錦鯉のM-1決勝ネタは松本人志も「青春してた…すごいなって思った」と絶賛

「諦めないでやってきて、よかった」

 '21年12月19日、漫才日本一を決める『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)が開催され、錦鯉が過去最多6017組の頂点に立ち、17代目王者に輝いた。

M-1優勝を機に引っ張りだこの錦鯉

「“こ~んにちは~”というつかみの挨拶でおなじみのコンビ。史上最年長での優勝ということで、所属事務所には取材や仕事の依頼が殺到しているそう。スタッフたちの携帯電話も鳴りやまず、うれしい悲鳴をあげています。優勝を受けて急きょ、1月9日にTBS系のドキュメンタリー番組『情熱大陸』の放送も決まりました」(スポーツ紙記者)

 ボケの長谷川雅紀が40歳。ツッコミの渡辺隆が33歳のときに結成した苦労人コンビだが、北海道と東京で別々にお笑い人生をスタートさせた。

 専門学校を中退後、地元・札幌の劇団に入り5年ほど活動していた長谷川。高校の同級生に誘われ、23歳のときに札幌よしもとでデビュー。

 地元のテレビ局やラジオ局でレギュラー番組を持ち、北海道では知られた存在になる。

『週刊女性』のインタビューを受ける錦鯉

当時から倹約家でしたね。芸人仲間とハンバーガー店に入ってもドリンクだけしか頼まず、スーパーで買った安いメロンパンを食べていましたから(笑)。あとバカがつくほどお人よしで、後輩の悩みをよく聞いてあげていたのが印象に残っています」(札幌よしもと関係者)

『M-1』でも披露していた“ノリノリマサノリダンス”は、地元の情報番組でレポーターをしていたころに誕生したものだという。

「コンビを解散し、ピンになった'01年から1年間、『ハセガワフライデー』という話題のスポットを紹介するコーナーを担当。もともとは、その中で衣装チェンジをする際に踊るダンスでした」(同・札幌よしもと関係者)

 地元ではスター街道を歩んでいたものの、コンビを再結成すると、元相方に誘われ30歳で突然、上京してしまう。

「錦鯉」発掘のきっかけ

錦鯉、長谷川雅紀の崖っぷち時代

上京後、最初に住んだのは立川にある風呂・エアコン・カーテンなしの家賃3万円の8畳一間。築50年でシンクが石でできている昭和感あふれるアパートでした。上京したものの仕事はまったくなく、牛丼店で週5日、深夜アルバイトをして生計を立てていたそうです」(放送作家)

 一方、渡辺は'99年に吉本興業が運営するお笑い養成所NSC東京校の5期生として入学。今ではおバカな長谷川を正す常識人キャラの渡辺だが、養成所時代は今とは真逆の芸風だった。

「卒業前に行われた全体ネタ見せではガスマスクをかぶって登場。かなりとがったコンビがいるなと印象に残っています」(養成所の同期)

 渡辺の養成所卒業からまもなく、母親が事故死するという不幸に見舞われる。

父親を気遣ってか、渡辺さんは現在も実家に住んでいますね。実は、長谷川さんの前相方もコンビ解散後の'18年に病気で亡くなっているんです。つらい経験をしている2人だからこそ、笑いで人々を笑顔にしたいという思いがあるのかも」(前出・放送作家)

 紆余曲折を経て、現在の事務所に所属。同時期に相方を探していた渡辺が長谷川を誘い、'12年に錦鯉を結成した。

「しばらくは芸風を模索する日々が続いていたそうです。そんなとき、事務所の先輩であるハリウッドザコシショウさんに“(長谷川)雅紀はバカなんだから、バカを押し出していけよ”とアドバイスされ、大声で挨拶をし始めると、ウケるようになったそう」(お笑いライター)

ハリウッドザコシショウ

 ブレイクのきっかけを作ったザコシショウは、今回の『M-1』優勝にも大きく関わっていたようだ。

「準決勝の前にはバイきんぐの2人とザコシショウさんが錦鯉のために時間をつくり、対策を練ってあげたといいます」(テレビ局関係者)

 決勝3日前にも、事務所に小峠英二とスタッフ数名が集まり、極秘ミーティングを行う気合の入れようだった。

「'20年の決勝で披露したネタが、パチンコをやらない人には伝わりづらいと松本人志さんから指摘を受けました。そこで同じ轍を踏まないよう、小峠さんが2人のネタを最終確認。最後に“ライフイズビューティフル”と言ったほうが面白いとアドバイスしてあげたんです。その助言が、まさに優勝を引き寄せました」(同・テレビ局関係者)

 “中年の星”として輝くまでには、長い下積みと優しい先輩との出会いがあった。