの人気曲を手がけた。この2曲も当時の聖子テイストが強く、それはそれで魅力的だが、この時期の旬ではない。さらにいえば、杉や原田も活躍のピークは1980年前後だった。

 そこで「SAYAKA」のスタッフは、聖子の二番煎じに見られることを避けるためにも、もっと別の、できれば旬のテイストを加えたかったのだろう。

 その流れで白羽の矢が立ったのが「ブリグリ」ことthe brilliant greenの奥田俊作。数年前にヒットを飛ばしたJポップど真ん中のアーティストであり『ever since』もJポップらしいサウンドに仕上がった。方向性としては、浜崎あゆみの少女版という感じだが「SAYAKA」の詞と声が独自の世界を作り上げている。

 スター夫婦の娘ならではのさびしさを味わい、学校ではひどいイジメにも遭った少女が「壊れかけた夢」を抱えながらも、前に進むことで強くなれると自らに言い聞かせるかのように歌うそのメッセージ。まだ粗削りながらも、透明感とうるおいを合わせ持ち、聴くものを癒すその歌声。

 それは彼女にしか生み出せない世界であり、デビュー曲として悪くない選択だった。

 ただ『アイスの実』のCMソングを気に入っていたファンからは、そのまま正統派のアイドル路線でもよかったのにという声も出た。あるいは、聖子テイストを薄めつつ、90年代の広末涼子みたいなラインで行く手もあっただろう。

 しかし、当時はそれがやりにくい状況でもあった。

アイドルグループ全盛期の中で……

 '97年デビューのモーニング娘。以来、ハロプロことハロー!プロジェクトがアイドルシーンを席巻していたからだ。「SAYAKA」がCMデビューした前月には、松浦亜弥が歌手デビューしてヒットを連発。「聖子の再来」とまで呼ばれていた。

 そんなハロプロの勢いにたったひとりで対抗するのはさすがに分が悪く、それもあって、正統派のアイドル路線にはしなかったのかもしれない。

 しかも、アイドルという文化のトレンド自体、ソロからグループへという転回点に来ていた。松浦ですら、しばらくすると、後藤真希や藤本美貴、安倍なつみなどと組むユニットで活動するようになる。

 一方「SAYAKA」には、ユニットを組めるような相手がいなかっただろう。アーティスト性を持ったアイドルとしてスタートを切ったものの、セールス的には尻すぼみになっていった。

 とはいえ、シングル第2弾『garden』では作曲も手がけたり、第3弾の『水色』以降はday after tomorrowの北野正人とコラボしたりと、充実ぶりを示している。'05年にはファーストアルバムも発表した。

 ところが、その3か月後、活動を休止する。所属事務所によれば、

高校卒業をひと区切りとし、この機会にゆっくりと時間をとっていろいろなことを勉強し、将来のことを考えたいという本人の意思により

 とのことだったが、その背景に彼女と北野との交際、それをよしとしなかった聖子との確執があるとも報じられた。

 ただ、彼女が約1年半の休止期間に「いろいろなことを勉強」したのも事実だ。人生経験のため、飲食店でアルバイトもしたという。

 そして「神田沙也加」の名で活動を再開。ミュージカル女優や声優として活動することになる。'14年には、ディズニーのミュージカルアニメ『アナと雪の女王』日本語版でヒロインの声や歌を担当。高い評価を得た。

 その後も遺作となった『マイ・フェア・レディ』まで、このジャンルでの活躍が続き、アイドルだった頃の記憶は忘れられていったが――。

「SAYAKA」としても確実に残した美しい歌声

 ひょんなことから、デビュー曲の『ever since』が注目されたことがある。'18年5月『水曜日のダウンタウン』(TBS系)でのことだ。

「曲のサビでちょうど涙は難しい説 第2弾」という企画で、元NMB48の須藤凛々花が『ever since』を歌った。

 須藤は前年に行われた第9回AKB48選抜総選挙で「結婚宣言」をして物議をかもしたことで知られる。アンチも多い人なので、ネットでは須藤をディスる声も目立ったが、それとは別に、

「この曲、好きだった」
「ドラマの主題歌だよね」
「作曲はブリグリの人」
「やっぱ、いい曲」
「神田沙也加で聴きたいな」

 といった懐かしむ声もあふれたのだ。それは「神田沙也加」が「SAYAKA」としても、人々の心に確かな感動をもたらしていたことの証しでもあった。

 なお、もともと「声優になりたかった」という彼女は、アニメにも積極的に出演。今年放送された『IDOLY PRIDE』(TOKYO MXほか)ではアイドル・長瀬麻奈を演じた。

「グループが主流となったアイドル界に、彗星の如く現れたソロアイドル」(『IDOLY PRIDE』公式サイトより)

神田沙也加さんが演じたアイドル・長瀬麻奈の紹介ページ(『IDOLYPRIDE』公式サイトより)

 ということで、完璧なルックスとキャラ、パフォーマンスにより人気を得るが、交通事故のため、19歳で急死。幽霊となって、後輩たちを見守るという役柄だ。

 麻奈の持ち歌として流れる挿入歌では、ミュージカルでの歌唱とはまた違う、アイドル的な歌唱を聴くことができ、彼女の才能の幅広さがわかる。

 思えば「SAYAKA」という存在自体、ハロプロとAKBというグループアイドルの2大ブームのあいだで、ソロアイドルの可能性をもう一度試すような役割を担っていた。その挫折もあって、グループアイドル全盛への流れはさらに加速していく。ある意味、母・聖子が大きく開花させたソロアイドルという文化の最後を娘の彼女が締めくくったともいえる。

『ever since』でデビューする際、彼女はこう語った。

「イントロが流れ出した瞬間、感動とうれしさで体が熱くなり、鳥肌が立ちました」

 期待に応え、夢をかなえようとしてもがいた10代の4年間もまた、彼女にはかけがえのない時間だっただろう。

「アナ雪」やミュージカルのレパートリーはもとより、若き日の神田さんが自身の葛藤を詞に託した「SAYAKA」の歌も長く聴き継がれることを願ってやまない。

PROFILE●宝泉 薫(ほうせん・かおる)●作家・芸能評論家。テレビ、映画、ダイエットなどをテーマに執筆。近著に『平成の死』(ベストセラーズ)、『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)、『あのアイドルがなぜヌードに』(文藝春秋)などがある。